隠月

 時刻は丑の刻を回ったようで、薄雲の隙間から覗く月が、知らぬ間に南西へ移動していた。


 眠りに就いても思い出されるのは二人の姿ばかり、気を抜けば目尻に熱いものが伝う。


 どれだけ泣いても、涙が枯れることはないと、この時代に来る前から知っていた。


 現実と向き合うと途端に悲しくて苦しくて、悔いが心を過去の自分へ引き合わせようとする。



 耐え切れず、締め切った部屋を飛び出すが、いつものように廊下は真っ暗闇で、二つ隣の部屋から僅かに明かりが漏れていた。


「……まだ……起きてるんだ」



 声を掛けはしないが、自分以外にも起きている人間がいると分かれば、不思議な安心感を得られる。


 今日は多忙を極めており、愛次郎の事件処理に発つ際も、幾らか疲労が見え隠れしていたように思え。


(もしかしたら、疲れて寝てるかもしれないし、静かに静かに…)



 普段なら気にせず軋ませて歩く板廊下を、のそのそと忍び足で進んでいく。


 行く当てなどなく、ましてや提灯を持たずに出かけるのは怖いので、大人しく部屋に戻るべきなのは分かってはいたが。


「丑三つ時に何やってんだ」



 目の前の襖が開いたため、強張りながら視線を向ければ、こめかみを押さえた土方が呆れた顔つきで佇んでいた。



「……何、やってるんでしょうね…」


「今から何処へ行くつもりだ」


「……どこ、だろう……決めてない…」



 ポツリ、ポツリと交わる二つの声が、静寂に包まれた廊下へ不気味に響き渡る。


 文武館へ行けば愛次郎には会えるものの、亡骸の前に再び立った時、正気でいられないのだと跳ねる心臓が教えてくれて。



「入れ」


「…え、どこへ…?」


「俺の部屋に決まってんだろう」


「…え、いや、…夜中に男の人の部屋へ入るのはちょっと…」


「莫迦か、何もしねぇよ。どうせ寝らんねぇんだろ。手伝え」



 こちらの警戒心を鼻で笑うように言い捨てた土方の素ぶりに、自分の顔がカッと熱くなるのが分かる。


 誰よりも慎ましく生きているのに、自意識過剰をあしらうような態度を取られるのは癪で。


「………手伝うって、何をですか」



 前に出て文句の一つも言ってやりたい衝動に駆られるが、炎のように赤くなった顔を見られるのは、バツが悪い。


 仕方なく部屋に戻る男の背を追いかければ、そう広くはない室内に、布団を敷く場がない程度には紙が散乱していた。



「……何でこんなに散らかってるんですか」


「仕事が溜まってんだよ」


「お昼に来た時は、綺麗だったじゃな…」


「黙って纏めろ」


「………。」



 夜中にも拘らずブレない態度にムッとするが、男が目頭を押さえて息を吐き出す姿を見て、更紗は妙な同情心が芽生えていく。



 山南が怪我をしてから庶務を一人でこなしている土方は、約一週間後に控えた大仕事のために、数日前から日中は出突っ張りであった。


 それは先月、大坂相撲と京相撲の間でいさかいがあり、いつぞの縁で局長の近藤が仲裁人として人肌脱いでおり。


 和解が成立した証として京・大坂相撲合同興行が、急遽、京の都で一週間開催される運びとなった。


 その会場の手配から集客、警備の仕事まで、土方は抜群の交渉術で話しを付け、対価として一定の報酬を得る約束を取り付けたのである。


 資金難の壬生浪士組にとっては願ってもない良仕事であるにも拘らず、何故か芹沢は経緯を聞いて憤慨し、件には一切関与しないと言い放つ。



 お陰で実質土方一人が窓口となっている状態であり、今回の事件は、多忙を極める彼を追い詰めているのでは無いかと、密かに心配していたのである。


「……書いたものを乾かしてたのか」



 見慣れてきた女文字の書状を半分拾ったところで、更紗は一度、綺麗に纏め、障子の傍にある書類棚へ置きに行く。


