岩絵具と花袋

 150センチ弱の薄い板に下書きを始めて一刻ほど経つが、既に女は仕事を請け負ったことを後悔していた。



 江戸時代に鉛筆と消しゴムはなく、当時の浮世絵師は、筆の一発勝負に身を置いていたようである。


 何度も描き直しが出来る現代で育った更紗には、勿論、そんな絵描きの技量が備わってはおらず。


 悩んだ末、制服のポケットに差してあった禁じ手のシャープペンシルを使って、自室でこつこつ模写に取り組んでいた。



「山南さん、この錦絵の色合いはどう思いますか?」


「力士の廻しに赤を使うのはいいね。ただ、私の持っている水干絵具ではこの色合いは出ないなぁ」


「そうですか……厳しいのかぁ…」


「まぁ、下絵用みたいなもんだからね。値は張るが岩絵具を使うと見違えるように鮮やかなものだよ」



 山南と沖田の話しを薄らと聞いていた更紗は一度手を止め、伸びをしながら二人の元へと歩いて行く。


 角部屋である更紗の部屋の隣は山南の部屋だが、襖伝いに仕切られているだけであった。


 普段は決して開くことのない続き間の向こう側には、持ち寄った浮世絵を手に取る、山南と沖田が膝を突き合わせていて。




「…なら、その値の張る絵具、土方さんに買って貰いましょうよ。あの人、意外と小金持ちですからね」


「はは、そうかもしれないが。彼一人に手銭を切らせる訳にはいかないなぁ」


「大丈夫ですよ、件の言い出し屁なんですし。色を絞って三つ四つ買うなら、出して貰えそうだけどな」


「そうだね。なら、色を決めていこうか。そういえば原田君も浮世絵を持ってくると言って外へ駆けて行ったが……まだ戻って来ないようだね」


「他の皆は何してるんですか?」



 敷居の跨いで入室した更紗の質問に顔を上げた沖田は、手にしていた錦絵を置いて、思案を巡らすように口を開き。



「…左之さんは行方不明で、平助と源さんは文武館で稽古でしょ。新八さんは芹沢先生の所へ寄ってからこっちへ来るって言ってたかな。山崎さんは諜報活動だし、後は……」


「斎藤さんは?」



 端的に落とされた一言に山南と沖田は顔を見合わせるが、更紗が二人を交互に見据え続けると、観念したのか沖田が先に苦笑いを浮かべる。



「……一も、諜報活動中なんだよ」


「えっ?諜報活動って…どこへ??」


「……八木邸に、ね」


「八木邸にって、何でまた…?」



 自分の知る諜報活動とはスパイ活動に近く、敵方の動きを把握するために、ありとあらゆる場所へ潜り込み、情報を収集するイメージである。


 けれども、八木邸に住まうのは同士である芹沢一派であり、諜報活動を行う相手と考えるのは、些かピントがズレているように思えてしまい。



「市村君は、芹沢先生が相撲興行に携わる事を歓迎していないのは存じているかな?」


「…はい、それは土方さんから聞きました。理由は教えて貰えなかったですけど…」


「私が話してしまっていいのか分からないが……芹沢先生は武家出身でね、浪士組の御職に誇りを持っているんだ。故に、相撲興行を取り仕切って対価を得るのは御上に仕える武士のする事では無いと、不満を持っていてね…」


「…で、いつ芹沢先生が前みたいに暴れるか分からないから、一が偵察に入っているんだよ。一も武家出身だからか、芹沢先生に目をかけて貰っているしね。土方さんが、こっそり送り込んだんだ」


「…ふぅん、そうだったんですか…」



 山南の後に沖田が話しを続け詳しく説明してくれたが、更紗はそれを聞きながら、誰にも言えない複雑な気持ちを抱えていた。


(……芹沢先生って、歴史では秋に暗殺されるんだっけ。もう、季節は秋だ…)



 幕末は月の満ち欠けを一ヶ月とした太陰暦(旧暦)であり、現在日本で使われている太陽暦とおよそ一ヶ月の季節の誤差がある。


 そのため、現代で例えるならば夏真っ盛りの八月初旬でも、幕末では、日中は暑くても夜は涼しくなり、少しずつ秋の気配が感じられる気候となっていた。



 更紗が芹沢鴨暗殺において朧げに覚えているキーワードは、秋の季節、大雨、宴会 の三つ。


 この三つが揃った日に、幕末を駆け抜けた新撰組の歴史が大きく動く。



 未来を変えるつもりはないため、起こる事件を阻止する気にはなれないが、心の準備だけは抜かりなく、当日を迎えなければならないと感じていた。


(……まだ、先だよね。もう少し…このままでいたい…)



