涙雨
月の見えない漆黒の闇夜が濡れる。
雨はあの時犯したそれぞれの罪を思い起こさせ、時折、頬に絹糸のような雫を静かに降らせてくれる。
もうこの目に映る夜が光を失うことなどないけれど、目蓋を下ろせばいつだって一瞬で時空を超え、あの日の自分に還ることができる。
私にとってあの日は、終わりの始まりだった。
文久三年 九月十六日
八木邸にて
「昨晩、帰って来てはいたみたいだが……床に伏した親の具合が悪いようでな。暫くは看病で屯所に戻って来ないと聞いている」
黒の眼帯の弛みを引っ張り直していた平山は、玄関で曖昧な表情を覗かせる更紗を見ながら言葉を続けていた。
「用があるなら直接、お梅を訪ねたらどうだ。場所は西陣だからそんなに遠くも無い。何なら芹沢先生に詳しい住まいを聞いてやるが…」
「…あ、いえ、そこまでは大丈夫です!そんな大した用事じゃないので。教えて下さり、ありがとうございました」
慌ててお辞儀をした女はそのままの流れで踵を翻すが、行く手を阻むように続き間の奥から漂う線香の匂いが鼻腔を擽った。
「……通夜はおろか壬生寺での葬式にも来なかったろう。線香の一本でも上げてやったらどうだ。知らんかもしれんが新見はお前に惚れてたんだ。弔ってやれ」
背後から呪縛のように迫る平山の言葉が更紗の心に重くのし掛かる。
「……すみません。土方さんに呼ばれてるので急いで戻らないといけなくて…」
「前川邸の人間は薄情なもんだな」
「………すみません……今度…改めてお焼香に伺います。…失礼します」
視界の端に映り込む平山を遮るように再び頭を下げた更紗は、振り返ることなく長屋門へ向かって歩き続ける。
薄情者と罵られようが、あの男のために手を合わそうなどと言う気持ちには今だ微塵もなれない自分がいる。
忌まわしい事件から三日経ったことで、頬の腫れも引き、手首の跡も見た目には分からないくらい薄くはなった。
けれども、裸になる度に飛び込んでくる肌の赤い斑点は、悍ましい記憶を脳裏へ呼び起こさせるため、恐怖が心の奥底に潜んで、いつまでも消えずにいた。
「……やっぱり雨、か」
溜め息を吹き飛ばそうと見上げた空は、先程まで薄墨色だったが見る見るうちに黒い雲が増えていき、更紗の心へも暗い影を落としていく。
今日の夕刻から島原遊郭の角屋徳右衛門の座敷で、とりわけ盛大な宴会を開くと伝えられたのが昨日のこと。
政変の慰労会と局中法度に基づいて初めて処された新見錦を偲ぶという名目を兼ねて、急遽行われる運びとなったのだが。
(……とうとうこの日が来たのかな。)
天気の移ろいやすい秋の季節、唐突に決められた宴会、そして、今にも降り出しそうな曇天の空模様。
史実通りに事が進むのであれば、この三つが揃った日に芹沢鴨は暗殺され、新撰組の歴史が大きく動く筈である。
無論、更紗は未来を変えるつもりはないため、暗殺計画を阻止する気はない。
寧ろ、過去の芹沢の行いを思い返せば、内部から反発を買うだけでなく、御上から粛清命令が出たとしても致し方ないことだと感じている。
そんな大人の事情を理解した女の気がかりは、ただ一つ、梅の存在で───
あの日以来、梅は更紗を避けるように、屯所から姿を消していた。
自分を裏切ってしまい合わす顔がないと気に病んでいるのだろうが、当の本人は不思議と梅を恨む気持ちにはなれなかった。
なぜなら、梅にとって是が非でも守りたい芹沢鴨のために取った行動は、更紗にも理解できるものだったからで。
完全な悪になり切れず、自分と芹沢の狭間で苦しみ葛藤していたであろう梅は、出会った時のまま心根の優しい女性なのだと信じて疑わなかった。
(……芹沢先生にお梅さんのこと聞ければいいんだけど、今からどんな顔して会えばいいか……それにどこまで知ってるんだろ…)
一体、誰が真実を知っているか把握出来ない状況下で迂闊にモノを話すわけにいかず、刻一刻と迫るその時を待つことしか出来ない自分が歯痒かった。
「……はぁ……頭が重い…」
更紗は前川邸の玄関口へ歩みを進めながら、火照った自分の額に手を当て、熱い吐息を静かに零す。