 行灯の明かりだけでは部屋は暗く、障子を開け放ってみるが、今にも消えそうな細い月が雲に隠れて、不穏さを漂わせていて。



「……これじゃ…明るくなんないな」


「何だ、闇夜が怖ぇのか」



 元気なく呟く更紗を見据えながら、土方は煙草盆の炭火に雁首を近づけて火を点け、煙管を吸い始めた。


「…まぁ、怖いか怖くないかで言ったら怖いです。子供の頃から暗がりは苦手なんで…」



 芸妓だった母が帰宅するのはいつも深夜遅くで、それまで一人で過ごさなくてはならない不安は、いつしか闇夜に恐怖を持つ弱点を生んでいた。


 そんな時は夜空を眺めて、月明かりに救いを求めるのだが、今宵のような薄暗闇はどうしたって不安を増長させてくれる。



「でも、少しは慣れてきました。この世界は夜になると暗いから」


「おめえの国の宵は明るいのか」


「そうですね。夜でも昼のように明かりを灯せるんですよ。寧ろ明る過ぎるくらい」


「…そうか」



 土方は相変わらずこめかみの辺りを指で押さえ、煙管を吸うこともせず煙を立ち上らせている。


 宵闇深い室内に漂う紫煙はいつもより仄暗く、いつもより濃い香りを鼻腔へ届けていた。


 文机の前で額を摩る男の様子に違和感を感じた更紗は、書状を拾う手を止め、そっと土方を見つめた。



「もしかして、頭痛いんですか?」


「何でもねぇよ」


「絶対嘘だし。少し寝た方が楽になりますよ」


「うるせぇ、早く拾え」



 突っぱねるように愛想のない声が響くと、それを合図に煙管に唇をつけた土方は、煙を吸い込んでゆっくりと吐き出した。


 母が偏頭痛持ちであり、更紗自身も頭痛に悩まされた時期があったため、終わりの見えない辛さは手にとって分かる。


 愛次郎の一件で雪だるま式に増えていく疲労は、思いの外、彼の精神や肉体を蝕んでいるように見えてしまい。


「良かったら、ツボ押ししましょうか?少しは頭痛も楽になりますよ」



 そう声を掛けると手に持っていた書状を文机に置き、土方の方へ静かに歩いていく。


 すると何故かこちらの一挙一動を取り込むように、ぎろりと鋭い眼光で睨みつけてくるのであり。


「何なんですか」



 怪訝そうに顔を顰める男の背に回った更紗は、畳に膝をついて、中腰の姿勢で前を向く。



「おめえから近づいてくるとは、どういう魂胆だ」


「……別に魂胆なんか……頭痛いっていうから、和らげてあげるだけじゃん」



 身を縮こめるどころか、堂々と肩を張る男の動じぬ姿に悪意が芽生えるが、首の付け根に手を置くとゆっくり体重をかけていく。


 暗がりで見る男の項は色っぽく、結わえられた黒髪が揺蕩えば、普段見ることのない逞しい首元が露わになる。


 触れられることはあっても、触れにいくことのなかった人肌は温かくて、波打つ脈が早くなったのを指先から悟られたくはない。



「……肩、ゴリゴリしてますね」


「何だよ、そのごりごりっつうのは」


「あ、えっと、肩がこってるという意味です」


「なら、こってるでいいじゃねぇか。総司みてぇに妙な言い回しすんじゃねぇよ」



 何の脈絡もない会話に土方はクツクツ笑うが、煙管を文机へ置き、思いの外、リラックスしているようであった。


 掛けた力で男の頭が下がり押しやすい体勢を取ってくれたので、力を入れた指を少しずつ肩の方へずらしながら丁寧に押していく。



 障子を開けてしまったせいで、僅かに湿った外の風が室内へ緩やかに流れ込んでくる。


 夏の頃より月の位置も随分高くなり、秋の訪れが刻一刻と迫る気配を五感で感じるようになっていた。


 昨日と大して変わらない夜空なのに、自分を取り巻く環境は一夜にして変わり果ててしまい。


 胸に広がる空虚は、月でも照らしきれない闇を心の中に作っていく。



「そういや、あぐりの親が礼を言ってやがったぞ」


「……お礼?」


「眠っているように、綺麗な仏だとよ」


