心の化粧

「……芹沢先生…!」


 反射的に叫んだ更紗の声は、雑音に掻き消されずに届いたようで、堅牢な男が訝しそうに背後を振り返った。


 細められた鋭い眼光は自分を捉えるや否や、尖を失うように閑かな眼差しに変わっていた。



「何だ、碧目か。そんなみすぼらしい恰好をしておるから気付かんかったわ」


「…どこ、行くんですか?まだ宴会は……終わってないですよね…?」



 駆け寄ったのはいいものの、面と向かって何を話せば良いかも分からず。


 更紗は芹沢の大きな背中を見つめながら、その後ろに立つのが精一杯だった。



「会津が出張る宴は白けたものよ。儂は彼奴等と違い、徳川の走狗に成り下がるつもりは無いからな」


「………。」


「お前も抜けてきたんだろう?鬼は残酷なものよ。女の前で遊女を侍らすとは。流石の儂でもお梅の前でそんな事は出来ん」



 しゃがれ声でひと笑いした芹沢は、こちらを見やると目尻に皺を寄せて、痩けた両頬を緩ませていく。



「お前も帰るか?駕籠を呼んでおるから濡れんで済むぞ」


「……えっと…」


「お前も儂も、此処には無用の人間よ」



 胸懐を見透かされた気分に襲われ、気を抜けば、起こるであろう未来を無視して一緒に帰りたいという言葉が出そうになる。


 そんな女の戸惑う様子を薄笑っていた芹沢だったが、後方へ視線を這わせると舌打ちを落とした。



「芹沢先生!何方に行かれるおつもりですか?!広沢様がお待ちかねですぞ」


 少し慌てた声に後ろを振り向くと、風を切るように闊歩する近藤、苦笑いで続く山南、そして、困惑顔の遊女の姿が目に入った。



「……明里。儂が呼べと伝えたのは駕籠じゃ。いらぬ事はするな!」


「へぇ、ほんますんまへん。駕籠も呼んで居ります故…」



 芹沢の苛立った怒声に明里と呼ばれた美しい女性は、眉を下げ申し訳なさそうな表情を浮かべるが。



「明里は何も申して居りませんよ。この政変の慰労会は芹沢先生の功績あってこそです。主役が抜けられては、宴会は成り立ちません。共に戻りましょう」


 微笑んだ山南は、芹沢と目線を合わせるように膝を折って手を差し伸べようとするが、それを一瞥した芹沢は鼻先で笑うと退けるように立ち上がった。



「儂は会津藩の御荷物でしか無かろう。見え透いた嘘は無用。土方に碧目を連れ帰るとだけ伝えておけ」


「…え?!」


「屯所で酌の相手でもしろ。丁度、話したい事もある」


「……話したいこと…ですか…」


「ならば善は急げだ。市村君、芹沢先生へ酌をしてくれないか?」



 別に芹沢に酌をするくらいお安い御用である上に、自分も少し話しをしたかったので、ある意味好都合ではあるのだが。



「でも、どこで……」


「松の間でいいじゃないか。生憎の雨だが、庭から見える臥龍松は見事ですからな」


「宵が深くなれば小降りになりましょう。それまでお待ちになられてはいかがでしょう」



 不揃いな空気感に狼狽える自分とは反比例するかの如く紡がれる返答が、玄関へと響いて消えていく。


 近藤と山南は是が非でも芹沢を引き止めたいのは明白であった。


(……きっと、暗殺計画のためだよね…)



