裏切り者の末路

 夢か現か分からぬ混沌とした感覚の中で、遥か彼方から懐かしい喧騒が鼓膜を緩やかに揺らしてくる。


 それは幼い頃、置屋の二階で寝ていた時に一階から聞こえてきた三味線や太鼓が奏でる御囃子の音色。


 時折、耳を掠める女の艶っぽい歌声や笑い声が一階をやけに遠い世界であるかのように錯覚させた。


(……お母さ…ん……)



 本当は階下へ降りて一緒に寝たいと伝えたいのだが、誰も困らせたくない一心で、気持ちの限界が来るまではギュッと身体を縮こめて我慢をしていた。


 そんな更紗の想いを知ってか知らずか、闇が濃くなると母も同じ布団に入り、愛しい我が子を包み込むようにして寝入っているのだが。



「……ん…」


 意識が徐々に戻り始めると、重かった目蓋がゆっくりとであれば持ち上げられるようになっていた。


 ぼやけた視界に映るのは、閉ざされた襖に描かれている一頭の獰猛な虎。


 今にも竹林から飛び出し襲いかかってきそうなその獣は、薄闇の中でも一際、獰猛な存在感を漂わせていた。



「もう起きたのか」


 不意に足元から声がしたため、そちらへ目線を向けると、膳の前に座る丁髷を結わえた端整な顔立ちの男が穏やかな表情で盃を仰いでいる。



「思ったより薬が切れるのは早いんだな。もう少し盛っても良かったか」


「……っ…!」



 未だはっきりとしない思考であっても、ここから離れないといけないことは十分に勧告してくれた。


(……で…出口……探さなきゃ…)



 起き上がろうとするものの、意識は白濁したままで手を付いて身体を支えなければ直ぐにでも倒れてしまいそうな眩暈が何度も襲ってくる。


「………ふ…ぅ……」



 更紗は苦しげに息を吐きながら、後方にある絵の描かれていない襖を見つけ、無意識の内にその方向へ這いつくばっていた。


 そんな女の行動をものともせず、行灯の灯りを見ていた新見は酒を傾けたまま小さく笑いを漏らす。


「しかし、芹沢自ら破滅の道を選ぶとは滑稽なもんだな。彼処まで攘夷思想が強いとは夢にも思わなかったぜ」



 男の滑らかな声が聞こえてくるが、女は振り返らずに四つん這いのまま一歩ずつ着実に前へと進んでいた。


 そんな更紗を見やった男は、切れ長の双眸を僅かに細めながら嬉しそうに口元を綻ばせた。



「なぁ、知ってるか。芹沢が慕う熾仁親王様は極端な幕府嫌いで長州贔屓なんだよ。何せ、許嫁を公方様に盗られたんだからな」


「…………。」



 新見から掛けられた言葉に反応する素振りを見せることもなく、更紗はただ真っ直ぐに前だけを見据えていた。



 新見錦が何を言いたいのかなんて、この際、自分にとっては本当にどうでも良いことであった。


 兎にも角にも、一秒でも早くこの場を離れなければ、先に続く未来は真っ暗闇でしかない。


 出口らしき襖に近づけば近づくほど、懐かしい御囃子と人々の笑い声が鼓膜を確かに揺らしてくる。


 夢と現実の境目が分からなかったが、今初めて全てが現実として一つに繋がったように思えた。


(……絶対に……下り…なきゃ…!)



