絵描きの字書き

文久三年 八月上旬


土方副長室にて




 天高く晴れる空は、湿った夏の匂いを消すようになり、日暮れまでからりとした初秋の空気を届けてくれるようになった。


 頬を撫でるのは、日除けの簾から流れ込む涼やかな風で、優しく奏でる風鈴の音がいつしか季節外れに思うようになり。


「…では、その位置から名を連ねていこうか。まずは、芹沢鴨、七草の芹に…」



 文机へ向かう更紗は、山南の指示通り、巻き物のような書状へ浪士組の隊士たちの名前を書いていく。


「……芹……澤……鴨、と…」


 

 毛筆はやり直しのきかない一発勝負だからこそ、普段味わえない緊張感を与えてくれる。


 どこの誰に出す書類なのかも分からないが、手負いの男が付きっきりで漢字を教えてくれる状況が、筆を握る手に薄らと汗を滲ませてくれ。



「市村君が楷書を手習いしていたと分かって良かったよ。私が怪我をしてしまってから公文書の作成が滞っていたんだよ」


「……そんな大事な書状を、私なんかが書いていいんでしょうか…?」


「此処では楷書を習得している者が殆ど居ないからね。流石に普段の字で綴る訳にもいかないから、土方君も安堵していたよ」



 隣に座る山南の苦笑交じりの声を聞きながら、更紗は間違えないようにと、気を張ったまま筆を走らせていく。



「……楷書って、特殊文字なんですか?土方さんの書くミミズの這ったような字の方が、よっぽど難しい気がするんですけど」


「ミミズの這った字か……本人が聞いたら怒りそうだね。あの字は草書といって、我々の綴る常用字だよ。まぁ、土方君は殊に達筆ではあるがね」


「へぇ……あそこまで字を崩されると何書いてるのか……サッパリだし」



 今でこそ楷書が一般文字として認識されているが、これは明治政府が正式に公文書の文字に採用した事で学校教育にも取り入れられ、後世に引き継がれているからである。


 江戸時代において、武家出身者などが教養に楷書を会得する事はあったが、百姓出である近藤や土方には機会も無く、専ら草書を使うか行書を使用していた。


 しかしながら、畏まった公文書にはどうしても必要不可欠となり、唯一、楷書を会得していた山南が役割を一手に担っていたのだった。



「───失礼」


 音もなく襖が開くと同時に廊下を漂っていた空気が一気に吹き込めば、髪が揺蕩うように長く垂らしていた和紙が、宙へと舞うように浮き上がる。


 慌てて筆を書状から離した更紗は、遠慮のない足取りで部屋の中へと入ってくる侍を一睨みするように、ぐっと眉間に皺を寄せ。



「…もう、永倉さん。もう少しで紙が墨だらけになるとこだったじゃないですか」


「おいおい、俺ァ何も悪くねぇだろうが。文句は荒ぶる風神様に言ってくれ」


「じゃあ、荒ぶる風神様をここに連れて来て下さい」


「更紗、そのしかめ面に減らず口、この部屋の主人に似てきちまったんじゃねぇか」



 女を封じるかの如く睨み返し、仁王立のまま見下ろす永倉に、山南はゆるりと視線を上げて、微笑みかける。



「永倉君は何用で此処に来たんだい?」


「山南さんに急用だ、近藤さんと土方さんが呼んでるぜ。飛脚から預かった文の件で…」


「分かりました。市村君、少し席を外すので、そのまま待っていてくれるかな?」


「あ、はい。分かりました」



 柔らかく微笑んだ山南は左腕を庇いながら立ち上がり、落ち着いた足取りで永倉に続いて部屋を後にする。



 岩城升屋事件から丁度一ヶ月ほど経ったが、見た限り、山南は日常生活を支障なくこなせる程度には回復していた。



 右手を使う分には何の問題もないように見受けられるが、以前のような綺麗な字は書けないからと、更紗の公文書作成の教育係を申し出てくれたのだ。


 お陰で失敗したからとて、いつものように怒鳴られることも無く、実に平和に業務に打ち込めていた。



「……暇になっちゃったな」


 更紗はふぅ、と息を吐くと書状を文机の端に置き、横に重ねられていた引札ひきふだに手を伸ばす。



 引札とは江戸時代における一枚刷りのチラシ広告のことであり、土方が今回の相撲興行の集客のためにと、印刷屋に作らせたものの余りであった。


 相撲の番付と白黒の力士の墨絵が載っており、手持ち無沙汰であった女は、思いつきで模写して時間を潰すことにし。


「……絵を描くの、いつぶりだろう。ちゃんとできるかな…」



