秋霖
先ほどまで閉め切られていた室内は、真相を隠そうと全てのものをぼんやりとくすませていた。
更紗の内で静かに高鳴る鼓動が、事態の深刻さを理解しようと躍起になっていた。
「────駄目だ。今宵は来てもらう」
紫煙を立ち上らせていた土方は、交わした視線を逸らさないままに言葉を放つ。
昨夜、何故あれだけ隊士全員を角屋へ行くように仕向けていたかなんて、聞かなくても分かる道理で。
(……だよね。私がここに残ったら困るもんね。)
更紗は予想通りの返答にがっかりすることもなく、部屋に戻って時間まで休もうと考えを切り替えるが、隣の藤堂は得心のいかない表情を浮かべていた。
「でも、土方さん。今宵はどんちゃん騒ぎになるだろうし、体調が悪い更紗を連れて行くのは可哀想だよ。ほら!左之さんも呆けてないで何とか言ってくれよなぁ?」
「…あー……そうだな、うーん…」
頬杖をついていた原田は頭を掻いて何とも気のない返事をするが、土方は煙管に口を付け、怪訝な顔つきでこちらを見据えていた。
「平助、決めんのは俺だ。別に身が怠けりゃ向こうで寝てりゃアいい。それより……具合が悪りぃなんて話し聞いてねぇぞ」
漆黒の双眸を細めて不機嫌さを露わにする男を見つめながら、更紗は違う意味でもやはり言うべきじゃなかったと後悔の念に襲われていく。
元々、人に自分の弱みを見せるのは苦手であり、件ではだいぶ迷惑を掛けてしまったので、これ以上は世話になりたくないと独りよがりな思いがあった。
「別に大したことないので大丈夫です。すみません、気にしないで下さい」
「だから、おめえの大丈夫はアテになんねぇんだよ。…たく、いつからだ」
呆れ顔で淡々と紡がれる土方の声が三日前の夜、絶望の淵にいた時に掛けられた言葉と重なり、胸がざわつき始める。
眉を寄せて無言を貫くも真っ直ぐに向けられる鋭い眼光に抗えるわけもなく、更紗は諦めの溜め息を吐き、ゆっくりと口を開いた。
「……2日前からですけど……別に病気じゃなくて…一時的なものなんで…」
事件を知らない藤堂と原田には理由は分からないだろうが、土方には精神的ダメージを受けて今だ引きずっていることがバレてしまったと、妙な劣等感を感じずには居られなかった。
そんな憂鬱なこちらの心情など微塵も読めない原田は何かを思いついたのか、切れ長の瞳を見開いて自分を見つめると腑に落ちたように口元を緩めた。
「成る程な。お前、お馬だろ。それでここ数日部屋に篭りっきりだった訳か。何だ、言ってくれりゃア腰くらい摩ってやるのに」
「……え、何ですか…お馬って?…どういう意味…?」
不意に掛けられた言葉の意味が分からないため、更紗は思案げに首を傾げるが、原田は整った顔を途端に崩して同じく首を傾げ始めた。
「…あれ?知らねぇって事は違うのか?……背も乳もでけぇのに初花も未だとは……まさか真に男の味も知ら…」
「ちょっと左之さん!
蒸された芋のように顔を赤くした藤堂が原田の傍に近づくや否や、その大口を力尽くで塞ぎ、押さえ込もうとする。
「ちょっ!平助何すんだよ!!この野郎ォ!」
「助兵衛を黙らせるんだよ!不届き者!」
小競り合いを始める男たちと距離を取った更紗だったが、藤堂の怒りように原田がデリカシーのない発言をしたことだけは理解し。
(どうせロクなこと言ってないんだろな。)
もの問いたげに二人を眺めていれば、藤堂の腕をすり抜けた伊達男はニヤリと歯を見せて、得意の笑みを浮かべていた。
「男が助兵衛で何が悪りぃんでい。これだけいいモン持ってんのに抜け切れてねぇとは、あの世の女ならではの一興じゃねぇかい」
「…あの、言ってる意味が全然分かんないんですけど。私の身体見たことないのに、また屯所で変なこと言いふらさないで下さいよ」
「いやいや!男は妄想の世で生きる性よ。その辺の女なんてまァ、背も乳もちっこいもんだぜ。更紗みてぇなナリの女は廓でもそんないねぇよな?土方さん」
「まぁ、そうかもな」
煙管を咥えたまま書状に手を伸ばす男は少しの間を置いてポツリと呟くが、その顔を見入っていた原田は、瞬く間に表情を強張らせ狼狽の色を匂わせた。
「……何でそんな意味深に答えんだよ。まさか……更紗の裸を見ちまったなんざ抜けた事言うんじゃねぇだろうな!?」
「さあな」
