芸は身の仇

文久三年 九月十三日


監察方私室にて




 秋の澄んだ空気によって透明感を増した日差しが、障子の隙間から部屋に明るさを巡らせていた昼下がり。


 非番であった幹部隊士二名は、ある色男の声かけによって、嫌がる女の所作を茶請けとしながら静かに湯呑みを傾けていた。



「豆の かずかず ちょっと 三百六十 ついた、 一イ 二ウ 三イ 四オ」



 屯所にそぐわない三味線の音色がしっとり響く中、これまた場違いな色男の艶やかな歌声が部屋の空気をより一層、変哲なものに変えている。


 歌に合わせて女はひらりひらりとまるで蝶のように扇子を舞わせると、着物の合わせの前でパチリとそれを閉じた。


 三味線の余韻を愉しむ男たちへ向けて、女は凛とした所作そのままに腰を下ろし、扇子を畳にそっと置いて頭を垂れる。



「……お粗末さまでした」


 羞恥に耐えて踊り切った更紗から漏れた声は、決して女の色っぽいものではなく、緊張から解放されたせいで力の抜けたものであった。


 パチリパチリとまばらに拍手が響く中、胡座を掻いたまま頬杖を付いていた原田が、はぁ、と大きく息を吐き切れば、ニヤリとしたり顔で微笑んだ。



「何だよ、上手ぇじゃねぇか!更紗にこんな特技があるなんて知らなかったぜ」


「本当ですね。これは近藤先生にも見せてあげたいなぁ」


「……いや…全然出来てないんで止めて下さい…」



 幾らか頬を染めた沖田と全開に頬を緩ませた原田が、決まりの悪そうな表情を浮かべる更紗を見つめていた刹那。



「その通りや。原田と沖田の御世辞を間に受けたあかんで。これでは未だお金は取られへん」


「……はい」



 ピシャリと解き放たれた辛辣な言葉に、更紗は三味線を片付け始める山崎を一瞥し、肩を竦める。


 九月に入ってから、山崎が公言通り舞の稽古をしてくれるようになったのだが、その指南は存外厳しいものであった。


 今日も例に漏れず、懇々と説教を受け自信をなくしていたところへ、男の思いつきで暇を持て余していた観客まで連れて来られる始末である。


 お陰で更紗は本来の力を出し切るどころか変に緊張してしまい、満足する舞を披露出来なかった。



「今ので自分に何が足りひんのか分かったやろ。折角、綺麗な所作を身に付けてんのに、人に魅せようという気持ちが入ってへん。早う終われ思て踊ってたんちゃうか」


「…………。」



 図星過ぎて反論の余地もない更紗は、桃漆黒色の双眸を細めて妙に色っぽく見える山崎の視線から逃れるように、畳にへにゃりとひれ伏す。


 閉じた目蓋の裏に浮かび上がるのは、二年前のちょうど今頃、稽古のたびに常々見ていた母の顰め顔であった。


 いつもは菩薩のように優しい母であったものの、芸事となれば話は別で、鬼の仮面を被るが如く滅法厳しく手習いをつけていた。


 そんな母の姿に抵抗があった更紗は芸事が嫌になってしまい、日本舞踊や三味線の稽古から遠ざかっていく。


 当時の記憶を思い出して、複雑な気分に苛まれるが、落ち込む更紗の気持ちを汲むように、頭上から落ちて来た声は飄々としながらも優しいものであり。



「まぁ、基本は出来てるんやし、後は恥ずかしがらんと気張ったらええ」


「……はい、頑張って精進します」



 あれだけ苦手としていた芸事もこの時代における仕事の選択肢の一つとして身につけて損はないと、妙に現実的に考えてしまう自分がそこにはいた。


(……全ては生きるためだもんね。)



 アドバイスを受け、深々とお辞儀をする更紗を見据えていた山崎は柔らかい顔つきのままニコリと微笑む。


「ほんなら、宜しい」



 そんな二人のやり取りを見ていた原田は湯呑みの茶を飲み干すと、後ろに手をつき畳へ長い両足を放り出した。



「別に俺ァ今でも金出せるけどなぁ。それより…初めて聞いた小唄だけどよ、歌の中身が随分と卑猥なもんだな!」


「今、歌った上方唄の事か?これは十二月じゅうにつきいう名の手毬唄なんやけど、西の遊郭では年の瀬に囃し立てて歌うんや。まさか更紗が知ってたとは思わへんかったけどなぁ」



 クツリと小さく笑った山崎は色気の孕んだ微笑みをこちらへ向けるので、更紗は姿勢を正しながら苦笑いを浮かべた。



「私の趣味とかじゃないですからね。母が芸妓だった時、年末になると必ずご贔屓さんへ一年のお礼を兼ねて披露するんですよ。だから、歌詞の意味が分からない小さな頃からこの唄は何となく知ってたし、舞も母の練習をずっと見てたから覚えたというか」




 十二月という上方唄は、京・大坂の四季の行事を読み込んだ手毬唄形式で出来ているが、内容は男女の秘め事を中心としたやや淫靡いんびなものであった。


 しかしながら、それを子どもたちが遊ぶ手毬唄にしてしまう辺り、江戸文化の真骨頂といっても過言ではないだろう。



「成る程ねぇ。いやぁ、何だ。唄に合わせて舞う更紗もそれなりに厭らしく見えちまって……こう腹の下がウズウズ…ぐぇっ…!」


 原田の戯言を潰すような窒息寸前のカエルとおぼしき呻き声が聞こえたため、訝しげにその方角へ顔を向ける。


 碧色の目に映るのは、崩れた髷を抑えながら顔を歪ませる原田とその真上から嫌悪の形相で握り拳を作っている沖田の姿であった。



「……左之さん、いい加減に更紗を変な目で見るのはお止めなさい。土方さんに言いつけますよ」


「痛ってえな!何すんだよ!!目の前で別嬪が卑猥な唄に合わせて踊ってたらそりゃ男のさがを揺さぶられんだろうが!常日頃、女とヤらねぇお前がイカれちまってんだよ!男としてちゃんと使えんのか原田のお兄さんは心配してやってんだぞ?!」



 首を傾げ茶化すような素振りを覗かせる原田を見るや否や、スッと表情を無くした沖田は脇差の柄に手を掛け、乾いた声を放つ。



「男をやめるか人をやめるか、何方にしましょうか」


「うげぇ!総司マジになんな!!悪かった、戯言だって!や、山崎!同じ男として何とか言ってやれぃ!」



 慌てて座ったまま後退る原田を眺めつつカラカラと快活に笑った山崎は、ゆらりと立ち上がると更紗の元へ歩みを進めた。



「まぁ、沖田。私闘は此処では不味いんとちゃうか?……せやなぁ、原田の言い分てとんでも無く阿呆なようで、実は当たってるとこもあるような」


「……どういう意味で?」



 その返答に更紗は小首を傾げて思案を巡らすが、傍に腰を下ろした山崎は意味ありげに口元を緩めた。



「芸舞妓は御客に呼んで貰ってなんぼや。そのためにも美しいだけやのうて、男を虜にするような艶っぽい舞も身に付けへんとあの世界では生きていかれへんのや」


「それって……色気の類いですよね?私、そういうの無いですよ」


「うん、知ってる」


「…………。」



 間のない追撃により原田に代わってバッサリと斬り捨てられ、女の尊厳が音を立てて崩れ落ちていく。


 色気がないことは自分でも十二分に理解しているつもりだが、こればかりは母親から遺伝しなかったのだから、どうしようもない。


「……じゃあ、どう足掻いたって無理じゃんか」



 更紗は半ば諦めの境地に入り、投げやりな態度を覗かせるが、栗色の頭をポンポンと撫でた山崎は、クツリと楽しげに笑った。



「せやけど、新町遊郭で女郎の格好してた時は色っぽかったんやし、要はあんたの気の持ちようやと思うんやけどなぁ。あれは切羽詰まると発揮されんのやろか」


「……思い出さないで下さい。もう忘れました」


「いやいや!あれは忘れらんねぇって!何せ乳も太腿も惜しげも無く晒しちまって…」


「原田さんやめて!今すぐ記憶から抹消して…!」



 闇に葬った筈の黒歴史が事もあろうか女の脳裏を否応なしに掠めていく。


(……ああ、このまま消え去りたい…)