 女は気づかれないように深呼吸をすると、引き続き下書きに取り掛かるべく踵を返して、板絵の近くまで歩いていく。


 刹那、廊下を早足で擦る足音と共に襖が開かれ、冴えない顔つきの永倉が大袈裟に頭を掻きながら入って来た。



「いやぁ~参ったぜ。八木邸が燃え上がるのも刻の問題よ……こちとら火の粉は無用だっつうの」


「新八さん、芹沢先生と何かあったの?」



 沖田が邪気のない笑顔を永倉へ送ると、その男は大きな溜息を吐きながら、広げられた浮世絵の傍で腰を下ろした。



「総司。俺ァ居合わせちまうだけで、一度ひとたびも俺の所為じゃねぇぞ」


「分かってますよ。新八さんは先生と仲良いですもんね。毎度、仲違いしているのは、小金持ちのあの人ですもんね」


「八木邸へ行ってみろ、修羅場だぜ。慌てて一も逃げ出したからな。土方さんも筆頭局長によくあんな物言い出来るぜ。近藤さんが止めに入ってる位でよ…」


「それは…あの件で、かい?」



 山南が含みを持たせた言い回しを見せるため、更紗もシャーペンを握り締めたまま男たちのいる方向へ視線を這わせていく。


 どうにも朝から忙しなく幹部たちは動いているようであったが、自分だけはその輪に入れて貰えず、心の隅っこの方でチクリと引っ掛かってはいて。



「そう、佐々木が送ってきた文の件だ。とんだ遺言書になっちまったけどよ……先生曰く、あぐりを妾に差し出せっつうのは、酒の戯言だったらしいぜ。そこは佐伯の早とちりか罠か…」


「新八さん!そのくらいで…」



 沖田が慌てて大きな声を放つが、女の耳に届いてしまった会話を掻き消すことはできなかった。


「……そんな話し、聞いてない」



 ばくばくと打ち始めた鼓動は、巡っていた血潮を急速に沸き立たせるものであった。


 熱くなる視界に男たちを映し込めば、口元を押さえた永倉は狼狽を匂わせつつ、ていのいい愛想笑いを浮かべる。



「そうか……未だ知らなかったか。いやぁ面目ねぇ、聞かなかった事にしてくれ」


「…恐らく、物事がはっきりしてから話すつもりでは無いかな。市村君は佐々木君と深く付き合いがあったから、土方君も慎重になっているんだよ」



 永倉の言葉を補足するように山南が優しく諭し始めるが、更紗は愛次郎の名前を聞いただけで涙がこみ上げ、咄嗟に顔を逸らした。



 物事の真相を全て知りたいとは思わないが、佐々木愛次郎に関わることは別物で、一瞬にして心の内が掻き乱される。


 大切な友人が殺されなければならなかった理由に辿り着くのかは分からなくとも、何らかの形で芹沢と佐伯が関与していることは知ってしまった。


 僅かに与えられた点と点を繋いで線を作り、その縁を濃く形取れば、自ずと事件の真相が見えてくるのかも知れないが───


(……私は、あと三日で看板を完成させなきゃいけないんだ。)



 屯所で暮らして四ヶ月、初めて与えられた自分にしか出来ない仕事が今、目の前にあった。


 これまでお荷物でしかなかったこの存在が、壬生浪士組に属する人間として役立てるのなら、全力で彼らの期待に応えたいのである。


 いらぬ雑念は業務の足枷にしかならず、もう少しだけ本当の気持ちに蓋をして、絵が完成した暁には堂々と聞きに行こうと、女は見本である引札に瞳を向けた。


 むっつり押し黙った更紗は、気まずそうな三人へ背を向け、黙々と板絵に下書きと墨入れを施していく。



 集中したいからと部屋を閉め切って貰ったが、一向に終わりは見えず、気が付けば日は暮れ、行灯の明かりを頼りに描くしかなかった。


 今宵も薄暗闇で月の姿は殆ど見えなかったが、絵と真剣に向き合えば、不思議と闇夜への恐怖感はなくなっていた。


 土方の部屋の前を通るが人の気配がないため、共に働いている同志のような気分で、目蓋が下りるその直前まで筆を握り締め、板絵に貼り付いていて。



「更紗、大丈夫?…昨日、もしかして、眠ってない…?」


「ちゃんと眠ってましたよ。布団で寝てたから、身体も思ったより楽だし」


 

