松の間に滴る

 世界が厚い闇に閉ざされた酉の刻。



 既に角屋の大座敷、松の間にて新撰組の宴会が始まって早一刻が経とうとしているが、熱気は収まるどころか鰻登りに上昇するばかりであった。


 金のない平隊士たちは、ここぞばかりに酒を煽っては、幾人かの芸妓と共に歌えや踊れやのどんちゃん騒ぎを見せていた。


 一方、傍らでは、男だらけの大宴会というものは、素人の女が参加するような代物ではないと、視界に入る光景を静かに眺める者がいた。


「……完全に私、場違いだ」



 極楽浄土に浸る男たちを前に気分が冷えた更紗にとって不幸中の幸いだったのは、月の見えない夜であるため、いつも以上に室内が暗がりであったこと。


 至る所に置かれている行灯が闇を照らし、幻想的で妖艶な空間を演出しており、目線を落とせば、何とも非現実的な日常を味わえるのである。



「……新見の追悼など、何処へやらだな」


 盃を仰ぎながら呟く斎藤の静かな声に左耳を傾ければ、今度は膳の料理に箸を伸ばす山崎の飄々とした声が右耳に飛び込んでくる。


「元々、あんま屯所にいいひんかったしなぁ。隊士の中には顔さえ知らへん奴もおるんちゃうか」


 

 追悼というには余りにも騒がしい室内では、人々の歌声に合わせて陽気な三味線の音が響いていた。 


 着々と芹沢暗殺計画が進められているのを知る更紗からすれば、新見錦を偲ぶという名目は表向きの名称なのだと感じずにはいられなかった。


 その裏に隠された思惑は局中法度の有効性を隊士に示し、隊規を破れば切腹に処すという強烈な印象を植え付けることなのではないかと深読みをするのだが。


(……あの人の寿命って、本当はいつまでだったんだろう。)



 長州の間者だった新見は遅かれ早かれ粛清される運命にあったのだろうが───


 あの日、自分を拉致しなければ今も生きていたかもしれないのではと、胸中は複雑であった。


 しかしながら、それを確かめたところで過去は変えられない上に、今は本来の歴史を調べる手段もない。

 

 今、目の前で刻まれている現実が後世に受け継がれていく歴史となるだけ、どこか客観的な感覚で物事を捉えるようになっていた。



「更紗、大丈夫か?しんどいんやったらいつ抜けてもええんやしな」


「……それが大丈夫そうです。お酒飲んだら楽になったし……おかわり」



 右隣に空の盃を突き出して何度目か分からない酒の催促をすると、山崎は苦笑を零しながら少しだけ注ぎ入れてくれる。



「はいはい、あんま飲み過ぎたら副長に怒られるで」


「それなら心配ないですよ。ほら、あそこで綺麗なお姉さん相手にだらしない顔してるし、小汚い私のことなんて気づいてもいないでしょう」



 稀に見る土砂降りによって、袴の裾から水が滴るほどに濡れそぼった女は、仕方なく羽織と袴を脱いで濃紺の着流し姿でいた。


 たくし上げていた腰紐を解いた古着には折皺が付いており、豪華絢爛な衣装を纏う芸妓と比べると、身なりは月とスッポン状態であった。



「いつも以上に刺々しいな。悋気か」


 含みを持たすように口の端を上げた斎藤へ更紗はほろ酔い気分で微笑むと、冷ややかな視線を上座の方へと向ける。


「まっさかぁ……私には関係ないですから」



 優雅な鳳凰の襖絵の前に陣取るのは、芹沢派と試衛館派の幹部隊士たち。


 いつもなら竹を割ったかの如く二手に分かれて座るのだが、今宵に限っては互いに膝を突き合わせて酒を嗜んでいる辺り───


 刻一刻と近づく計画実行への工作に見えて、何とも気味が悪いのである。


 それぞれに綺麗どころを侍らせ、御満悦の様子で宴を愉しんでおり、遠くの下座に息を潜めて座っている自身との温度差は計り知れないものであった。


 例に洩れず土方も酌をする優しげな艶やか美人と談笑しており、その笑顔を見るたびに胸が支えるため、更紗は意識して極力見ないように心掛けていたが。


(……あんな素敵に笑えるんじゃんか……そりゃモテるよ。)