あの日以来、どうも体調が優れず、不安定な微熱が続いている。
表向きはいつも通りの自分を装っていても、精神的なダメージは隠し切れず、幾ら誤魔化そうとしても身体が不調を知らせようとアピールしてくるのだ。
「……行きたくないなぁ」
「ん?何処に行きたくないって?」
不意に後方から掛けられた声にビクつきながら振り返ると、浅葱色の隊服を纏った藤堂が爽やかな笑顔を浮かべて背後を歩いていた。
「……藤堂さん。巡察終わったんですね、お帰りなさい」
「ただいま。ずっと後ろを付いて歩いてるのによ、全然気付いてくれねぇんだもん。で、何処へ行きたくないんだ?」
「ごめんなさい……実は体調が良くなくて。出来れば、今日の宴会は遠慮したいなと思って…」
脱いだ下駄を屈んで揃えた刹那、クイッと手を引っ張られ顔を向けると、心配そうな表情を浮かべる藤堂が自分を覗き込んでいた。
「大丈夫か?そりゃあ、無理しちゃ駄目だ。早く部屋で休んだ方がいい。土方さんには話したのか?」
「…え、……いや、話してない」
「なら、話した方がいい。言いにくいんだろ?俺から言ってやるよ!全員参加だって昨日、やけに煩かったしなぁ」
「…え、でも……」
「水くさいなぁ〜仲間じゃねぇか、遠慮すんなよ!流石に鬼も病人は連れてかねぇって」
両八重歯を覗かせとびきりの笑顔を見せた藤堂は、女の腕を掴んだまま板廊下をズンズンと歩いて行く。
藤堂平助という男は、更紗と一つしか年齢が変わらないうら若き美少年であるが、何事にも前向きで朗らかな性格をしている。
その晴れやかさゆえ情に脆く、件の暗殺計画の実行メンバーには選ばれないであろうと更紗は密かに踏んでいた。
(……確か、芹沢先生を泥酔させて土方さんと沖田さんが惨殺したんだっけ…)
宴会を開くと言われた昨夜から記憶の糸が勝手に手繰り寄せられ、タイムスリップする直前に読んでいた本の内容を、幸か不幸か少しずつ思い出していた。
(でも……これはしょうがない事なんだよ。この運命には逆らえないよ…)
これから起こる未来を変えられないなら、歴史が刻まれるその時をただ息を潜めて見守ることしか進む道は残されていない。
(……ある意味、お梅さんが実家に戻ってくれてる時で良かったのかも…)
堪らず溜め息をそっと零せば、待ち構えていたように柔らかい声で紡がれる優しい言霊が湿った空気を震わせた。
「善は急げだ。更紗、入るよ」
藤堂は気後れしている更紗へ茶目っ気たっぷりに微笑むと、躊躇いなく目の前の襖に指をかけていく。
「土方さんちょっといいですか?」
開けられた襖の向こうでは、いつものように煙管を咥える土方と珍しく神妙な面持ちで座っている原田が何やら話し込んでおり。
「……おお!何だ、平助か。いきなり開けんなよ!びっくりすんじゃねぇか!」
刹那にこちらを確認した原田は大袈裟な苦笑いを浮かべているが、土方は表情を崩さないままに一瞥し。
「何の用だ」
明らかに歓迎されてない声色に腰が引けてしまい、更紗はこのまま何もなかったように襖を閉めてしまいたい気分に苛まれた。
「……やっぱ、言わなくていいや」
間が悪かったのだと、藤堂の纏う浅葱色の羽織の袖口を引っ張るが、その青年は爽やかに笑い、自分の腕を引いて部屋の中へ歩みを進めた。
「土方さん、そんなに威圧しないでよ!えっと、今宵の宴なんだけど、更紗、調子悪いみたいだから行かずに屯所で休ませてやって欲しいんだ」
ニコリと笑顔を浮かべる藤堂の柔らかい雰囲気に反して部屋の空気は重く、更紗は体調不良とは一線を引く息苦しさを覚えていく。
(……この空気感、マズいな。)
いつもなら秒で返事をしてくれる原田が珍しく黙り込んでいる辺り、二人はここで何を話していたのかと余計な詮索をしてしまいそうになる。
思わず眉を顰めて土方に視線を合わせれば、感情の読めない漆黒の双眸が真っ直ぐに自分を見据えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます