雨夜の月に

 宵闇迫る天より注がれ続けた雨は、大きな水溜りをあちらこちらに作りながらも、その勢いを弱める素振りを見せてはこない。



「……結構、降っちゃってますね」


 茶屋の軒先から雫が間断なく落ちており、少しでも外に出ようものなら全身を冷たく包もうと、その瞬間を待ち構えているようである。



「困ったね、傘も無いし……早う帰らな、お更ちゃんが怒られてしまうなぁ」


 困惑顔で空を仰ぐ龍の隣で苦笑を浮かべた更紗は、眉を寄せて同じように雨を落とす天を見上げる。


「……どうしよう。走るか…」



 存外話し込んでしまったお陰で日も暮れており、これ以上遅くなると罰を与えられる可能性が高いため、妙な焦りが募っていく。


 霞む壬生村の景色を眺めていれば、見たことのある赤い和傘を差し、雨の中を颯爽と歩く着流し姿の美丈夫が映り込んできて。


「……迎えに来てくれたんだ」



 その佇まいで誰なのか直ぐに分かった更紗は、嬉しくて頬が綻んでしまうが、水も滴る男は顔を顰め、茶屋の前に歩みを進めて来るばかりであり。



「いつまでほっつき歩いてんだ。雨が本降りになる前に帰って来るもんだろうが」


「……すみません」


「何ニヤついてんだよ」


「…………。」



 収まらない喜びに口角が上がるのを無理やり指先で抑えて耐え忍ぶが、それを見ていた龍は微笑むとワザとらしく土方を見やった。



「あら、お更ちゃんが心配でお迎えに来るとは意外に可愛いらしいとこもあんのやね」


「うるせぇ。たく、帰るぞ」



 小さく舌打ちをした土方は、手に持っていた予備の和傘を更紗へ差し出すが、当の本人はそれを見つめながら小首を傾げる。



「……傘、一本だけですか?」


「おめえの分だ」


「お龍さんと鉄蔵さんのは?」


「知るかよ」


「………。」



 土方に聞いたのがそもそも間違いであったと悟った更紗は、小さく溜め息を零してみる。


 少しの間を置いて龍を見据えると、渡された白の和傘を迷いなく差し出した。



「これ、使って下さい」


「……せやかて、お更ちゃんはどうすんの?」


「土方さんに入れて貰うんで大丈夫です。ね?」



 チラリと視線を向けると、色男は降りかかった雨を手で払いながら素っ気ない態度で口を開いた。



「勝手にしろ」


「…という事なんで、是非使って下さい」


「何やごめんなぁ。ほんまおおきに」



 不機嫌な土方を物ともしないで、苦笑いの龍に傘を手渡すと、背後で気配を消して佇んでいた鉄蔵へ声を掛けた。



「甘味ごちそうさまでした!美味しかったです。ありがとうございました」


「別に構わん。次会う時は阿呆を直しちや」


「……それはお互い様でしょ」


「また来るぜよ」



 流石にカチンときた更紗は冷たく返答するも、鉄蔵は軽薄な笑みを浮かべると、雨の中をふらりと歩き出した。



「お更ちゃん会えて嬉しかったわ。鉄蔵の無礼うちからも謝る。ほんま堪忍え。ほなまたね」


 柔らかく会釈した龍は、白の和傘を差し、早足で鉄蔵の後を追いかけていく。


 二人の後ろ姿が遠ざかって行くのを眺めていた次の瞬間、視界の端で赤い和傘が開かれる。


 慌てて視線を向ければ、無表情の土方がこちらをじっと見つめていた。



「ほら行くぞ」


「すみません……では失礼します」



 自分から申し出たとは言え、いきなりの急接近にドキンドキンと鼓動が打ち始める。


 遠慮がちに傘へ入り歩き出すと、雨音に紛れて乾いた低い声が鼓膜を揺らした。


「野郎に懐かれてんじゃねぇか」



 結局、土井鉄蔵が何者か不明で、龍の働く七条新地の旅館を常宿として、日々を過ごしていることしか分からず。


「そんな事ないですよ。別に大した話しもしてないですし」



 驚いたことに、龍は彼女を取り巻く男たちの活動に殆ど関心がないらしい。


 鉄蔵はおろか、坂本龍馬が日本各地を渡り歩いて、政治活動に勤しんでることすら一ミリも知らない様である。


(……これは、暫く様子見だなぁ)