 襖を開けて階段を下れば外へと繋がる扉があるのだと、これを隔てた彼方側から洩れる喧騒がまるで別世界からの救いの声のように聴こえてくる。


「……早…く…!」



 あと少しで辿り着けるところまで迫った次の瞬間、女の行く手を遮るように新見は更紗の前に座り込むと、ニヤリ、と意味ありげに微笑む。


「やっと手に入れたんだ。そんな易く逃がしはしねぇぜ」



 真っ直ぐに手を伸ばすだけでは届かないものなんて、この世には無限にあるのだと、更紗は瞬間、静かに悟った。



「……誰か…助け…っ…!!」


 畳に爪を立てて必死に抵抗するが、引きずられるままに襖との距離を離されると、男の手がシュッと朱色の帯締めを解いて帯に手を掛ける。



「初めて見た着物姿も良かったが、今宵はあんたの全てが見たい」


「…お願い!!…誰か…!来てぇ!!」



 顔を振り、懸命に叫んでみるも、喉がカラカラに乾いているせいか、思うように声を発することが出来ない。


「嫌ぁ!!…触らない…で…!!」



 力任せに手足をジタバタさせるが、背中から畳へ押さえ付けられている女の身体が刀を振るう男の力に抗える訳もなく。


 スルスルと衣擦れの音を立てて解かれた淡い鞠柄の帯が、無惨にも女の目の先へと放り投げられる。



 夕空の下、子ども達と笑い合っていた時間がまるで幻であったかのような、純粋に湧いた母性全てを否定されたような、確かに感じていた幸せが更紗の前で手をこまねいていた。


「あんたが屯所じゃ厭だと言うから、良い部屋を用意してやったんだぜ」



 力尽くで剥がした縞柄の小袖を放り投げた新見は、俄かに立ち上がると猛虎の襖絵の前に立ち、虎を真っ二つに裂くように勢い良く戸を開け放つ。


 肌襦袢だけになった更紗は肩で息をしながらも顔を向けると、妖艶な光を放つ行灯の間に敷かれた朱色の布団が目に映り、即座に吐き気を催した。


「……最…っ…低…!!」



 これはもう絶体絶命なのだと脳内に警告音が鳴り響くが、反して肉体はまるで言うことを聞いてくれない。



「…こっち来ないで…!!マジでヤダ…!」


 ゆっくりと近づいてくる男へ傍にある膳や骨董品など、目に入るものを片っ端から投げつけるが、力の入らない腕ではどうすることも出来なかった。



「そんなに嫌がるなよ。俺に抱かれたがる女だって結構いるんだけどな」


 本気で抗う姿を見つめていた新見は自嘲気味に笑みを零すと、女を抱き上げ奥の座敷へ歩いていく。



「お梅だって最初は芹沢に抱かれるのを嫌がってたのに、今じゃあんたを裏切れるまでにあの男に惚れてんだ。直ぐに慣れるさ」


 その諭すような優しい囁きに、更紗は無限に近い谷底へ突き落とされるような、終わりの見えない絶望を胸一杯に感じた。


 布団の上に降ろされ、馬乗りになった男から両腕を掴まれ頭上に押さえ付けられると、無理矢理に唇を塞がれていた。


「……んぅ……っ…!!」



 中にねじ込まれる舌の感触に爆発しそうな焦燥を覚え、反射的にそれを思い切り噛んでいく。


「……痛…っ!!」



 顔を歪めて唇を剥がすように退けた新見は、女から手を離して自分の口元へと当てていて。


 拘束から解放された更紗は動かした指先に触れた朱色の簪をそのまま掴むと、新見の顔を目掛けて力の限りに突き立てる。


 慌てて避けた新見の頬を掠めたのか、その頬に僅かな赤みの線が滲み出した。


「このアマが!!優しくしてやったら良い気になりやがって…!」



 刹那、脳を揺らすような強い衝撃と共に、燃えるように熱い痛みが女の左頬を占拠していく。


 口内に鉄の味のする温かな液体が流れ出てくるのを感じながら、再び尋常でない力で両腕を押さえ込んでくる男を、更紗は憎悪の眼差しで睨み付けた。



「新撰組の慰め者は慰め者らしく、男の相手ぐらいちゃんとしろよ」


「……本気で最低。人間のクズ」


「何とでも言え。朝まで目一杯啼かせてやる」



 新見は蔑むような冷たい眼差しを自分に浴びせたかと思えば、長襦袢の合わせを引き裂くように乱暴に開く。


 腰に差していた脇差しを抜いてきつく巻いていた白い晒しに刃を滑らせると、ゆるりと口の端を上げて微笑んだ。


