闇に射す光
上品な白檀の香りが未だ眠りから醒めない女を案ずるかのように、その鼻腔をゆらゆらと
香の穏やかな薫りが脳内に作用したのか、熱の篭った頬に当てられている冷たくて気持ち良い感触が彷徨っていた意識を朧げに呼び戻し始め────
「目ぇ覚めたか?…気分はどうや?」
ふわりと落ちてきた優しい声色に起こされ、閉ざしていた目蓋を持ち上げてみると、暗がりで柔らかく微笑む山崎が女の頬へ冷たい手拭いを当てていた。
「……私……ここ…は…?」
「此処は祇園会所や。あんたは気ぃ失ってしもうてな。二刻程、寝てたんや」
「……祇園…会所…?……皆…は…?」
「そう、丁度向かいに祇園社があるんや。沖田は少しの間、此処にいてんけど屯所帰ったわ。副長は野暮用」
「……そう…ですか……ここは…八坂神社の近くか…」
土方が不在だと聞いてホッとしたのも束の間、最後に見た沖田の今にも泣き出しそうな顔が、脳裏に浮かび出されていた。
今回の事件は、間違いなく自身の迂闊な行動が招いた結果であった。
(……早く沖田さんに……ごめなさいって伝えなきゃ…)
更紗は山崎に手を添えて貰いながら、緩慢な動作で布団から身を起こして座り込むが、その身なりを見て目をパチクリさせた。
「……着替えてる…」
朧げな記憶では確か、かろうじて腰紐で止まってるだけの肌襦袢を纏っていた筈なのに、何故か黒っぽい男物の着物を身に付けており。
(……晒し切られて……血だらけだったよね…?)
新見が絶命した直後から今しがた目覚めるまでの記憶が一切ない。
もっと遡れば、八木邸で出された茶を飲んで意識がなくなってからの記憶が、時系列含めて全て曖昧である。
更紗はぼうっとした頭の回転速度を上げながら、タライに手拭いを浸す山崎に声を掛けた。
「……あの……聞きたいことがあるんですけど…」
「何や?」
「……私は…どこへ連れて行かれたんですか?」
「其処やねんけどなぁ、副長命令であんたは山緒には居てへんかった事になってんのや。だから、今宵あった事は全て忘れてしまい」
「……じゃあ、質問変えます。今、何時ですか?後……だ…誰が着替えさせてくれたんですかね?私……血だらけでしたよね…?」
「今は、夜四ツ。亥の刻や。あんたの身体拭いて着替えさせたんは、副長と俺。沖田はあかんわ、顔真っ赤にさせて帰りよったしなぁ」
小さく思い出し笑いを始める山崎を視界に入れながら、更紗はグラリと今世紀最大の眩暈に襲われ、その場に突っ伏した。
「……嘘……ぜ…全部見られた……しかも…ふ…拭くって…」
以前、梅に連れられて初めて湯屋に行った時、俗に三助と呼ばれる風呂イケメンに裸を見られ、かなり落ち込んだがそんなの比ではなく。
嫌でも顔を合わせる身近な男性に全てを見られた上、身体を拭いて貰ったとは、恥ずかし過ぎて死にたいと瀕死の心が打ち震えていた。
「……ごめんなさい…もう…一緒に暮らせません…」
「そない大袈裟に考えんでも大丈夫やて。俺も副長も女の裸は見慣れてるさかい。それに……ぱんつやっけ?こんなやつ、履いてたし。存外小さいんやなぁ」
眉を寄せ、徐に手で逆三角形を作り出す山崎を一瞥した更紗は、再び頭から布団にめり込んで、目蓋を強く閉じる。
「めっちゃ見てるじゃないですか…!……無理…死ぬ……」
人生進むも地獄、退くも地獄、立ち止まることさえ許されない今の状況下に心は真っ二つに折れ、チーンと再起不能の鐘が鳴った。
「……もう…私を視界に入れないで下さい…」
魂が抜けそうな衝撃から立ち直れない腑抜けの更紗を見つめていた山崎は、クツリと笑うと曖昧な顔つきで女の頭をふわりと撫でた。