 傘から落ちる雨だれが知らぬ間に女の左肩を濡らしていたと気づいた土方は、右手で更紗の腕を掴むとゆっくりと引き寄せる。


「風邪ひいちまうぞ」



 雨の匂いに混じって男の香りが鼻を掠めていき、距離の近さに更紗は違う意味で熱に浮かされそうな危うさを感じる。


(……相合傘やばいわ。無駄に照れる…)



 動くたびに触れる距離感に言いようのない高ぶりが溢れ出すが、隣の男は何とも思わないのか味気ない態度を覗かせるばかりで。



何故なにゆえおめえが阿呆呼ばわりされてんだ」


「……ああ、才谷さんから貰った手紙を一人で読めなかったからです」



 平静を装って返答するも怪訝そうな土方は、僅かに目を細めてこちらを見やった。



「あの胡散臭ぇ男から文を貰いやがったのか」


「……貰いましたけど。そこ、そんな怒るとこじゃなくないですか」


「読めねぇなら俺が読んでやるぞ」


「ああ……結局、解読できたんで大丈夫です」



 ふぅ、と息を吐いた更紗は、高揚した気分を落ち着かせようと手紙の内容を思い出していく。


 冒頭からお喋りさんには決して見せるなと注意勧告を敷かれていたので、どんなことが書いてあるのかドキドキしたのだが。


 駄洒落メインの面白い文ではあったものの、際どい内容も織り混ざっており、未来を知る更紗からすれば新撰組の人間には見せたくないものであった。


 その一つに、天下無二の軍学者である先生の門人となり、兵庫の海側に大きな施設を作っていると書かれていて。


(……大先生って、やっばり勝海舟のことだよね)



 自分を見出してくれた大先生は大層見る目があるぞ、エヘンエヘンと書かれていたが、その先生が誰であるか気になって仕方ない。


(……龍馬さんて……今は佐幕派、倒幕派のどっちだろう…)



 最終的に倒幕派に傾く歴史であるのは分かっているが、幕府側の人間と仲良くしているらしい現状を考えれば、彼の行動指針がよく理解できない。


 できることなら新撰組と仲違いせず、このまま穏便な関係を築かせたいと、女は視界を遮る秋雨を見つめ、物思いに耽っていた。



「…うわっ!」


 不意に抜かるんだ畦道に足を取られ転びそうになるが、土方は即座に更紗の腕を片手で掴み、倒れないように引き上げる。



「おいおい、危ねぇな」


「……ごめんなさい」


「よろけやがって。餓鬼じゃァあるめぇ」



 傘を持つ左腕をグイッと身に寄せてきたため、更紗は小さくお辞儀すると好意にあやかり右手を土方の腕に絡めた。


「ありがとうございます」



 言葉と態度は素っ気なくとも、やはりその心根はとても優しいのだと、温かい気持ちが募っていく。


 まるで恋人同士のように寄り添う束の間の幸せを、女は密かに楽しんでいたが、土方はご機嫌の更紗を一瞥すると会話を続けた。



「で、文には何が書いてあったんだ」


「大したことは、書いてませんでしたよ」


「例えば、何だ」


「……例えばですか。うーん……あ、私に紹介する男性は、東男あずまおとこらしいです」



 書いてあった内容で一番どうでも良かった事柄を思い出して答えてみるも、男の反応は予想通り薄いものである。



「へぇ、会うのか」


「まぁ、今更断りづらいし。ご飯くらいならいいかなって」



 正直に言えば、この時代の出会いに何の期待も持ち合わせていないし、既に好きな人もできたので興味もない。


 けれども、坂本龍馬を困らせることはしたくないという、いちファンとしての思いで、適当にこなそうと考えていたのだが。



「……あの、別に会いたい訳じゃないので断りますよ?」


 俄かに男の不機嫌具合が増した気がした更紗は慌てて言葉を付け足し顔色を伺うが、土方は真っ直ぐ前を見たまま涼しげな表情を浮かべる。



「何で俺に言うんだ」


「いや……何か怒ってる気がしたから」


「別におめえの人生なんだ、好きにすりゃァいいじゃねぇか」


「……そうですね、すみません」



 こうもあっさり他人事の素振りを見せられると、浮遊していた心は一瞬で地面に叩きつけられる。


(……どんだけ弱いんだ、私。)