 ふ、と湧いた羞恥に耐え切れず、更紗は即座に手で顔を覆って身を縮こめるが、それを慰めるかのように、優しい感触が肩にかかる。



「そないに恥ずかしがらんでええやん。あんたは未だ若いんやし、色んな経験を積んで、少しずつ女として成熟させたらええ」


「……そうなればいいんですけど」


「大丈夫や。きっと良い女になるわ」


「……先生、ついていきます」



 何なく芸事を嗜み、飴と鞭を自由自在に使い分け教えてくれる男の万能さに、更紗はいつしか自分の師匠は山崎なのだと崇め始めていた。



「いいよなぁ……俺も慕われてぇなァ…」


「左之さんが慕われるのは、来世でも難しいでしょうねぇ。真に残念です」


「総司、後で覚えてやがれ……まぁよ、俺が更紗に教えられる事といやぁ、床での良い喘ぎ…」


「そんなん、ガサツなあんたより俺の方が上手いわ。そやし、そっちも俺で間に合うてます。なぁ、更紗」



 色気の孕んだ声色と合わせて肩に添えてあった山崎の指先が、女にしか分からないように、華奢な首筋をツ、と撫でる。


 何とも言えない刺激に思わずビクッと身体が反応してしまった己の無防備さと反射神経の良さに、今すぐ消えたくなったのは言うまでもなく。



「……山崎さん、からかわないで下さい」


 羞恥の上塗りにより頬が赤く染まった更紗は、慌てて顔を伏せ、棘のある低い声で色男を牽制する。



「堪忍、堪忍。せやけど、案外こっちは色気ありそうやな」


「…ホント、やめて下さい」


「冗談やて。誰にも言わへんさかい」



 不可解な弱みを握られた感が半端なく、思わず息が薄く漏れていく。

 

 締め切られた障子を照らす日差しは、先ほどよりも強い光を解き放っていて。

 


「それで、いつ俺に見せてくれんだ?」


「…………。」


「今日も山崎に稽古をつけて貰ったみてぇじゃねぇか」



 目線を落としたままの更紗の瞳には、今しがた運んだばかりの湯呑みから湯気が立ち上っていた。


 白けた副長室内に小さく響くのは、男が茶請けとして持ち込んだ沢庵を咀嚼する音。


 触れることすら誰もしない秘密の壺は、前川邸の土間の暗がりにひっそりと置いてあった。


 唯一、目の前に座る土方歳三だけは、その壺から取り出した沢庵を輪切りにし、箸で摘まんで愛食していた。


 

「……か…勘弁してください……」


「ほう、俺には見せられねぇと」



 こそこそと手習いを始めてから一番恐れていた詰問の時が、昼下がりの茶運びのタイミングでやって来てしまった。


 太夫の舞を存分に堪能している玄人の前で踊らされるなど、罰ゲームの域を優に超えており、学び始めの素人にとっては屈辱でしかない。


「……私のはお遊戯会レベルなんで人には見せられません。是非とも本場の島原遊郭でご堪能下さい」



 更紗は頭を垂れて丁寧かつ滑らかに言葉を紡ぐが、土方は得心のいかない声色で言葉を重ねてくる。



「おめえさんの言う意味が解せねぇが、総司と左之には見せたんだろうに」


「あれは、不可抗力です。師匠が無理やり連れてきただけです」


「師匠っつうのは……気に食わねぇな」



 更紗はチッと舌打ちを落としてくる土方を一瞬だけ見やるも、一体何が気に食わないのか、理解に苦しんでいた。


(こっちは上七軒で習わせてくれないから、山崎さんに頼ってんじゃん。)



 仏頂面を決め込む土方を見据えた更紗は、意を決して重い口を開いた。



「なら、山崎さんにお願いしなくていいように、上七軒の手習い受けさせて下さい」


「問答無用」


「受けさせてくれるなら、いつでも舞をお見せしますよ」


「……駄目だ」



 土方が妥協しないことを逆手にとって挑発的な発言をしてみたものの、意外にも少しの間を置いて返答が戻ってきたことに驚く。


(……実はちょっと心揺らいだとか?危ない…踊らされるとこだった…)



 仮に綿密に計画を立てて事を運べば、男の高い鉄壁も陥落できるような気もしないでもないが、それは自分の痛み分けがあってのこと。


 まだ、相討ちする覚悟は決まっていないので、舞を匂わす発言は控えようと更紗は忙しない心中を落ち着かせようと胸を撫で下ろす。


 それを見ていた土方は湯呑みへ手を伸ばすと、張りのある低い声を室内へと響かせていった。


「今宵も斎藤の部屋へ行け」



 あの雨の日以降、既に三度ほど別室へ泊まりに行っており、それを聞いても動じない素振りが出来る程に、心は偽りの逞しさを身につけていた。



「はい、分かりました。どうぞ楽しんで来て下さい」


 更紗は複雑な女心を封じ込めてさっぱりと返答するが、そんな自分を見据えていた土方は茶を啜ることもせず、湯呑みを口から遠ざけていき。



「……別に、毎度島原へ行く訳じゃねぇぞ」


「あの、私に報告してくれなくていいですよ。聞いても仕方のないことだし」



 突き放すような言い方になってしまったと少し後悔するも、紡がれた言葉は女の本心そのままであった。


 傍で見ているだけの恋でいいと割り切った身からすれば、好いた男が他の女へ会いに行く予定など、聞いたところで負の感情しか生まれてこない。


(……あの日、首筋に赤い跡つけて帰ってきたし…ね。)