「香を焚き染めてみたから、だいぶ血の臭いもわからへんなってる筈や。後、ほっぺたの腫れと手首の跡は直ぐに消えるやろうけど、胸の痕は暫く残りそうやさかい……悔しいやろうけど我慢しい」
「……血の臭い……ほっぺたと手首…胸の痕…」
布団に沈み込んだままその単語を反芻した更紗は、徐に起き上がると新見に掴まれ続けて赤くなった手首を確認した後、ゆっくりと両頬へ触れる。
右頬に比べて左頬は腫れている上に熱を帯びており、意識を向けると口内に微かに残る鉄の味と鈍い痛みがじんわりと湧き上がってくる。
「……胸の痕って……何…」
底知れぬ不安に押し潰されそうになりながら、男物の着物の衿元を広げて覗き込んだ刹那、突き付けられた現実に愕然とした。
暗がりでも分かる赤い斑点が胸を中心に至るところに付けられており、忌々しさに身体はカッと熱くなり、侮蔑に似た激しい感傷が鋭く心を抉ってくる。
「……やだ……き…気持ち…悪い…」
更紗は開いていた合わせを胸元へ乱暴に押し付けるが、ふわりと起きた微風が女の鼻腔へ僅かに肢体に残る鉄錆の匂いを否応無しに運んでくれて────
蔑みと興奮を覗かせた双眸から見下ろされ、その手や舌で否応なしに与えられた屈辱と失望の時が、感触として呼び起こされていく。
内腿を這いずり回る指先がその奥へと向かうのを感じて絶望を覚悟した瞬間、気づけば男の首と共に赤黒い血の海へと沈められていた。
「……ぅ……っ…!」
喉元をせり上がってきた吐き気を抑え切れず、更紗は慌てて口元を手で覆うが嘔吐の波を止めることは叶わない。
山崎は女の指の間から流れるツンとした臭いを放つ液体を即座に手拭いで抑えながら、その背中を優しく摩り続ける。
「……いらんもん全部出したらええから……全て吐き出して忘れてしまい」
喉が腫れ上がったように上手く呼吸が出来ず、何度も息が詰まるような苦しい感覚に苛まれる。
「…ゃ……苦…し……っ…」
死しても尚、自分を追い詰める忌まわしい残像に、初めて新見錦が世界にいない事実に心から安堵している残酷な感情を気づかせ、そんな己すら軽蔑した。
(……もう…何もかもが…最悪…だ……)
胸を締め付ける苦しさに耐え切れず、朦朧としたまま早くて荒い呼吸を繰り返していると、山崎が優しく更紗を抱き込み、その背をトントンと叩き出した。
「もう大丈夫やさかい。ゆっくりと息吸って全部吐き切ってみ……無理はせんでええから」
「……っ……ふ…ぅ…」
じわりと滲んでくる涙を堪えながら、山崎の肩に頭をつけて促されるままに呼吸を整えていると、不意に後方の襖戸の開く音が鼓膜に響いた。
「副長、お疲れ様です。早いお戻りで」
「……てめえ、何しやがった」
「いや…ちょっと思い出してしもうたみたいで……気分が悪うなったのを介抱してるだけです」
不機嫌に落ちてくる土方の声を聞いたところで、一体どんな顔をして会えばいいのか分からず、震えそうになる手を握り締めて、今をただ耐えるしかなかった。
「……更紗、ちょっと離すで」
女の背に絡めていた腕を離した山崎は茶器に水を注ぐと、項垂れたまま着物の合わせを掴んでいる更紗へそっと差し出した。
「口ん中、気持ち悪いやろ。ちょびっとでもいいから飲み」
喉が渇いて仕方のない更紗は緩々とそれに手を伸ばすが、手の平にあった筈の大切な朱色の簪が握られてないことを知り。
「………ない…」
唯一、心の拠り所としてそれを支えに意識を保てていたのに、こうも簡単に大事なものを失くしてしまう自分にほとほと嫌気がさし、遣る瀬なくなった。
「どうした?何が無いんや?」