「……本当ですか、良かった。…実はちょっとやり過ぎたかなって、後悔してたんです」


何故なにゆえおめえが後悔すんだ」


「…だって、私の常識が通じないかもしれないのに、出しゃばっちゃったんで…」



 幕末に来てから専ら頭を悩ませることの一つに、現代と江戸時代の価値観の相違がある。


 よく隊士たちに思考のズレを指摘されるが、自分にとってはそれが普通であるため、感覚の擦り合わせに苦労していた。


 この時代の人間から何度か刀を向けられ、芹沢からも断髪されたりと、それなりに痛手を負ってはいるのだが、如何せん直しようがないので、成すがままで。



「おめえさんは変わり者ついでに、ハナから変わるつもりもねぇだろうが」


「いや、変わるつもりがないんじゃなくて、どこをどう変えたらいいのか分かんないんですよ……そういえば、…愛次郎さんには変わらずにいて欲しいって、言われたなぁ…」



 死の前日に交わした他愛もない会話は、彼から贈られた最期の大切な言葉となった。


 この個性を真向から否定する人間もいれば、愛次郎のように肯定してくれる人間もいる。


 十人十色と言われるように、褒めてくれた自分の個性を認めて生きていけたらいいと、少しずつ思うようになっていて。


 そんな中で胸を甚く苦しめるのは、誰からも好かれていた愛次郎が、なぜ駆け落ちをして殺されなければいけなかったのかという、謎に包まれた一連の行動である。



「愛次郎さんは、何で脱走したんでしょうか?何故、二人は…死ななければいけなかったんしょうか?」



 穏やかに、思いの丈を吐き出してみれば、スッと伸びてきた大きな手が肩に触れていた腕を引っ張る。


 そのまま引き込まれるように尻餅をついたため、慌ててはだけた裾を押さえてみれば、男は至近距離から自分を見下ろしてきて。



「件は奉行所には辻斬りとして始末したが、物の道理には必ず表と裏がある」


「…はい」


「仇は討ってやるから、おめえは思うがまま、佐々木を弔ってやりゃあいい」


「……はい」



 この男の絶対的な安心感を前に、更紗は寂しかった心に明かりが灯され、じんわりと何かが満たされていくのを感じた。


 愛次郎がいなくなってしまった喪失感を、土方はちゃんと気づいて埋めてくれ、欲しかった言葉を与えてくれる。


 湧き上がる温かな感情を悟られたくなくて、女は言葉少なに返事をするが、男は見透かしたように口の端を上げていて。



「もう戻って寝ろ。明日も早ぇんだ」


「……土方さんは…まだ寝ないんですか?」


「仕事が終わっちゃいねぇからなァ。おめえも読み書きが出来りゃァ、もう少し役に立つんだがな」



 土方はそう話すと肩を回して文机に向かうが、更紗はその淡々とした物言いに少し拗ねた顔を覗かせる。


 小姓として役に立っていないことは百も承知だが、本人から口に出して言われると存外心は傷つくのであり。



「読み書きって…土方さんの書く字は読めないし書けないけど、普通の字体なら読み書きできますよ」


「普通の字体って何だ、書いてみろ」


「じゃあ、ちょっと借りますよ…」



 訝しげに答える土方の前で、更紗は文机にあった筆を手に取り、和紙へ滑らかに文字を綴っていく。


 壬生浪士組 小姓 市村更紗 と書いた紙を土方へ手渡してみれば、暫し眺めていた男はフッと小さく笑い、頭を優しく撫でてくれ。



「事務方は何も出来ねぇかと思ったが、楷書が書けんじゃねぇか。明日から存分に仕事を与えてやる」


「……その企んだ顔、怖いです…」



 今宵の空には雲が多いのか、気づけば儚げな月は深い闇の背後へ隠れてしまっていた。


 まるで事件と同様に真の姿を暗晦あんかいへ消そうとして見えたが、まさかの形で一筋の光を手にし、事の真相が見えてくるのである。

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