お龍と鉄蔵

 新たな種蒔きの時期なのか、農家の人間が腰を屈め土に命を吹き込んでいる。


 そんなのどかな田園風景を眺めながら、女二人は壬生村の畦道を歩いていた。


 この辺りは湿地帯のため、雨が降ると地面が直ぐに抜かるんでしまう。


 既に空が一面にかき曇り、空気が肌を湿らせていくため、じきに雨がやって来ることを知らせてくれた。



「……傘、持って来たら良かったですね」


 天を仰ぎながら呟いた更紗をチラリと見た龍は、柔らかく微笑むと思案げに口を開く。



「お更ちゃんに新しい恋を、なんて思うてたけど……お節介やったかな」


「……へ?」



 突拍子もないことを言い出した女を見やった更紗は首を傾げてみるも、前を見据えたままの龍は口の端を上げていた。


「お更ちゃん。今、恋してはるやろ。御相手は……土方はんちゃう?」



 その言葉に驚いた更紗は、高鳴る心臓の音が自分でもはっきり聞き取れる程に動揺し始める。



「……な…何でそうなるんですか…?」


「何やぁ、図星かいな。ちょっと鎌かけただけやったんやけど。相惚れなん?」


「……相惚れ?」


「土方はんも、お更ちゃんに惚れてはるの?」


「………それはないです……ただの私の片想いです」



 久々に会った龍にさえも心の中に閉じ込めた想いを見透かされたとは、本当に生きた心地がしない。


 そんなに好きだと言う熱情が、自分から溢れ出ているのであれば、もう屯所には戻りたくないと、胸の奥がシクシク痛むのであり。



「……そんなに私……分かりやすいですかね?」


 手で顔を覆って言葉を放つ更紗の腕に触れた龍は、寄り添うように自身の腕を回すと優しげな声色で話し出した。



「うちは女の勘で気づいたけど、分かりにくい方や思う。もっと気持ちを出していかへんと分かって貰われへんで?」


「……分かって貰わなくていいんです。これ以上の関係は望んでないので」



 自分に言い聞かせるように響かせた言葉の冷たさが、心にジンと沁み込んで鈍い痛みを与えてくる。


 想いとは矛盾しているかもしれないが、本能と理性の狭間で思案を巡らすほどに、今の関係が最良であるという結論に行き着く。



「それは何でなん?浮世の女やったら惚れた男と添い遂げたい思うもんやろ」


 目をパチクリさせて不思議そうな表情を見せる龍に、更紗は曖昧に微笑むことしか出来なかった。



 龍から発せられた言葉に、更紗が踏み出せない答えが隠れている。


 未来から来た自分は、間違いなくこの時代の女というカテゴリーには当てはまらない。


 土方歳三の人生に深く関わることで、歴史に歪が生まれる可能性も然り。


 万一にでも恋人関係になってしまった場合、いつ訪れるか分からない別離に怯える日々を過ごすのもまた然り。


(……時空を超えた恋愛って、倫理的にアウトだよね。)



 結局のところ、自分の保身ばかり考えて意気地がない己の脆弱さに、恋愛なんて以ての外だと理性が本能を封じ込めるのだ。


(……ダメだな、私。)