「……何でも…ないです…」
落胆を抑えきれないものの、もうこれ以上、誰にも迷惑は掛けられないと山崎に返答し、気持ちを落ち着かせるように水を少しずつ渇望する喉へ流し込んだ。
「山崎、交代だ。 仕事に戻れ」
「承知……ですが、会津藩の反応はどうやったんですか?」
「……どうもこうもねぇよ。近藤さんが黒谷まで出向いて詫びを入れたとて、会津の怒りは収まんねぇんだとよ」
「なら、大分面倒くさい事を芹沢局長は宮家に吹き込んで来たんですね…」
「……どうやら熾仁親王の前で攘夷実行を決断しねぇ幕府を
「……そりゃ難儀や。副長、御愁傷様です」
更紗は山崎の憂いげな顔立ちを見つめながら、ふと、新見が極端な幕府嫌いで長州贔屓だという熾仁親王の話しをしていたことを思い出していた。
会津藩御預かりの身である新撰組の局長ともあろう者が、攘夷実現のために幕府を
これは会津藩の怒りを買ったばかりか、公家と武家の揉め事は避けたい朝廷の意向を蔑ろにする政治的意味合いも含まれてしまうため、新撰組にとって死活問題でもあった。
「ほんなら、仕事に戻るわ。今宵は此処でゆっくり休みや」
「あの……取り乱した上に…吐いて…すみませんでした……ありがとうございました…」
「そんなん気にせんでええ。ほな副長、更紗の事頼みますわ」
「……てめえに言われずとも分かってんだよ」
「……額の汗、拭いといた方がええですよ」
「うるせぇ、早く行け」
タライを持ち上げ、意味深に口の端を上げた山崎は、仏頂面を決め込む土方の舌打ちを気に留める様子もなく襖の外へと消えて行った。
途端に、祇園という賑わいをみせる歓楽街にいるにも拘らず、不思議なほど外の音が何も聞こえない孤立した静寂に包まれる。
更紗は何を話したらいいのかも分からず、居た堪れない気持ちで俯いていると、頭上からいつもと変わらない男の声が落ちてきて。
「気分はどうだ?打ち身の薬を持ってきたから、熱燗で流し込むといい」
少し離れたところに腰を下ろした土方は、以前、見たことのある小さな紙包みを懐から取り出し、刀の鞘に縛り付けていた瓢箪を外して畳に置いた。
「……すみません…口の中ざっくり切れてるんで……熱燗は飲めないです。お気遣いありがとうございます…」
「そうか、じゃあ冷めてから飲みゃあいい」
柄になく熱燗を作ってくれ、薬の効く熱いうちにと急いで持って来てくれたのかもしれないのに、素直な想いを蔑ろにして、光の届かぬ海底に沈むような孤独な気持ちに侵されていく。
本当は涙が出るほど嬉しいのに、惨めな姿を見られたくなくて、ましてや、男に襲われた可哀想な女と同情されているならそれは御免だと、価値のない自尊心が更紗の心に鍵を掛けた。
「……今夜、仕事でしたよね?どうぞ、私に気にせず行って下さい」
「今宵の仕事は片付いたんだから、俺が此処に居てもいいだろう」
「……そんな訳ないじゃないですか。毎日夜中まで仕事してるんだし…」
「……別に此処でも出来んだから…おめえが気にする事じゃねぇよ」
「そんな訳にはいきません……この位大丈夫なんで…もう行って下さい」
「市村」
「こんな事のせいで……足を引っ張るのは嫌だから…」
「更紗、聞け」
いつからか呼んで貰えなくなった自分の名前が室内へと木霊した時、目の奥が焼けるように熱くなっていた。
(……こんな日に……呼んで欲しくなかった…)
はっきりとした口調で言葉を放った土方は立ち上がるが、更紗は俯いたまま顔を赤くし、身を強張らせた。
「……明日までには…ちゃんと…立ち直りますから……今日だけは…一人にして貰えませんか?」