 翌朝、目が覚めると身に覚えのない布団に寝かされていたが、敢えてその理由は、考えないことにしていた。


 大空へ向かって伸びをするように、片手に和傘を握り締めたまま両腕を掲げた更紗は、沖田と原田をお供に京の町へ繰り出していた。


 昨夜まで秋めいていたはずが、今日に限って真夏が戻ってきたような暑い昼下がりである。


 土埃の舞う大通りでは、大店の丁稚奉公が丸桶片手に柄杓で水を撒いていた。



「沖田さんおすすめの。綺麗な色味の岩絵具が買えて良かったですね」


「うん。赤を入れておけば、土方さんも文句は言わないだろうからね」


「つうかお前、鬼の副長さんから幾ら預かってきたんだよ」



 前を歩いていた原田が振り返りこちらを見据えるので、更紗は懐にどっしり入ったお釣りの小銭袋を見つめる。


 昨日、八木邸で繰り広げられた芹沢と土方の悶着は、瞬く間に屯所内の噂の種となり、副長の頭から角が見えたと触れ回る平隊士も現れる始末だった。



「小判一枚。だから、一両になるのかな」


「凄ぇ……お前、信用されてんじゃねぇかよ!土方さん金持ってんね~」


「一両の価値がイマイチ分かんないなぁ…大金ですか?」


「一両っつったらよ……あれだ、お前の苦手とする湯屋によ……まぁ、好きなだけ、行けるぜ!」


「……五百回ですよ。左之さん、和算が不得手なのは分かるけど、そこは正確に数を出さないと。鬼の凄みは伝わりませんよ」


「おいおい、総ちゃん。心優しい俺がお前に見せ場を譲ってやったんじゃねぇか!それに気づかねぇとは、この伊達男が泣くぜ」


「ぐえ、……左之さんに抱きつかれても……暑い…身ぼろは離れろ…!」


「壬生浪が言ってくれんじゃねぇか……女が駄目なら、お前に残された道は衆道でい…!」



 背の高い男二人がワシャワシャと道端でじゃれ合っているのを横目に、更紗は小首を傾げながら思考を巡らし始める。


「お風呂屋さんに500回か…うーん……凄いんだろうけど…」



 十万円あったら某チョコが何個買えるかの例えのように、銭湯に500回通えると聞いても、価値を計る答えとしてはピンとこない。


 幕末期は極度のインフレで物価が高騰するものの、金の実質価値は下がっているため、現在のお金に換算すると一両の価値は下がり続けている。


 なかなか理解しがたい幕末の経済学に頭をひねっていれば、隣に駆けてきた青年が屈託のない笑顔を見せてくれ。



「左之さんの例えじゃ分からないか。一両は四千文なんだよ。ただ、今は物の値打ちが上がってるから、江戸に居た時よりも米や卵は高いんだけどね」


「そうそう、全く困っちまうぜ!女郎も上玉は存外高く付くからなァ。土方さんくれぇモテりゃあ、金を落とさなくても、良い女を抱けんだろうけどよ」


「左之さん!野暮な事は言わないで下さい!更紗、助兵衛は放っておいて、山南さんと平助の差し入れを買いに行こう。丁度、土方さんの金子もある事だし」


「えっ?このお金、使っちゃうの?」


「掛かる金子は俺が出してやる、って言ってたんでしょう。武士に二言はなし」



 更紗の問いにニコリと悪戯な笑みを見せた沖田は、キョトンとする女の手を掴み嬉しそうに甘味処へ歩みを進めた。



 鴨川を見下ろす抜群のロケーションの中、二人の男はそれに気を向ける事もなく、目先の甘味に舌鼓を打っている。


 普段であれば、女も負けじ劣らず、沖田御用達の和菓子の美味しさに夢中になる筈なのだが。


「……うう……何か気分悪いかも…」



 どうやら、ねっとりした京の気候にやられ、更紗は食傷気味のまま、独り鴨川の畔を歩いていた。


 帯に手を当てたまま目線を上げると団子を口いっぱいに頬張る沖田が嬉しそうに手を振ってくれる。



 ジリジリ照りつける日差しが水面を虹のように煌めかせ、辺りに反射させていた。


 視界に映り込む河川は、やはり自分の知っている鴨川とは違い、船着き場からの往来含め、驚くほど活気に溢れたものであった。


 和傘一つ差して人々の間を歩んでいけば、たちまち誰にも振り返られない只の庶民に成り切れる。


「……今日は……暑いなぁ…」



 更紗はその流動的な風景に身を投じながら、吐息を漏らすように呟いた刹那 。