 自嘲気味に溜め息を落としていた更紗は、心配そうな顔つきを覗かせる龍へもう一つの本当の理由を話すことにした。



「土方さんは凄くモテる人ですし……自分だけのものにならない恋愛に苦しむ位なら、今の関係のままでいいです。片想いで充分」


「……お更ちゃんて大胆に見えて、意外と臆病なんやなぁ」


「私、大胆に見えますか?全然ですよ。小心者だし、直ぐ落ち込みますし」


「お更ちゃんと言い、鉄蔵と言い…何や強そうに見えて危なっかしくて……放っておかれへんわ」



 あの失礼極まりない男と同列に置かれてしまったことに嘲笑が漏れるが、少しは気になる存在であるため、龍の話しに耳を傾ける。



「鉄蔵はな……好いてた人に駒のように使われたらしいんや。見るに見兼ねた龍馬はんが、鉄蔵を何とかしてあげたいと気に掛けてるんやけど…」


「…あの、鉄蔵さんて一体何をしてる人なんですか?」



 見た時から気になっていた疑問であったが、龍はそれに興味がないのか甘味処の看板を見上げるばかりである。



「何やろなぁ……うちも詳しくは知らへんのやけど、用心棒とかちゃう?江戸の要人の護衛をさせはったんも龍馬はんの計らいやし」


「えっ?龍馬さんの紹介ですか!?ってことは、やっぱ、勝海舟…」


「此処の店や、入ろ」



 ニィと微笑んだ龍は、躊躇いもなく掲げられている暖簾を潜って店内へと消えていく。


 更紗も慌てて暖簾を潜ると、奥の座敷で不貞腐れた顔を浮かべた鉄蔵が団子を頬張っていた。



「おまんらぁ来るの遅いやか。待ちくたびれちゅう」


「堪忍え鉄蔵。そないうちらがいいひんくて寂しいしとったんか」


「…ふん、ほがながじゃあ無いぞ」


「ほんま、素直な子や無いねぇ」



 成人男性とは思えないような子供っぽい態度を見せる鉄蔵を軽くあしらいながら、龍はその傍へ腰を下ろす。


 二人の関係性に苦笑を覚えながらも更紗も座ろうと腰に差していた短刀を鞘ごと引き抜いた刹那。


「おんし、人を斬るのか」



 見たことのない鋭い目つきで見上げてくる鉄蔵の形相に面食らうも、更紗は落ち着いた声色を放ち、静かに腰を下ろした。



「斬りません。護身用に持ってはいますけど、抜いたことはないです」


「……勝先生といい、桂先生といい…坂本さんも人を斬らんとゆうが、おまんもか」



 はぁ、と深い溜め息を吐いた鉄蔵は、くちゃくちゃと音を立てて団子を食していくが、更紗は男から発せられた言葉が頭から離れない。


「…えっ……ちょっと待って…」



 胸の鼓動がばくばくと盛大に高鳴り、自分の声が訳もなく震えている。



「あなた、まさか……新堀さんと知り合いなの?」


「何じゃ、おまんも知り合いか。世間は狭いもんやき」


「……嘘でしょ…最悪だ……」



 茶屋の看板娘に注文をしていた龍がチカチカと点滅するように視界が狭まっていく。


 鉄蔵の他人事のような軽い声が、更紗の脳内で恐ろしいほど木霊していた。


(……新堀さんと知り合いって……この人何者?)



 新撰組が血眼になって探しても見つけられず、更紗も今後、接触しないと心に誓ったのに、こんな所で桂と繋がりが出来るとは、正しく青天の霹靂である。


 それ以上に、土井鉄蔵と自分の共通点が坂本龍馬の友人であること、桂小五郎と知人であること、という信じられない事実に、重い目眩を覚えた。



「……じゃあ、鉄蔵さんは…新撰組の敵ですか?」


 他の客が離れたところにいるのを確認した更紗は、無表情の鉄蔵へ思い切って尋ねる。



「そうじゃったらおんしはどうする?わしを新撰組へ突き出すか?」


 団子が刺さっていた串をぺろりと舐めた鉄蔵は、仄暗い双眸で更紗を見やると碧色の瞳を刺すように見つめ続ける。



 仮にこの男が桂小五郎であったとしても、歴史を知る未来人が密告していいものなのかという疑念は拭えない。


 新見が間者であった件を土方に伝えた行為自体、果たして正解だったのか、更紗の中での結論は出ていなかった。



「例え、そうだとしても……今は、突き出そうとは思ってません」


「おまんもへごな女だな」



 曖昧な顔をした更紗を見据えていた鉄蔵は品なくひと笑いすると、持っていた串を皿へ放り投げた。



「安心しちょき。今のわしは敵でも味方でも無いやか。まぁ、何を信じればえいがか分からん阿呆やきな」


「……鉄蔵、詳しく知らへんうちが言うのも何やけど、龍馬はんをちゃんと信じてみたらどうや」


「……坂本さんにゃ良くして貰って感謝しちゅう。けんど、先生を裏切る事は出来やぁせん。やき、わしはどっちにもつかぇい」


「……けどやなぁ…」


「ああ!もうむつこいぞ、お龍」



 面倒臭そうに溜息を落とした鉄蔵は、茶をズズズと音を立てて啜り、けろりとした表情で龍と更紗を交互に眺める。



「この女に渡すもんがあるんじゃろ?はよぅ渡せよ」


「……そうやった。龍馬はんから文を預かってきたんや。お更ちゃん、はいどうぞ」



 ふぅ、と息を吐いた龍は着物の合わせから文を取り出して、更紗の目先にそれを差し出した。


「……市村更紗殿……って…ヤバイ…これは嬉しいかもしれない」



 宛名を読み上げた更紗は、先ほどまでの不穏な胸騒ぎが嘘のように、子どもみたいな嬉々たる表情を露わにする。


 歴史上の人物で一、二を争うほど好きな坂本龍馬から文を贈られたとは、タイムスリップにも意味があったと、喜びを噛み締めていた。



「……何て書いてあるんだろ。私に読めるかな…」


「龍馬はんお更ちゃんに会いたがってはったけど、何や忙しいみたいで文をしたためはってね。字が読めへんのやったら、うちが読んであげるよ」


「そんな…嬉し過ぎます……一緒に読んで貰っていいですか…?」



 間違いなく市村家の家宝となるであろう坂本龍馬からの手紙を絶対に破るまいと細心の注意を払って開ければ、自分より先に龍が覗き込んでいた。



「……この文は極大事な事…斗?にて、けして……べちや…?」


 個性的ながらも意外と読みやすい字体であったため、更紗は声に出して読み進めるが、やはり途中から分からず、小首を傾げる。



「……ばかりにて、けしてべちやべちやシャベクリにハ、ホヽヲホヽヲのいややの、けして見せられぬぞへ…って書いてあるなぁ」


「……どういう意味ですか?」


「この手紙は、大変大事なことばかりやから、決してぺちゃぺちゃお喋りな人に見せてしもうたら『ホホウ、ホホウ』の『嫌やのう』といった反応が返ってくるやろうから、決して見せてはあかへんよって事や」


「へぇ……何か、龍馬さんぽいかも」



 茶目っ気たっぷりに書かれた冒頭に、龍馬の性格が表れている気がして、自然と笑みが零れてしまう。


 そんな更紗の表情を眺めていた鉄蔵はニヤリと片八重歯を覗かせると、からかうような声を響かせる。



「文も満足に読めんとは、おんしもなかぇかの阿呆じゃき」


「アホで結構です。ほっといて下さい」


「こら鉄蔵!お更ちゃんに何て事言うの!!あんたも未だちゃんと読まれへん…」


「お龍さんいいです。次、読み進めましょう!」



 今、優先すべきミッションは、鉄蔵を怒ることではなく、坂本龍馬から貰った手紙を読破することである。


 鉄蔵の存在を切り捨て、真剣な眼差しで文をたどたどしく読む更紗の姿勢を、龍は隣で微笑ましく見つめていた。


 ポツ、ポツと軒を打つ雨は、やがて京の町全体を覆うように、サァサァと音を立てて降り注いでいた。

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