 重苦しい顔つきになる更紗を見ていた芹沢は、目線を上下に動かすと、眉を顰めたまま口を開いた。



「碧目、まさかその無様な恰好で酌をするつもりではあるまいな?」


「すみません、これしかなくて…」


「儂に恥をかかす気か。明里、着物を貸してやれ」


「へぇ、うちので宜しおすやろか。お客はん、御二階へ一緒に来ておくれやす」


「ええ!?私、ここで着替えるんですか…?」


「着替えぬのなら、屯所へ帰るぞ」



 信じがたい究極の二択を突き付けられた更紗は、熱で火照っていた顔から血の気が引いていくのを感じた。


「……どうしよ…」



 目前の美しい女性は華やかな帯を前結びにしていることからも分かるように、島原遊郭の高級遊女である。


 そんな身の丈に合っていない着物を着せられた日には、恥ずかしくて人前に立つことはできない。


 ここは暗殺計画など関係なく断るのが自分のためだと、更紗は心を鬼にして決断した。


「本当に申し訳ないですけど、着替えるのは遠慮します…」



 バツが悪そうに拒否の姿勢を取るが、近藤はニコニコと柔らかい笑みを浮かべて肩に手を置いてくる。



「否、遠慮はいらんよ!女なら誰しも憧れるものだ。折角だから着飾りなさい。何、歳には私から話しておこう」


「……ちょっと…待った…」



 有無を言わせない近藤の発言に一瞬だけその姿をイメージしてみるが、似合う似合わない以前の問題である。


 ただでさえ色気がないと馬鹿にされているのに、遊女の姿にされるのは死刑以外の何ものでもなかった。



「……無理。絶対、無理……誰にも知られたくない」


 身体が小刻みに震えた更紗は、ブンブンと首を振って断固拒否するが、仏の笑みを浮かべた山南がトドメを落としてくる。



「では、誰にも知られなければ構わないんだね。土方君は勿論、皆にも何も言わないでおこう。明里、市村君を宜しく頼む」


「山南先生からの御願い、確と承りました。綺麗なお顔したはるから、似合わはるやろうけど……髪はどないしましょうか……ちょっと堪忍え?」



 柔らかく微笑んだ明里は、傍へ近づいて白魚のような手を湿気でうねり始めた栗色の髪へと伸ばす。


 ふわりと薫る高貴な香りに思わず同じ女であっても胸が高鳴るが、突如、耳を掠めた飄々とした声に心が萎えしぼんだ。



「女髷は髪文字かもじを使うたらええ。何や面白そうやし、俺も入れて」


「……山崎さん…茶化さないで助けて…」


「なかなか帰ってこーへんから、心配して来てみたんやけど。何やえらい事なってるやんか。これはもう、諦めた方がええ」


「………。」



 クツクツと愉しげに笑う山崎に肩を掴まれた更紗は、言葉を発せないまま倒れ込むように目蓋を下ろした。


(……このまま、死ねる…)



 息が止まりそうなほどの羞恥と焦燥が波のように押し寄せては引いていく。


 断りきれなかった過去を後悔したところで未来を変える勇気もなく、ただただ時の流れに身を委ねることしかできなかった。



「太夫や無いけど、俺の好きなお福に結うてもええか?」


「へぇ、構いやしまへん。簪や櫛は輪違屋のを使うて下さい。そないに沢山は持ってきてへんのやけど……鹿の子は何色にしはりますか?」


「そりゃ助かるわ。この子は華美にすると目立ち過ぎるさかい、少ない位が丁度ええ。色は此処にあるんを適当に使うわ」


「へぇ、分かりました。ほんなら、うちは化粧の支度に入らせて貰います」



 暗晦で男女が囁き合っていた頃、更紗は髪を櫛で梳かれていく感覚を覚えつつ、何かを溶くように水ものを混ぜる音に耳を傾けていた。


 正直、心の準備はできていないが、ネガティブな言葉を安易に口にできない位には、張り詰めた空気が漂っている。


(……これから何をするんだろう。緊張する…)



 決して二人の邪魔はしないようにと黙ったまま、閉じていた目蓋をそっと持ち上げれば、暗闇でも存在感を放つような真紅の襦袢が目に映り。



「……つめた」


 更紗は熱の篭った額にひんやりと冷たい感触を感じ、反射的に肩を微かに震わせ小さく声を上げた。



「ふふ、ほんま堪忍え。刷毛はけで白粉を付けてます。お顔の後は首筋、肩、胸、背中て塗っていきますさかい」


「……すみません、どうぞ宜しくお願いします」


「そんな、かしこまらへんといて下さい。市村はんはお客はんどすえ?」



 クツリと愛らしく笑う明里と向かい合っていた更紗は頭を下げようとするが、義髪を地毛に合わせて結わえていた男が容赦なく髪を上に引っ張り上げた。



「頭は動かしたらアカン。もうちょいで出来るんや、我慢しい」


「……はい、すみません」



 山崎の珍しく真面目な声色に、更紗は冷たい空気を読むかの如く全身を硬直させ、全てが終わるその時を待つが。


(……何か、凄く重い…)



 先程に比べて頭に2リットルのペットボトル二本分程度の重量を感じ、髪にただならぬ装飾がされていくことに危機感を覚えていた。


 視界の端ではシャラシャラと音が鳴る金色の何かが散らつき、やたらと長い簪が髪に何本も差し込まれていた。



「胸は隠す為にも白粉たっぷり付けても宜しいやろか?好いた人に愛されたはるんどすなぁ」


「……へ?」



 優しく紡がれた言葉の意味が分からず、更紗は拍子抜けした顔で明里を見つめるが、暫くして言わんとしていることを理解し。


「……ああ…」



 赤襦袢をずらされ化粧を施して貰っていれば、未だ薄らと残っているあの忌々しい痕を見られてしまっても仕方のないこと。


(……見られたくなかった。)



 恥ずかしさで心が落ち込んで表情が自然と強張ってしまうが、そんなこちらの様子を察した明里は苦笑を零しながら言葉を続けた。


「すんまへん。困らせるつもりはなかったんどす。ただ…うちみたいな娼妓は好いた人にだけいうんは叶わへん夢やから。素直に羨ましゅう思うたんどす」



 明里に何と返すのが正解なのか、廓で暮らす彼女を傷つけなくて済むのか。


 新見錦に手篭めにされた自分は未遂であったにも拘らず今だ恐怖に苦しめられているが、遊女はそれが人を替えて毎日やってくるのである。


 やはりこの時代の女性は、どんな運命に立たされようとも決して負けることなく、己の人生を全うする強さを持っているのだと思わずにはいられなかった。


(私も……頑張んなきゃ。)