 刀差しの侍が川岸に止まった船から降り歩いて来るが、すれ違いざまに視線がぶつかるや否や驚いた表情を浮かべ、ニコリと微笑んだ。



「やっと逢えた。こんな所で逢えるとは嬉しいよ」


「……えっと…一力亭…の…?」



 うろ覚えの記憶を辿って言葉を返すと、丁髷を結わえた男は上品な微笑みを口角に浮かべ、自分を見つめてくれる。



「覚えてくれていたとは光栄だ。祇園でのあの日以来、何処かで逢えないかと毎日を過ごして居たんだよ。全ての置屋に問い合わせても君を見つける事は出来なかった」



 照りつける太陽の下、ダンディな優男に甘く囁かれれば、普通の女であれば平常心は保てない。


 更紗も例に漏れず、胸が高鳴り頬が紅く染まっていくのを感じながら、懸命に傘を握り締め。



「…あの、手拭いお借りしたままですみません。今日は持ってきてなくて…」


「否、構わない。それとも手拭いを返して欲しいと申し出れば、もう一度逢って貰えるのかい?」


「………。」



 こんなスマートな口説き文句は劇薬レベルであり、この男がいかに場慣れした玄人であるかを実感させられ、上手く反応ができない。


 含羞の色を匂わせたこちらの表情に気づいた侍は柔らかに微笑んで、すらりとした女の全身を見据えた。



「名は更紗と言ったね。貴女は何故今、男のような装いをしているんだ?せっかくの美貌が台無しだ。何か深い訳でもあるのなら是非とも伺いたい」


「…これは、動き易いからです。特に深い意味はないです」



 更紗が僅かに困惑した表情を浮かべて言葉を放つと、その男はクツクツと笑いながら自身の懐を探り出した。


「そうか…君は少し特殊な考えの持ち主だな。そうだ、御近付きの印に此れをあげよう」



 そう伝えると更紗の手を取り、金糸混じりの上質な白地に可愛い小花柄が織り込まれた小さな巾着をその手の平に置いて。



「…これは…?」


 首を傾げながらその優男を見入ると、こちらの手に触れたまま優しい眼差しで見つめ返してくる。



「匂い袋と言って、女性が香りを楽しむものだよ。白檀の香は更紗の雰囲気に良く合う。袂か懐に忍ばせて薫りを愉しみなさい」


「えっ、でも…貰うわけには…」


「男の僕が持っていても仕方が無いだろう。此の白の花袋は貴女に渡したくて残して置いたんだ。遠慮せずに受け取りなさい」



 微笑みを浮かべる男に促されるまま、更紗はその巾着をそっと自分の顔へ近づけていき。


「…わぁ…良い香り…」



 白檀は柔らかく優しい、どこか妖艶さを漂わせる薫りで、去りし日の母の姿を想い出させてくれ、懐かしさに自然と笑みが溢れる。



「…本当にいいんですか?ありがとうございます」


「良かったら食事でもどうだ?言葉から京の生まれでは無いようだが、何方のお嬢さんか興味深くてね」


「えっと、お食事ですか……今、買い物中で…」



 このまま別れるのが惜しいと思ってしまったのか、口から出てくる自分の言葉に、いつもの勢いが無い。


 そんな隠し切れないときめきに女は苦笑うが、またもや淡い恋心を叩き斬るような男たちの大声が否応無しに耳へ入ってきて。



「更紗ァ!お前を誑かす、其奴は何藩の者だ!!」


「知らない人に付いて行ってはいけませんよ!」



 振り返ると弾丸の如く走り込む原田と茶屋前から身を乗り出す沖田の姿が目に映り、無意識に唇から大きな溜息が放たれていた。



「そうか、供人ともびとが居たのか。其れは失礼した。食事はまたの機会にしよう」



 ニコリと微笑んだ侍は、原田と沖田へ礼儀正しくお辞儀を見せた後、踵を翻し颯爽と歩みを進める。



「あの、お名前を聞いてもいいですか?」


「……新堀松輔と申す。また逢おう」



 更紗の声掛けに優男は振り返りながら、大人の色気を孕んだ笑顔を残し雑踏へ紛れ込んで行った。



「彼奴は何だ?!新手の軟派か?」


「……新堀さん…です」



 炎天下の鴨川沿いは暑いもので、更紗は火照った顔を隠すように、白い傘でその身をすっぽり覆っていく。


 息を切らした原田と共に、更紗も優男が消えた市井の民の荒波を、暫く無言で見つめていた。

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