 自分に見せてくれることはない、気に入った女にだけ見せる男の顔を垣間見た気がして、いつも以上に手の届かない遠い存在だと実感する他なかった。



「……二人とも私に気を遣わなくていいですよ。上座に合流して楽しんできて下さい。せっかく綺麗なお姉さんも沢山いるんだし」


「ん、ええわ。別に俺、繕った美人と話ししたい思わへんしなぁ。濡れ鼠みたいな更紗と話してる方が面白いし」


「……濡れ鼠って……確かにそうだけどさ」



 フォローしているようでナイフで抉る言動を放つ山崎に拗ねた表情を見せると、左隣の斎藤がクツリと笑いながら空の盃を自分の前に差し出してくる。



「濡れ鼠も一応女だろう。俺は元々、幹部隊士と必要以上に馴染むつもりはない。此処で静かに呑む方が性に合っている」


「へぇ、奇遇やんか。俺も密かにそない思うてんねんけど」



 飄々とした顔つきでいる山崎から銚子を受け取った更紗は、どれだけ飲んでも顔色を変えない斎藤の盃へとそれを傾けていった。


「……前から思ってたんですけど、二人はどことなく似てますよね。雰囲気とか…何か、変わってるところとか」



 以前から感じていたことだが、二人は確固たる己のテリトリーを持ち合わせているのか、他人と一線を引いて付き合っているように見受けられた。


 そのせいか、周囲に気付かれないまま自分の気配を隠す能力が、ここでも遺憾なく発揮されていた。


 しかしながら、その気配の隠し方は似て非なるもので。


 山崎は雑踏に紛れるかの如く周囲に気配を同化させるのに対して、斎藤はまるで最初から存在していなかったかのように気配自体を消すのであった。



「……うーん、そやろか?でも、変わってんのはあんたもやろ。ま、其処があんたの魅力でもあるけどなぁ」


「変わってるところが魅力かぁ……それって褒められてるのかな」


「人によって好みの差はあるだろうがな。まぁ、俺はお前と共に居ても苦だとは思わぬが」



 遠回しな物言いをする斎藤であるが、世辞のない実直な意見をくれるため、苦では無いと言ってくれたことが素直に届いて喜びに繋がっていく。


「……斎藤さん。今、凄く嬉しかったかも。友達になってくれてありがとう」



 更紗は軽くお辞儀をすると、持っていた盃を斎藤のそれへカチリと触れさせる。



「…何だ、今のは?それよりも……俺は其処までは言ってはおらん」


「私にはそう聞こえたの。この友情に乾杯したの」



 怪訝そうな斎藤へほろ酔いの女はニィ、と砕けた笑顔を向けた刹那。



「広沢様、ようこそいらっしゃいました!ささ、此方へどうぞ!」


 大広間に響き渡る近藤の大声が耳に飛び込んできたため、思わずそちらへ視線を向けると、丁髷姿の恰幅の良い侍が促されるままに上座へと誘導されていた。



「……誰ですか?あの人」


「あの御方は会津藩士の広沢富次郎様。公用方や。政変の時に世話になったんやけど……芹沢先生との相性は抜群に悪うてなぁ」


「ん?何で芹沢先生と仲悪いんですか?」



 言葉のままの疑問をぶつけてみれば山崎は苦笑を零すばかりだが、反対隣に居る斎藤は躊躇なく淡々と話し始めた。



「広沢様は開国派で異人と親交がある。御仁と尊攘派の芹沢先生が相容れる訳が無かろう。蛤御門で足止めを食ってしまったのは、広沢様の伝達が甘かったのだと今だに芹沢先生は根に持っているからな」



 八月十八日の政変以来、新撰組の長として名を轟かせていた芹沢鴨は、会津藩士が上座に来ようとも、姿勢を正すことはしなかった。

 

 そんな芹沢と藩士の双方に笑顔を向ける近藤の姿を見ているだけで、収拾のつかない複雑な感情が、身体の中をぐるぐると巡り始めていき。



「……ちょっと、厠へ行ってきます」


「ん、広いし迷子にならへんようにな」



 酔いを感じると同時にそわそわした更紗は、眉を顰めた芹沢に一抹の不安を覚えながらも一人、松の間を後にする。

 

 万一にでも、この場で機嫌を損ねれば、暗殺計画に支障が出るかもしれないのにと、変な胸騒ぎに襲われ思わず吐息を漏らせば。 


「…あれ?……確かココを曲がった先だと思ったんだけどなぁ…」



 厠で用を足した後、無意識に曲がった角にあったのは、忙しなく人々が働く調理場であった。


 暖簾越しに聞こえる音は賑やかではあるものの、松の間とは異なる殺伐としたもので、中を覗くことさえ躊躇う熱量にそっと踵を翻す。


 更紗の瞳に映る外廊下を照らすのは、庭にひっそりと置かれて居る今にも消え入りそうな石灯篭であった。


 そこはかとない雰囲気に誘われるように、降り注ぐ雨音と合わさる三味線や箏の音色が懐かしい記憶を呼び覚まして、現実的な思考と非現実的な欲求を与えてくれる。


「……もう…帰りたい……どうせ私がいる必要なんてないんだし」



 今更、あの熱気の篭った宴会へ戻る気になれず、この時代に居続ける意義も見出せず、出口のない迷路に迷い込んでしまったような感覚に陥っていく。


 軒先から見上げた夜空は、月が見えず墨を流したかのように真っ暗闇で、人の声を掻き消すように叩きつける雨が天から地へと落ちていた。


(……結局、芹沢先生と話せなかったな。)



 思えば、芹沢鴨という男と話しをしたことなど数えるくらいしかなかった。


 どんな性格をしていて何が好きであるのか、壬生浪士組に入り、何を成し遂げたかったか、二人で話しをする機会など一度もなかった。


「……私のこと、どう思ってたのかな」


 

 思えば、芹沢鴨という男との出逢いは不思議なものだった。


 攘夷を決行しない幕府を見限り、宮家に奉公を申し出てしまうほど熱心な尊皇攘夷派だが、何故か異人の血をひく自分の存在を否定しようとはしなかった。


「……髪は切れって言われたけど……あ、でも、斬ってやるとも言われたか…」



 それなりに当たりは強かったかもしれないが、着物を仕立ててくれたりとたまに優しいところを見せてくれた過日を思い出し、自然と小さく笑みが零れる。


(……最期に……ちゃんと話したかった。)



 未だ気持ちの整理がつかない更紗は、心に渦巻くわだかまりを吐き出すように深呼吸をし、廊下の角を曲がった次の瞬間。


 今、一番会いたかった男が玄関で佇んでは、 袴を捌いて腰を下ろす姿が視界に入り、すかさず淡褐色の瞳を見開いた。

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