 世の中には知らなくて良いことなど、掃いて捨てる程にあるのだと悟った女は、事ある毎に目を伏せ、耳を塞いできたのだが。



「おめえはよ、俺が島原へ行っても何とも思わねぇのか?」


 吐息交じりの本心の見えない男の言葉が、塞いでいた筈の僅かな隙間から洩れて鼓膜に届き、抑えていた恋心を否応なしに揺さぶってくる。



(……今更、そんなこと言わないでよ。)


 自分なりに涙をのんで奮い立たせた覚悟を、一瞬で手放したくなるような誘惑に負けるのは御免だと、更紗は唇を僅かに噛み締めた。



「……別に思いません。何でそんなこと聞くんですか?」


 淡々と発した声は予想以上に温度のない冷たいものへと成り代わってしまい、再び後悔の念がチラつくが、過ぎた時間は元には戻らないのである。


「何でもねぇよ」



 口の端を持ち上げ、余裕すら垣間見れる表情を見せられると、胸が締め付けられるように苦しくなる。


 ほんの少しでも勇気を出して素直になれたら、違う人生を歩めるかもしれないのだと、悔いる過去の日が脳裏を埋め尽くし、後悔するなと囁いてくる。



「……ほんとは…私……」


 伝えられない想いで胸が張り裂けそうになるのを、更紗は膝の上に置いていた両の手をぎゅっと握り締めて耐えるしかなかった。


 視線を伏せて押し黙った刹那、後ろ髪に触れるような優しい声が鼓膜を震わせ、胸がドキリと波打つ。



「簪、使ってくれてんだな」


「……今日は着物だから、ちょっと使ってみました」



 桜の透かし彫りが施された結び目のある一本挿の朱色の簪は、気紛れでも土方に選んで貰えた大切な宝物である。


 気に入って付けている姿を見られたのが気恥ずかしく、隠すように簪へ手を伸ばしていくが、立ち上がった土方の長い指に自分の指先が捕まえられてしまい。



「挿しが弱ぇんだよ。落ちそうじゃねぇか」


「……ああ、すみません」



 不意打ちの触れ合いに胸が高鳴り、更紗は慌てて手を引っ込めようとするが、捕らえられた手に自由は与えてくれそうにない。


「…あの、離して貰えますか……」



 やたら意識してしまいそうになる邪な思考を押し込め曖昧に目線を送ってみるが、その男は見透かした表情を浮かべていた。



「目下、言わんとした事を言霊にしてくれりゃあァ、離してやる」


「…………。」



 その言葉の意図を考える程に、卒倒しそうな程の焦りと恥じらいが脳内を占拠していく。


(ちょ…ちょっと待って……好きなのバレてる?!)



 片思いを気づかれているかもしれないとは、生きた心地がするものではない。


 更紗は動揺で身体の芯に熱が急速に集まり、もはや平常心を保てなくなっていた。



「……な、何を言いたかったのか忘れました…」


「何焦ってんだよ。面が赤ぇぞ」



 切れ長の双眸を細めながら意味ありげに話す土方から顔を逸らすものの、自身の頬が朱く染まっていくのを止めることは出来ない。


「……違います……もう…見ないで…」



 握られている手に汗が滲むだけでも恥ずかしいのに、バクバクと打ち続ける鼓動が伝わってしまうのではないかと、尋常でない切迫感を味わっていた刹那。


「更紗いる〜?」



 緊張感のない声色が廊下に響けば、土方の舌打ちと共に汗で湿る自分の指が即座に解放される。


 次の瞬間、スッと開け放たれた襖の先には、青々とした竹筒を手に持つ沖田がこちらを見据えてニィと微笑んでいた。



「やっぱり此処だ。少し付き合って欲しい所用があるんだけど」


「OKです!直ぐ行きましょう!」



 一刻も早く部屋から脱出したかった更紗は、目にも止まらぬ速さで盆を手に取ると勢い良く立ち上がって踵を返す。



「失礼しました」


「おう」



 互いに何もなかったかのような愛想のない会話が、やけに女の耳の奥でさわさわと音を奏でていた。


 室内に差し込んでいた秋の日差しは、昼間でも仄暗い板廊下へ届くことはなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る