 あんなことで毎日熱に浮かされるひ弱な精神力では、屯所で暮らす人間として新撰組の御荷物でしかなくなってしまう。


 これから起こる事件を乗り越えるためにも、気を引き締め直そうと女は一人、背筋を伸ばした。



「はい、出来た。女髷の完成や。今宵は月明かりも無いさかい、髪も何とか誤魔化せそうやな」


 息を吐き、満足げに微笑んだ山崎に続くように、明里も柔らかに言葉を落とす。


「まぁ、素敵やわぁ。お顔が小さいからお人形はんみたいにならはりますなぁ。ほな、色を乗せていきますえ」



 明里は慣れた手つきで紅を掬い取ると、更紗の真っ白な目元に指先でそれを乗せていく。


 ふっくらとした唇を優しくなぞった指先が音もなく離れた時、艶の潜む遊女の声が耳に届いた。



「これは想像以上の別嬪はんどすなぁ。市村はん、ゆっくり目ぇ開けて下さい」


「……あ、はい」



 頼りなく灯る蝋燭の明かりに目を慣らすと、他人と見間違うほどの遊女の顔が差し出された手鏡に映し出されていた。


「…わぁ……別人だ」



 髪型の豪華さに圧倒されるが、ぽってりとした唇に塗られた違和感のある色が鏡の内で静かに煌めいてた。


 上唇は赤く色づいているのに反して下唇が玉虫色のような、何とも違和感のある発色をしている。



「……下唇……これでいいの…?」


 何となく明里には聞きにくかったため、更紗は後ろで着物の準備をしていた山崎へ小声で尋ねてみる。


「笹色紅は高級遊女の証や。よう似合うとるで。さ、着付けてしまおか」



 促されるままに立ち上がれば、山崎は開いた襦袢の合わせを正してくれ、着物を抜かりなく着付け、体重を乗せて帯をきつく締めてくれた。


 壁際で大事そうに飾られていた着物は、枝垂れ桜と鶴が描かれた控えめで美しい紺色の色打掛であった。



 山崎に肩を貸して貰いながら、松の間へと続く長廊下を歩いていく。


 まるで子どもを抱えているのかと錯覚する衣装の重みが全身にのし掛かり、意識しなくても動作はゆっくりとしたものになる。


 人とすれ違うたびに好奇な視線を浴びせられる遊女は、見世物にされた罪人のような気分に陥ってしまう。



「……やっぱ、帰る…」


「往生際が悪いなぁ。いい加減観念しいな」


「…ふぇ…無理……お母さ…」


「いつもの強気はどこいった?所作も稽古したんや。どっからどう見ても島原遊女に見えるさかい。ほら!気張りや」



 打掛越しにお尻をバシリと叩かれた更紗は情けない表情で、形の良い薄眉を下げる山崎を見つめた。


「……こんな大きい遊女いないって……バレたら私、生きていけない…」



 結わえて貰ったお福という女髷は、太夫らしい華やかな立ち髷で、挿している簪や装飾がより際立つ、泊のつく髪型ではあるのだが。


 如何せん結髪を含めると、ただでも高身長がより目立ってしまうのである。



「そんなん大丈夫やて。ほら、近藤局長が贔屓してはる新町の深雪太夫は、更紗よりもうちょい高かったように思うけどなぁ」


「……ホントに?」


「ほんま、ほんま。何やったら、今度会うたらええ。そやし、素知らぬ顔して堂々と…」


「お話しの途中すんまへん、芹沢先生がお待ちかねどす」



 松の間から出てきた明里が、自分の前まで歩めば、その姿を確かめるように、上から下まで視線を向けてくる。


 更紗は緊張を隠しきれず固まるが、微笑んで見せた遊女は手を伸ばし、花模様の織り込まれた帯に触れてきて。



「市村はん、天神からのお節介や思うて聞き流してくれて構いまへん」


「……はい」


「この帯は心の文字を象って結んでいるんどす」


「心、ですか?」


「うちの心はお客はん一心に向いて居りますという遊女の心意気なんどす。市村はん、今宵は島原の芸妓や。心を込めたお持て成しを御頼もうします」



 その言葉を噛み砕くほどに、己が恥を掻くことばかり恐れていた自分本位な思考に気づかされる。


 今宵、酌の相手をする芹沢に残された時間は、後僅かしかないのである。


 未来が変えられないように、命の期限を延ばすことはもう、叶わないのかもしれない。


 けれども、限りある時を幸せな時間に変えられるかが、更紗が今、芹沢にできる手向けなのだと感じた。


「……はい、心得ました。大切なことを教えて下さってありがとうございます」



 明里へ丁寧にお辞儀をした更紗は淡褐色の瞳を閉じ、深呼吸をする。


 最期の時を共有できる幸せを胸に感じれば、羞恥や焦燥は心からスッと消え去っていった。

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