紙越しに投げられた土方の適当な返答に更紗は忘れていた記憶の一つが蘇り、その場で卒倒しそうになるのを既で両の手をついて耐え凌いだ。
(……そういえば…私、全部見られてる…)
新見に襲われた時にあれだけ血を浴びた筈の身体が、キレイサッパリ跡形もなく拭かれていた事実を女は未だ受け入れられないでいた。
「……遺伝なんだからしょうがないじゃん。この世ではどうだか知らないけど、あの世では私みたいな人なんていっぱいいるし普通ですから」
半ばやっつけ的に声を放つも、微熱か羞恥か判断出来ない火照りが額に集まってきてみるみる顔が紅く染まっていくのが何とも悔しい。
隠すように全員から顔を背けたところで、茶化すように笑う原田は自分の傍へとスタスタ歩いてきて。
「何だよ、照れるとァ可愛いじゃねぇか。安心なさい、心優しい左之様がお前を一人前の女にしてしんぜよう。あ、勿論、花代は出してやる」
「………。」
どさくさに紛れて遊女扱いされたことが納得いかないが、金さえあればいつでも女を抱ける環境にいるからこそ自分と感覚が違うのだと、理解を示すことにした。
ニカリと微笑む原田は、土方以上に端正な顔立ちをし、体格も筋肉質で長身であり、黙っていれば新撰組一の男前だと言っても過言ではないのだが。
(……歩く変態だもんなぁ。女の人のことしか考えてないし…)
如何せん喋ると残念な感じが拭えないので恋愛対象としては見られないが、友人としてなら愛着の湧く面白い人物なのである。
「…じゃあ、一千両ね。それで手を打とう」
「い、っせん?!一両は何となく覚悟してたけどよ!一千両なんざ屯所の金掻き集めても全然足りねぇじゃねぇかよ!!然らば、仮にだ、一両なら何処まで…」
「左之、今直ぐ腹を詰めるか」
煙管の煙を細く吐き出した土方は、苦笑を零す更紗に詰め寄る原田を一瞥すると淡々と言葉を浴びせた。
「今宵の宴でてめえも共に追悼してやる。平助、介錯してやれ」
「分かりました!あ、でも、前に左之さんの介錯はぱっつぁんがやるって言ってたから、ぱっつぁんに譲ってもいいですか?」
「別に構わねぇ」
「なら、直ぐにでも呼びに行かねぇと!」
カラカラと笑う藤堂と無表情で煙管の灰を煙草盆に落とす土方を交互に見た原田は、不満そうに大声を張り上げた。
「てやんでい!野郎ならではの戯言じゃねぇかい!」
「おめえが言っても、クスリともこねぇもんでな」
「…んな事言っても土方さんだってよ、江戸に居た頃はどっちが金を掛けねぇで吉原花魁とヤれるかって俺と張り合ってたじゃねぇかよ。しかも、帰りに恋敵に待ち伏せされて喧嘩吹っかけ…」
「…てめえ、それ以上喋りやがったら斬るぞ」
室内に新たな殺伐とした空気が漂うが、更紗はその空間をより凍らせるように、冷ややかな目線を畳に落としていく。
好きな男の女性遍歴を知ったところで後悔しか生まれないのは当然のこと、まして色男たちに限っては、落ち込むのもバカらしくなる程、好き放題に遊んでいるのは周知の事実。
「二人ともサイテー。女の敵」
更紗は原田から距離を取ると、僅かにぼんやりとする碧色の双眸を細めて、軽蔑の眼差しで二人を交互に睨み付ける。
「いやいや!俺はトシさんみてぇに只遊んでるだけじゃねぇぜ!運命の女を探してんだよ!その女と巡り会えたら廓遊びなんざ潔く辞めてやんだ!」
「易く俺を名で呼ぶんじゃねぇよ」
「何だよ、試衛館では皆にトシさんと呼ばせてた癖によ!新撰組の副長になった途端、水みてぇに冷たくなっちまってよ」
土方に嫌味を吹っかけながら立ち上がった原田は、黙ったまま苦笑いを浮かべていた藤堂の肩を抱いて、襖の方へと歩いていき。
「平助、宴会の呼び出しがかかるまで、ぱっつぁんとこ行って先に飲まねぇか。彼奴、高い酒を隠し持ってんだ。景気付けに一杯やろうぜ」
「景気付けって何のだ?未だ更紗の宴会の件が解決してねぇから、それが…」
「件は解決してんだよ。てめえら用が済んだなら、とっとと出てけ」
完全に機嫌を損ねたのか煙たがるような視線を寄越すため、更紗も怒られない内に部屋を出ようと踵を翻した刹那。
「おめえさんは、未だ話しが終わっちゃいねぇだろうに」
淡々とした土方の声が室内へと響けば、女は立ち去るタイミングを逃してしまい、畳に縫われたようにその場に取り残される。
そそくさと退散する原田と後ろを気にしながら去る藤堂を助けを乞うように視線を向けたところで、容赦なく襖は閉め切られていき。