 書き損じた白紙を一枚手に取ると、引札に印刷されている取り組み中の力士二名を見つめ、徐に輪郭を筆で描いていく。



 日本画のタッチは独特で、西洋絵画よりも単調であるように見えるが、実はシンプルさから溢れ出る大胆かつ迫力のある表現力の高さに、更紗は以前より惹きつけられていた。


 幕末期において日本画に魅了されているのは未来から来た更紗だけでなく、異国の地のフランスに住まう、かの有名な画家、ゴッホもその一人であった。


 印象派画家の中でも彼はとりわけ強くジャポニズムの影響を受けており、幕末・明治期においては、およそ500点ほどの浮世絵を収集していた。



「…お相撲さんの廻しは、グレイで表現しようかな…」


 周囲に人の気配がないことを確認するや否や、勝手に引き出しから新しいすずりを取り出して水を少し注ぎ入れ、墨汁を付けた筆を混ぜる。


 即席の薄墨で筆の毛質を生かしながら描こうと試みるが、思うように上手くいかず、廻しを塗り潰すように筆を滑らせていき。


「…うーん、どうやったらいいかな…」



 なかなか良い案が浮かばないため、中途半端な絵の下に横書きで 大相撲で候 と、ふざけ書きながら頬杖をついて思案にあぐねていた刹那。



「てめぇ…何、人の部屋で独り寛いでんだよ」


「…あ、今日は、お早いお戻りで…」



 反射的に背後を振り返れば、端正な顔をしかめた土方が襖に手をかけ、こちらを睨みつけていたため、咄嗟に落書きした紙を手の内に隠そうとするが。



「おめえ……何を隠そうとしてんだ」


「いや……何でも…あ、それは……」


「候で…撲相大…つうのは…」



 眉間に深く皺を刻みながら取り上げた落書きを凝視する土方の傍へ、入室した近藤がニコニコと笑いながら近づいていく。



「何だ歳、また新しい引札を頼んだのか?」


「否、俺が頼んだのは一つだが……まさか、おめえがこれを?」


「…さぁ?どうでしょう……」



 更紗は返す言葉が見つからず、怒られたくない一心で目を泳がせるが、土方は落書きから視線を逸らさないままに、呆れ声を放つ。



「…たく、妙な所で器用なもんだな」


「え、…」


「文字を横に書くのは、京でもおめえくれぇだろうよ」


「えっ?横書きありませんか?八木邸にある掛け軸は文字が横並びだし…」



 土方の淡々とした言葉に首を傾げる更紗を見て、歩んできた山南が土方の持っている紙を確認し、クツリ、と頬を綻ばせ。



「紙が横長の場合においては、一行に一字ずつ書いていくけれど、右から連ねていく故、縦の書きものになるんだよ。だから、市村君が書いた文字をそのまま読めば、候で撲相大 だ」


「へぇ…そうなんですか。勉強になりました」



 腑に落ちたように何度も頷く更紗であったが、土方と山南の言葉を少し訂正すれば、幕末期にも横書きは存在していた。


 横書きは異国の言語を真似て幕末から明治初期に生まれているが、当初は外国語を知るインテリ層の左からの横書きと、土方や山南のように外国語を知らない庶民の右からの横書き(縦書き)があった。


 更紗はそんな事情を知る由もなく、未だこの時代に横書きは流通してないんだと、庶民である彼らの言葉を真に受けていた。



「それにしても、絵の才が素晴らしいね。絵師を目指していたのかい?」


「…いえ、全然そんなんじゃ無いです。絵は好きですけど、成り行きで二年くらいしっかりと学んだので、そこそこ描けるようになっただけです」



 絵に興味を持つきっかけを作ってくれたのは、元恋人の存在であり、彼の傍に居たいがために努力した結果、自分も美術の世界へどっぷり浸かっていた。


 彼との関係が終わってしまった今でも、絵を描くことが嫌いにはなれず、やはり、真っ白な世界を自分色に染めていく楽しさは心を豊かにさせてくれる。



「一体どんな成り行きになりゃあ、こんな絵が描けるようになんだ」


「いやぁ、それはですね……どうでしょうね…」


「おめえ……未だ何か隠してんじゃねぇだろうな」



 訝しむように殺しの流し目を寄越してくる土方に背を向けた更紗は、拳が入りそうなくらいの大口を開けて笑う近藤に視線を移していく。



「まぁ、乙女とて答え難きこともあるだろう。いいじゃないか、歳!それにしても……更紗の絵と印刷屋の引札に大した違いは無いなぁ。壬生浪士組に絵師が居るとはたまげたもんだ」