 はぁ、と息を零した更紗は、近づいてきた前川邸の前で誰かを待ち侘びる幾人かの男たちを視界に捉えた。



「誰だろ?今から出掛けるんですかね…」


「……先に行っとけっつったのに…」



 日が暮れたため、顔を識別することが難しい距離であるのにも拘らず、土方は顔を顰めて小さく舌打ちをする。


「…え?」



 更紗は首を軽く傾げて隣の男を見つめるが、そろりと女を見つめた土方は吐息を零すと徐に口を開いた。


「今宵は斎藤の部屋に行け。既に話しは通してある」



 放たれた言葉の意味を理解するのに、そんなに時間はかからなかった。


 パッと視線を逸らした更紗は、胸の奥から揺り動かされるような焦りを感じながら、頭に浮かんだ言葉を素直に紡いだ。



「……島原、ですか」


「それを聞いてどうすんだ」



 馴染みある声色なのに、突っぱねられたかの如くやけに冷たく耳に届いて、身体の中から何かが落下していくのを感じる。


「……すみません」



 土方の着流し越しに伝わっていた温もりは、まるで雨に濡れていたように触れる指先からその体温を奪っていく。


 傍にいるのに埋められない距離感が苦しくて、更紗は絡めていた手をそっと離した。


 距離を取った自分の様子に違和感を感じたのか、訝しげな顔つきの土方から顔を覗き込まれ。



「何で謝んだよ、聞いただけだろうが。手ェ離したらまた餓鬼みてぇに転けんぞ」


「……もう大丈夫です。ほら、変に誤解されてもアレだし」



 更紗は胸を締め付ける想いを押し込めて笑顔を作ると、前川邸の門前に立つ侍たちを小さく指差した。



「そうかい」


 それを見ていた土方も口元を緩めると、何事もなかったかのように前へ向き直った。



 前川邸へ辿り着くまでの間、二人に暫し沈黙の時が流れる。


 更紗の鼓膜を揺らすのは、遠慮なく降り続ける雨音と、身体中の血液を凍らせるかの如く淡々と打つ心音で。


 感傷的な気分に苛まれる中、出迎えてくれた山南の柔らかい笑みに釣られ、ニコリと微笑んだままその手を振った。



「市村君おかえり。雨に振られてしまって大変だったね」


「ただいま戻りました。すみません、遅くなっちゃって…」


「いや、大丈夫だよ。我々もこれから出掛けるのでね」



 穏やかな山南の様子はいつもと変わらないが、その隣にいる近藤は疲れた表情を滲ませながら、こちらを見やって頬を綻ばせる。



「二人で相傘とは羨ましいな。歳、ワザと更紗の傘を持って行かなかったのか?」


「な訳ねぇだろうが。此奴が人に傘を貸しやがったんだよ」


「それはお龍さんかね?いやぁ、なかなかの美人だった。是非とも一度食事にでも行きたいもんだ」


「…たく、あの女の何処がいいんだか。勝っちゃんの女の趣味なんざ俺にァ理解出来ねぇよ」



 頬を染めて笑う男を土方は鬱陶しそうな顔つきで見るが、軽く咳払いをした近藤は何かを思い出したように言葉を続けた。



「そういえば、歳。置屋へ逢状を出してなかったろう。花君で出しておいたが良かったか?東雲太夫と迷ったんだが」


「ああ、別にどっちでも構わねぇよ」


「近頃、多忙で色里に行けてなかったんだ、久々の相手が太夫なら申し分無いだろう。何、話しさえ終われば今宵は存分に羽目を外せばいい」


「まぁ、適当にするさ」



 近藤と土方の他愛のない会話が聞こえてくれば、収集のつかない負の感情に襲われ、目の奥がジンと熱くなってくる。


(……やばい。泣く、かも)



 さっきまで触れていた手が他の女性に触れるのかと思うと、密かに想うことしか出来ない自分が惨めになる。


 耐え切れず更紗は土方へ背を向け、傘から出ると、沖田の佇む長屋門へ歩みを進めた。



「やっぱ俺、屯所で留守番してます。余り気が進まないっていうか…」


「今宵は何も言わず付いて来なさい。話しが終われば帰っても構わない」


「……総司、悪いが山南さんの言う通り、今宵は来てくれるか。どうしてもお前には居て貰いたいんだよ」



 神妙な顔つきを浮かべる山南、後押しするような近藤の物憂げな声に胸騒ぎを覚え、幸か不幸か涙がぐっと押し止まる。


(……近藤さん、会津藩から何か言われた…?)