「ほぅ、形も色もいいじゃねぇか。これは儲けもんだな」



 布の圧迫から解放されて膨らみが露わとなった更紗は、新見の双眸に映る哀れな自分の姿を受け入れられず、嫌悪に歪む顔を背けて歯を食いしばった。


 幾ら必死で拘束から逃れようとしても、いつものように渾身の蹴りを見舞ってやろうとしても、薬で体力を削がれた女が健全な男に敵う訳もなく。


「……お願い…だから……やめて…」



 胸に顔を埋めて手や舌を這わせる新見を退けることも出来ず、震える声で懇願するしかない己の惨めさに、今直ぐ死にたい衝動に駆られるが。


 ふと脳裏を過ぎるのは、愛次郎への操を最期まで貫き通したあぐりの痛ましい亡骸の残像であった。


 こんな悍ましい状況下にいながら、決して己の信念を曲げずに、自分の意志で命を絶った彼女の覚悟は並大抵のものではない。



(……ほんと…無力で……バカみたい…)


 あぐりの程の潔い覚悟も持てず、かと言って梅のように気持ちを切り替える強い心もない自分の不甲斐なさに、情けなくて涙が滲んでくる。



 気持ち悪さと恐ろしさで肌が粟立ち震えているのを、例え犯されようと知られてたまるかと、更紗は涙の溜まる目を強く瞑り、唇を力一杯噛み締めた。


 与えられる屈辱に耐えながら、必死で震えを堪える指先で握り締めていた簪の無機質な感触が、気が狂いそうになる意識をギリギリのところで世界へ押し留めてくれる。


(……もう…早く…終わって…)



 身体中を這っていた新見の忌まわしい手が、肌蹴た襦袢の裾から露わになっていた内腿の奥へと滑らせていった刹那。


 男の呻き声が鼓膜を掠めるや否や、跨っていた新見の重みが離れていくのと同時に身体の拘束が解かれ、半身に時雨が一気に降り注がれるような感覚を覚えた。


 溢れんばかりの鉄錆の匂いが鼻腔を満たした瞬間、耳元でゴロリ、と重量のある何かが転がる音が飛び込んできたため、女は濡れた目蓋を恐る恐る開けていく。


 涙で霞んだ視界にぼんやりと映るのは、赤黒く染まる世界で血濡れた刀を手に佇む人影と既に物体と化した男の首らしきものであった。


「…い…や……っ…」



 更紗は事態が飲み込めず、突如として現れた血溜まりの中でカタカタと震え出すが、佇んでいた人影が座り込み、新見の血に塗れた白い肢体を抱き込もうとする。


「…や…め……っ…!」



 再び恐怖を感じ、半狂乱で振り解こうと暴れるが、押し付けられた着物から漂う煙管の匂いと逞しい胸元越しに伝わる早い鼓動に、それが誰なのか分かり。


「……遅くなって悪かった」



 耳元で囁かれた馴染みのある低い声に、心が安堵したからなのかこんな姿を見られた落胆からなのか分からないが、全身の力が抜け落ちていた。



「……更紗……何て詫びたらいいか…俺が先に行かせたせいでこんな…」


 遠くからくぐもって聞こえる沖田の泣きそうな声に答えようとするも、想像以上に疲労しているようで声すらまともに出すことが出来ない。


 力なく首を横に振る更紗に自身の着ていた黒羽織を巻き付けた土方は、そのまま女を抱き上げると、沖田と山崎に向けて重々しく言葉を放った。



「新見錦は隊規違反により自ら切腹した。介錯を俺がやっただけだ。今宵、此奴は山緒に居なかった……いいか、件は口外すんじゃねぇぞ」


「……分かりました」


「……承知。それを見越して一発で新見の首を落とした副長は流石やけど……こんなんじゃ俺の腹の虫は治まらへんわ…」



 殺気を滲ませた山崎は黒装束から抜き身を取り出すと、寝転がる首の無い胴体の腹部へ思い切りそれを突き立て、ぐちゅりと音を立てながら横に裂いていく。


(……新見さん…死んだんだ…)



 肉を裂く生々しい音にさして驚くことなく、更紗はどこか他人事のように目の前で起きた現実をただの事実として受け止めていた。


(……何か……疲れた…)



 全身を包む大きな温もりに誘われるように、重くなった目蓋に抗わず瞳を閉じれば、混沌とした意識が再び彷徨い始めるのを遠くで感じた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る