忘れたくても蘇る悍ましい感触が悔しくて、今日に限って名前を呼んで貰えたことが悲しくて、我慢していた涙が滲んで穏やかな世界を歪ませる。
あんな最低男に辱められる光景だけでなく、まるで所有物かのように全身に刻まれた赤い印まで好きな男に見られてしまったとは、哀れで惨めで情けなくて、やり切れなかった。
「……ほんとの理由は……こんな酷い姿…誰にも見られたくないの……分かって下さい」
泣き顔を見られないように、更紗は顔を伏せて膝の上でキュッと握り締める両の拳を、ただ静かに見つめる。
霞む視界に映るのは、死に物狂いで抗って出来た手首の赤い跡と、襦袢の合わせから嫌でも覗く、男から無数につけられた朱い痕。
恐らく殴られた左頬も赤く腫れ上がっているんだろうと、自分の無様な姿が容易に想像でき、我慢していたものが弾けて涙が溢れ出してくる。
「……下らなくてすみません……でも…一人で大丈夫なんで……行って下さい…」
無言で見据えている土方に背を向けるように座り直した更紗は、湿った声を絞り出すように呟いた刹那。
「触れるぞ」
素っ気なく落ちてきた言葉に返す間もなく、土方はその前まで歩みを進めて座り込むと、俯く更紗の身体を引き寄せて優しく抱き締めた。
「おめえの大丈夫なんざ、一番アテになんねぇだろうが」
張りのある低い声が鼓膜を揺らす中、温かな感触がふわりと慰めるように包んでくれ、一気に胸が熱くなる。
「下らねぇとは思ってねぇから……腹ん中に溜めてる事、全部吐き出せ」
耳元で囁かれた言葉に、心臓がどくり、と動き、全身の血液が逆流するような感覚に襲われる。
ずっと堰き止めていた箍を外すには十分過ぎる言葉であった。
土方の肩に顔を埋めた更紗は、止まらない涙をじんわりと着物に移しながら、涙に濡れた声でポツリポツリ、と思いの丈を話し出した。
「……あんな男に触られて…ほんとに気持ち悪かった…」
「ああ」
「……本気で…気が狂いそうだった…」
「ああ」
「……だから……死んでくれて……ホッとした…」
「ああ、そうだな」
「……でも…また……斬らせてしまって……ごめんなさい」
「俺の意志で斬ったんだ。おめえが詫びる道理なんざねぇよ」
この男は決して慰める訳でも優しい言葉を掛けてくれる訳でもない。
ただ、話しを聞いて受け止めてくれるだけなのに、それだけで闇に潜んで顔を隠していた心が射し込む光の存在を意識し出す。
更紗は暫し土方に身を預けたまま静寂の時を過ごすと、下ろしていた手をゆっくりと逞しい背中に回し、深く吐息を溢した。
(……何か…ほんとに…安心する…)
鼓膜を震わせる男の低い声も、何度も頭を撫でてくれる大きな手も、小さな頃から欲しかったのに、ずっと手に入らなかったものであった。
奥底に閉じ込めた昔の血が新たに生まれ変わろうと巡り始めたような、身体の芯から湧き出る温もりが全身を満たしていき。
「………お父さんて…こんな感じなのかな…」
目蓋を閉じたままの自分を包む感触が俄かに強まったと感じた時、溜め息混じりの低い囁きが耳元を擽る。
「あのなぁ……こんな時に言う事じゃねぇが。十しか違わねぇ俺を捕まえて父親扱いしやがるとは、良い根性してんじゃねぇか」
「……気に触ったのなら謝ります」
瞬時に伝わる得心のいかない不機嫌な色に、地雷を踏んでしまったような気がして、ぞくりと肝が冷えるが、土方は味気ない声を静寂に響かせていく。
「更紗さんよ、俺にはこんなでけぇ餓鬼は居ねぇ筈だが」
「…え……それって……小さな子どもならいるってこと…?」