 昼間の陽気な姿とは一転して分かり易い程に意気消沈の様子を見せる近藤を、更紗は潤んだ瞳で見つめていた。


 やはり、違和感を覚える覇気のない姿に、何が考えられるのかと眉を寄せてみれば。



「朝は起こしに行ってやる。故に、斎藤に面倒かけんじゃねぇぞ」


 そろりと振り返ると、僅かに切れ長の双眸を細めた土方がこちらを見据えていた。


(……もう、構わないで。)



 切なさがじわりと胸を浸す中、報われぬ気持ちに抗うように、更紗は目線を外し、あっさりとした口調で言葉を放つ。



「子どもじゃないんだから大丈夫ですよ」


「だからだよ。ちっとは自覚しろ、莫迦が」


「……バカで結構です」



 視界に見切れた男の呆れ顔に、張り詰めていた心の糸が切れて目の前がぼやけるが、何とか意地で笑顔を貼り付けた。


「気を付けて行ってらっしゃい」



 幾らか濡れたお陰で悟られずに見送ることができ、少しばかり冷たい雨に感謝する。



「……私、よく耐えたじゃん」


 四人の姿が小さくなっていくのを眺めながら、更紗は闇空の下にゆっくりと歩みを進めた。



 良いこともあれば、悪いこともある。


 頬を濡らすのは、天から降り注がれる冷たい雨と目尻を伝う温かい涙であり。


 言動一つで一喜一憂させられる不毛な片想いを自分はいつまで続けるのかと、終わりの見えない苦悩に苛まれるが。


「……恋はするものではなく…落ちるもの、か」



 以前、山南から掛けられた言葉を思い出し、更紗はか細い声で呟く。


 堕ちてしまった恋を自分の力で制御することがどれだけ困難であるのかなんて、既に痛い程に分かっている。


 想いを自覚してから初めて男が女の元へ行く姿を見送った今日が一番辛いのだと、自分に何度も言い聞かせた。


「……大丈夫、慣れるよ」



 涙のお陰で湿った呟きは雨音に掻き消され、闇夜へと溶け込んでいったように思えた時。



「何に慣れるんだ」


 不意に頭上から降り注いでいた雨がピタリと止んだため、声のした方へと振り向く。


「…え…?」



 そこには、黒の和傘を差して自分を雨から守る斎藤が静かに立っていた。



「この様な場所で泣くとは…」


「……これは、雨、です…涙じゃない…」



 見られたのがこの男だったことに安堵した更紗は、己の意思に反して溢れる涙を抑えることが出来なかった。


「……っ……ふぅ…」



 斎藤は無表情のまま懐から手拭いを取り出すと、嗚咽をかみ殺す女の目元へ添えた。



「惚れたか」


「……惚れません」


「行くなと言えば良いではないか」


「……言いません」


「不器用な女だな」


「……それは……否定しません」



 顔を覆う更紗の頭を遠慮がちに撫でた斎藤は、溜め息を一つ落とすと男たちが消えて行った闇夜を見やる。



「今宵は仕様の無い訳があるからこそ……お前で如何どうにかなったとは思えんが……この位で泣いていては身が持たんぞ」


「……大丈夫……今日…だけだから…」



 辛うじて絞り出せた声が予想以上に酷いもので、どうにも情けなくなる。


 負の感情に押し潰されそうで身を縮こめるが、それを慰めるかのようにふわりと優しい感触が頭を包み込んだ。


「……なら、仕方あるまい。今宵は存分に付き合ってやるから、気の済むまで雨に降られるとよい」



 言葉の真意を考える余裕などないが、男の手の平から伝わるさりげない優しさが心に沁みて、余計に涙が止まらなくなる。


「……うん…ありがとう…」



 闇夜に降りしきる雨の中、冷えた身体の寂しさに震えながらも、涙に濡れた手拭いに柔らかな温もりが宿るのを感じる。


 更紗は幾らか胸の内を解放出来たことに、心から深く感謝していた。

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