「そんな近藤先生、止めて下さい…!こんなの落書きですし、人様に見て貰うものでは……さっき力の無さを実感したとこなので…」


「五尺でいい、大きい絵は描けるか?」


「五尺…?」


「おめえの背丈より小さくていい」



 再度、落書きに目線を落とした土方が唐突に会話へ割り込むので、更紗も男の手の内にある未完成の力士の絵を見つめていき。



「……描けない事はないですけど……何でですか?」


「相撲興行の看板を描いて貰おうかと思いついてな」


「ええ!いやいやいや、絶対無理です!私、ド素人ですし!丁重にお断りします」



 思いもよらない提案は想像の斜め上を行っており、こんな形で自分の趣味が隊内に露呈するのは、恥ずかしさ以外に得るものはない。


 更紗は首を横に振り拒否感を露わにするが、土方は企みを孕んだ切れ長の双眸でこちらをチラリと一瞥し。



「否、落書きでこれだけ描けりゃ大したもんだ。七日間の興行中に掲げられる高札こうさつのようなもんでいい。絵は引札と同じで色だけ好きに付けろ」


「成る程!歳、それは良い考えだ!印刷屋に見積もって貰ったが高くて諦めたんだよ。局長の私からもお願いする。更紗、是非とも描いてくれないか?」


「近藤先生まで止めて下さい!山南さん…!二人に何とか言ってくれませんか?!」


「いやぁ、この二人を論破する技量は私には無いよ。面目ない、市村君」



 更紗は隣に佇む山南の裾にしがみついて助けを求めてみるも、その男は頬を掻いて苦笑いを浮かべるばかりで、全く頼りにはならず。


「件は副長命令だ。興行まであと三日ある。掛かる金子は俺が出してやる。相撲興行を何としてでも成功させて、壬生狼の汚名を返上してぇんだよ」



 珍しく熱の籠った御託を並べる土方は着流し姿でしゃがみ込み、下ろしたままの栗色の頭をポンポンと優しく撫でる。


「俺の見込んだ小姓ならやり遂げられると思っているが。やってくれるよな?」


 

 あれだけ意地悪しかしてこなかった男がここ最近、態度を軟化させているのは、どうやら気のせいではなかったらしい。

 

 少しずつ自分にも心を許してきている土方がふと、見せる柔らかな眼差しは、はっきり言って、猛毒であった。


 色男の憎らしいほど艶のある双眸で間近から見つめられれば、十八の小娘に勝ち目など一ミクロンもあるわけもなく。



「…とりあえず、完成するまで家事全般の担当から外して下さい。後、私一人じゃ絶対間に合わないんで、助っ人は欲しいです」


「山南さんよ、家事全般の組み替えを頼みたい。日中は引き続き、あんたに此奴の面倒をお願いしたいが構わねぇか。俺は宵になんねぇと手が空かねぇんだよ」


「勿論、構わないよ。市村君、私も微力ながらお手伝いさせて貰うよ」


「はい、宜しくお願いします。山南さんが居てくれるだけで凄く心強いです」


「ならば、場所を変えて予定を立てようか。私の部屋にお出でなさい」


 

 踵を返す山南に続くように立ち上がった更紗は、開け放たれていた襖から廊下へと出て行く。


「市村」



 涼やかな風が内から外へ流れ出すような張りのある声に突如、呼び止められ、胸がトクンと不自然に高鳴り。


(……珍しい。名字で呼んでくれた…)



 いつぞや捨て台詞のように、名を呼ばない宣言をされたが、当の本人はすっかり忘れてしまっているようである。


 深い意味がないことは分かっているものの、むず痒い心地のまま振り返ると、土方は自分へ向けて、意味ありげに微笑んでいて。


「ちゃんと事を成し遂げた暁には褒美をくれてやる。だから頑張れよ」



 ここ数日殆ど寝てないのにも拘らず、愚痴一つ零さない土方は、恐らく興行初日を迎えるまで、誰の助けも借りないまま働くつもりなのだろう。


 そんな男の底意地に尊敬の念を抱くと共に、自分の中で燻っていた負けず嫌いの精神が、追い風を受けるように燃え始めていく。


「分かりました。必ず、成功させましょうね」



 少しは自分の存在が役立つかもしれない期待感は、無意識に気持ちを浮き立たせ、心だけでなく身も軽くしてくれる。

 

 しなやかな動きで部屋を後にすれば、その様子を目尻を細めて眺めていた近藤は、文机の前で胡座を掻く男へ笑みを落とした。



「更紗の可愛い笑顔は私に向けられたもんでは無いなぁ。歳、ひょっとして何かあったか?」


「あの手の餓鬼ァ、ちょいといい顔してやりゃ、猫みてぇに懐くんだよ」


「成る程なぁ。昔、試衛館に親猫とはぐれた子猫が迷い込んだ事があったろう……お前さんと総司が取り合うようにして、甲斐甲斐しく世話をしていたか」


「…勝っちゃん、昔語りをしている暇はねぇんだ。文にあった件の真意を、あの偏屈野郎にどう吐かせるか…ちったァ考えてくれたのかい」


「嗚呼、そうだった。私も朝から頭を捻ってはいるんだが…」



 破顔していた近藤が即座に神妙な顔つきになれば、土方は眉を顰めたまま煙草盆に乗せていた煙管に火を点ける。



「…芹沢は武士の端くれにも置けねぇ。これ以上、好き放題やられちまうと隊士に示しが付かねぇからな。急ぎで隊の規律を纏めねぇと…」


「歳、その件なんだが。士道に背くまじき事、というのを規則に入れるのはどうだろうか?無論、局長である私も武士故、役職に奢らず、掟は守るよう計らいたい」


「士道に背くまじき事、か…悪くねぇな…」



 微かに動かされた唇から漏れた紫煙が、爽やかであった室内の空気を徐々に汚していく。


 更紗の前では決して見せない顔を貼り付けた近藤と土方は、暫くしてから愛次郎の事件の核心に迫るため、八木邸へと足を運ぶのであった。

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