言葉の裏を読んでしまった更紗は、即座に胸を押し返して訝しげな顔つきで土方を見つめるが、その男は呆れたような冷めた眼差しで見つめ返し。
「居ねぇよ」
「……何ですか、今の間は。それじゃ、いるって言ってんのと変わん…」
「俺が居ねぇつってんだから居ねぇんだよ」
「……でも…!今の…」
「うるせぇな、しつけぇ女は嫌われるぞ」
再び抱き寄せられ互いの鼓動の音色が交換できる程に密着したお陰で、更紗は別の意味で言いようのない動揺に襲われていた。
「……ち…近いです…」
「心の臓が早ぇな」
「……それ…わざわざ言わなくて良くないですか…」
痛いところを突かれたせいで羞恥に苛まれ、身体中が紅に染まるような感覚を覚えるが、ふと、ある光景が脳裏を過ぎり。
「……でも、土方さんも……心臓の音、早かったですよ」
闇の世界で包んでくれた男から伝わってきた心音は、確かに早いものであり、その力強い温もりに救われたんだと遠のく意識の中で感じた気がしていた。
「あ?」
「……助けてくれた時……すごく心臓早かった」
「気の所為だ」
土方は突っぱねるように言葉を放つが、素っ気ないながらも優しく接してくれるため、更紗は濡れた頬が自然と緩んでいた。
「やっと笑ったな。少しは落ち着いたか?」
「……迷惑かけた上に……何か…すみません」
「あんな目に遭って正気でいられる奴なんざいねぇよ。おめえが手篭めにされちまわねぇで…良かったよ」
耳の奥まで響く吐息混じりの低い声が、更紗の心臓を一際強く高鳴らせる。
じわじわと淡い想いが胸に広がるが、これ以上の優しさを貰うのは命取りだと、土方の腕を解いて距離を置こうとするが。
「あの……何か…?」
何度か腕を引いてみるも、土方は目を細めて怪訝な表情を浮かべたままこちらの手を離そうとしない。
「おめえ……また口吸われたか?」
「……何かなってますか?」
「まぁ……酷くはねぇが血が滲んでるみてぇにはな」
唐突に指摘された唇は自分が噛み締め過ぎた結果、僅かながら違和感が残るものとなっていた。
「それは自分で噛んでたからです。あの人からは、吸われたというか……入り込まれたみたいな感じだったし…」
思い出すだけで気分が悪くなり顔を顰めてしまうが、土方も同じように眉間に皺を寄せ、露骨に苛立ちを滲ませていた。
「……答え方、違いました?」
「…もういい、全部忘れろ」
「だって……口吸いの意味なんて、ちゃんとは分かんないし……てか…そんな直ぐには忘れられない…」
「ならば教えてやる。俺からでも嫌か?」
切れ長の双眸から放たれる男の色気を更紗は諸に食らってしまい、最早まともな思考さえ分からなくなってくる。
「……いや…嫌では……ないですけど……その質問は…困ります…」
更紗は身体に熱が集まり始めるのを感じながら、脳内ではそれに抵抗するかの如く相手に失礼なことを思っていた。
(……どれだけ自分に自信があるんだろう。断ったら怒るのかな…)
明らかに狼狽える様子を見せる女を見つめていた土方は、全く動じる素振りを見せずに淡々と言葉を放った。
「目ぇ瞑ってみろ」
「……え…何で…ちょっと…」
「俺が忘れさせてやる。無理にはしねぇから嫌なら断れ」
いつもは強引に仕掛けてくる癖にこんな時に限ってこちらに選択権を与えてくるなんて、この男は本当に狡いと心の中で牙を剥くが。
それを一蹴出来ないばかりか素直に嬉しいと思ってしまった矛盾に、自分の頭を小突きたくなった。
「………。」
交わしたままの視線に答えはなく、もう抗う理由も見つけられないため、更紗はドキドキしながら言われた通りに目蓋を閉じていく。