「……二人とも薄情者め」
先程までの騒々しさが消え去ったこの部屋で、今から一体、何を話すことがあるのだろうかと、憂いが胸に影を落としていた。
(……本格的に降って来た、な。)
静寂にぽつぽつと雨音が溶け込んでいくのを聞いている内に、憂いの先にある恐怖が胸を侵していき、心が否応無しに波立ち始めていく。
「男に気を持たすような事言うんじゃねぇよ」
小さく響いた不機嫌な声色にゆるりと顔を向ければ、呆れ顔で自分を見据えていた土方と視線が交わった。
「それ、遊び人のトシさんにだけは言われたくないです」
「……別に昔のこっただろうが。今はそんな馬鹿な事しねぇよ」
「あ、私にお構いなく。弁解頂かなくて結構ですから」
不愉快そうに話す色男へ向けて他人行儀に微笑んでみるも、腹の底では嫉妬なのか焦燥なのか分からない負の感情がふつふつと湧き上がっていた。
自分の知らない過去の話しを聞くたびに、今からは想像出来ない人間味溢れる土方の姿が思い浮かび、そんな過去を知っている試衛館の男たちを羨ましく思ってしまう。
(……ダメだ、考えるだけムダ。頭切り替えよ。)
不毛な思案を払拭するようにふぅ、と熱い吐息を零せば、それを覆うような紫煙がここぞとばかりに吐き出されていく。
「下らねぇ話しは仕舞いだ。
「…いや、忙しそうだったし……直ぐに治ると思ってたんで。すみません…」
新見が死んだことで相部屋でいる理由もなくなり、自然と自室に戻った更紗は、ここ数日は部屋から出ず、傷が癒えるのを静かに待っていた。
土方も夜に覗きには来てくれるものの、新見の葬式やら墓の準備やらで日中は忙殺しており、不調を気付かれないまま今日まで過ごせていたのである。
「…未だ思い出すのか」
目先の男は手元の書状に視線を落とし、何でもないような態度で尋ねてくるため、更紗も他人事のような素振りで本音を声に乗せていく。
「……みたいですね」
あの日から闇夜に底知れぬ恐怖心を抱くようになってしまった自分がいる。
目を瞑り、意識が夢か現か分からない世界を彷徨い続ける中で、どす黒い血の海に沈んだ光景が目蓋に浮かび、否応無しに現実へと引き戻されるのである。
「落ち着くまでなら、また此処で寝ても構わねぇぞ」
「……じゃあ…今夜、ここで寝てもいいですか?」
幾らか返答に困る男からの提案の筈なのに、今後起こるであろう未来をどうしても確かめたくなり、柄にもなく従順な少女のように質問をぶつけてみる。
その反応が意外だったのか土方はチラリとこちらを一瞥すると、また手元の書状に目線を向け、感情の読めない低い声を響かせた。
「悪りぃが、今宵は無理だな」
「……何で…ですか?」
理由など分かり切っているのにわざと惚けて相手の出方を探るが、目の前の土方は自分に視線をくれることなく平然と言い放つ。
「遊郭へ行く男に野暮な事聞くんじゃねぇよ」
「……それって……」
喉まで出かけた暗殺という言葉を即座に飲み込んだ更紗は、不意に立ち上がり、障子を開いた男越しに見える雨の景色をただ静かに見つめた。
「……私じゃ…どうしようも出来ない、か」
縁側の軒先から白い雨粒がこれから起こる出来事を嘆き悲しむように、止めどなくその涙を落としては地面の色を深いものに変えていく。
(……未来なんて知らなければ良かった。)
誰にも抗えない運命なのだと自分に何度も言い聞かせなければ、これから八木邸で起こるであろう惨事に心が押し潰されそうになるが。
顔を伏せた女の思いなど露とも知らない土方は小さく笑うと、負の雨音を遮断するように、再び障子を閉め切っていく。
「どうした、おめえに悋気は似合わねぇぞ」
これから人を殺めるというのに人はこんなにも普段通りで落ち着いていられるのかと、真っ黒な感情が押し寄せては更紗の心臓を締め付けていき。
「……少し休みたいので部屋に戻りますね」
「市村」
「……苦しいので、寝てきます」
更紗は顔を見ないまま立ち上がると、男の穏やかな眼差しから逃げるように部屋を飛び出した。
日中でも明かりの届かない前川邸の板廊下は、触れた足裏から生気を奪うだけでなく、正気さえも失わせるような、恐ろしい魔窟に思えて仕方なかった。
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