途端に、慣れた手つきで顎を引き上げられると冷たくて柔らかい感触がゆっくりと唇に伝わり、鼓動が大きく跳ねた。
何度も触れ合う唇を通して互いの温度が合わさるのが心地良く、苦しかった胸懐が段々と浄化されるような不思議な感覚を覚える。
これまで土方から与えられてきた巧みなキスとは異なるが、自分の気持ちも込められた、ここに来て初めて感じた愛のあるキスだった。
優しい口づけが終わり、そっと離れた温もりに寂しさを感じながら潤んだ瞳を静かに開けていく。
更紗は気恥ずかしさからか俯いて火照る顔を必死に隠すものの、土方は女の濡れた唇を指で拭いながら口元を綻ばせた。
「真っ赤じゃねぇか。まるで生娘だな」
「……ほっといて下さい」
完全に馬鹿にされた感が拭えないが、どう考えても太刀打ち出来ないため、言い返したい気持ちを押し込め、気付かれないように熱の孕んだ息を吐く。
目の前にいる土方歳三は、言い寄ってくる多くの女性の中でも手練手管に長けた玄人ばかりを選んで相手にしていることは知っている。
(……子ども相手のキスだよね。同情されたな。)
ジンと沁みるような余韻の残る口元を押さえていると、男は懐から朱色の簪を取り出して更紗の前へ差し出した。
「ほらよ」
「あ、それ!……あったんだ…良かったぁ…」
気付いた時には無かったため、泣く泣く諦めていたのだが、土方が預かっていてくれたのだと分かり、思わず女の口から安堵の溜め息が零れる。
「失くしたと思ってたんです。ありがとうございます」
下ろし髪を揺らしながら丁寧に頭を垂れた更紗は土方から簪を受け取ると、大切そうに胸の前で握り締めた。
「そういや…助けた時、何で簪を握り締めてたんだ?」
「…あぁ……実は、武器にしたんです。すみません…」
贈ったものが武器として使われた事実に気分を害してしまうかと、申し訳なさげに視線を合わせてみるが、意に反して土方の反応に変化はなかった。
「少しは効果あったのか?」
「相手の顔を掠って血を滲ませたくらい?…まぁ…その後、殴られましたけど」
そっと自身の左頬に触れると、未だ腫れているようで微かに痛みが走る。
反射的に顔を歪めた自分を見ていた土方は、手を伸ばして熱の篭る女の頬に優しく触れると、穏やかな表情を覗かせた。
「痛ぇのか。相変わらず色気のねぇもんだな。次は殊に先の鋭い簪を買ってやるから……もう男に付いて行くんじゃねぇぞ」
「……私…付いて行ってないです」
「言葉の綾でそう言ったまでだ。気を付けるに越した事ァねぇ」
ポンポンと無造作に頭を撫でた土方はゆらりと立ち上がると、近くにある
「茶屋くれぇしか開いてねぇが、飯でも食いに行くか」
「……そう言えば、お昼から何も食べてない」
「俺もおめえも食いっぱぐれてんだ。流石に朝までもたねぇよ。上から着ろ」
頭上から落ちてきた濃紺の羽織を手に取った更紗は、行灯の傍に腰を下ろして懐から書状を取り出す土方をチラリと見やる。
「…はい、何か…すみません」
「別に怒っちゃいねぇよ。偶には外で食うのも悪かねぇだろう」
やはり残務があるのか土方は言葉を続けながらも広げた書状を見入り、端正な顔を顰めて思案に耽り出す。
傍で見ているだけでは満足出来なくなってきた己の欲深さに気づくも、相手を振り向かせるほどの自信がある訳もなく。
更紗は想いを振り切るように視線を逸らして、男物の羽織を肩に掛ける。
格子窓から覗く祇園社は花街の提灯が飾られ妖艶で、子どもが足を踏み入れることすら躊躇う、簡単には近づけない遠い場所に思えた。
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