女の命たる

────厄介な事になっちまった。何とか一肌脱いでくれねぇか



 不安に揺蕩う夢の中で、崖っぷちに追い込まれたような男の声が木霊する。


 途端に目蓋の裏の闇に光が差し込み、鐘の音より先に夏の朝の訪れを知らせてくれる。


 寝付けた時間が遅かったのにも拘らず、早朝より不穏な空気が漂ってくれば、昨夜の嫌な記憶を必然と掘り起こされ。


 頭まですっぽりと被った布団の隙間から声のする方へ薄目を開けると、深刻な表情を浮かべる永倉の話しに耳を傾けている土方の姿が霞む視界に映り。


(……うるさい。)



 只でさえ気が緩むとたまらない憂鬱が迫ってくるのに、それに拍車をかけるような雰囲気を放たれるのは不快でしかない。


 風呂にでも入りに行こうと起き上がって無言で布団を片付け始めれば、気づいた永倉がこちらへ近づいてきて。



「やっと起きたか。お前に大事な話しがある」


 半ば強引に部屋の隅へ連れて行かれた更紗は、仕方なく息を吐くと眉を寄せて土方と永倉を交互に見やった。



「……お風呂行ってからじゃダメですかね?」


「更紗、悪いが話しを聞け。風呂なんざ入ってる暇はねぇんだよ」


「……話し?」


「芹沢先生が不届き甚だしい小寅とお鹿を無礼討ちすると言っている。お前にも立腹でな……俺たちと共に吉田屋へ来るように申し付けられた故……正直お前も危ねぇかもしれねぇ」


「……危ないって……無礼討ちって……斬られるってことですか?」


「否定はできん」


「……何それ……」



 悪夢から目覚めたはずの現実で待ち受けていたのは、またとない悪夢。


 起き抜けからから絶望に引き摺り込まれるような衝撃に、喉を抉られたかの如く言葉が出てこない。


 昨夜から身に起こる出来事が散々過ぎて、寝ても覚めても地獄の迷路から抜け出せる気配がなく。


(……もう……ほんとやだ。帰りたい……)



 深い眩暈を感じながら色のない顔を両手で覆うと、土方が落ち着き払った様子で言葉を掛けてくる。



「他の女は知ったこっちゃねぇが、おめえは何とかしてやる」


「……土方さんよ、頼む。廓の女たちも何とかしてやってくれ。悪い事は何一つしてねぇんだよ…」


「別に俺の馴染みでもねぇからなァ。芹沢と一度でもまぐわえば良かっただけの話じゃねぇか」



 その淡々とした物言いに更紗は昨夜された事が走馬灯のように思い出され、耐え切れず背を向け、自分の荷物のある方へ歩いていく。


 新町遊郭に向かう道中で見た空は、厚い暗雲が垂れ込めており、まるで自分の心の中を鏡で映したような、心許ない色味をしていた。


 これから何が待ち受けるのか全く想像がつかないが、只一つ分かるのは、自分にとって最悪の一日になる可能性が高いこと。


 踏んだり蹴ったりの毎日にそろそろ気力が尽きそうで、小さな石ころ一つにでもつまずけば、今にも地面に突っ伏してしまいそうなほど体力も衰えていく。


 閑散とした朝方の遊郭は予想外に爽やかなもので、営業時間外なのか張り巡らされた赤い蜘蛛の糸の中に蝶の一羽さえ捕らえられてはおらず。


 しかしながら、廓の最果てにある吉田屋の玄関を上がれば、遊女を見つけられなかった理由を自ずと悟ることができて。


「……わぁ……すごい…」



 渡り廊下の左右には、美しく着飾った芸妓数十人が並び座っており、自分たちを視界に入れるや否や、皆が皆、三つ指をついてひれ伏していく。


 まさにテレビで見た江戸時代の大奥を彷彿させる衝撃的な待遇を受けた更紗は、一人の男のためにここまでする事態に只々、圧倒されていた。



「大丈夫か?昨日より一段と顔色が悪いが」


 前を歩いている斎藤がチラリと目線を寄越し、少ししか口にしなかった朝食さえ戻しそうなくらいに緊張し始めた自分へ声を掛ける。



「……大丈夫…じゃないですよね。ご迷惑をお掛けしてすみません…」


「否、副長より申し付けられている。案ずるな」



 既に芹沢のいる吉田屋の奥座敷では、永倉、土方、芹沢一派の平山が示し合わせ、小寅とお鹿についての罰則軽減の交渉に入っていた。


 更紗は土方からの指示で遅れて入室する予定となっており、万が一、話しが纏まらなかった時のための護衛として斎藤が付けられていた。


「お召しによりまして、参上仕り候」



 障子戸の前でひざまずき、凛々しい声を放つ斎藤に遅れを取らぬようにと、更紗も慌てて廊下へ座り込むが、小さく打ち震える脚を指先で押さえることで精一杯で。


 堂々たる所作で歩みを進める斎藤の背後に隠れながら入室することしかできず、緊迫した空気を吸い込むだけで、卒倒しそうなほど頭がクラクラする。


「碧目よ、漸くお出ましか。待っておったぞ」


 

 下座に腰を下ろし斎藤と共に垂れた頭をゆっくり持ち上げれば、余裕の顔つきで自分を見入る芹沢と否応無しに視線が交わっていく。


 一方、視界の端ではその男の足下で畳に額をつけて土下座をしている小寅とお鹿の姿が映り込み。


「これで役者が揃ったか。さて、武士に不義理を働いた売女に天誅じゃ。首を刎ねよ」


 

 いつもと何ら変わらぬしゃがれ声を響かせた芹沢は、こちらを見たまま痩けた頬を緩め、手の内の鉄扇を自身の太い首に押し付け、滑らす。


 その動きに過去の出来事が蘇ってじわりと目蓋の裏が熱くなっていくが、泣き入る女たちの背後に佇んでいた男の一人が、諌めるように低い声を放った。



「たかが女郎との色恋沙汰で首を刎ねるとは……豪傑の芹沢先生らしくねぇ。手心を加えてやったらどうですか」


「黙れ土方!!本来なら碧目も無礼討ちだが、お前の顔に免じて許してやってるんだ。身分をわきまえよ!」



 突如として蛮声が廊下まで響き渡れば、すすり泣く声さえ消すように、深い海の底へ沈められたような静寂が室内を覆っていく。


 ばくばくと鼓動が波打つ中、畳についていた指先に朝の光が差せば、白けた沈黙に一石を投じるような、男の冷ややかな声が鼓膜を揺らし。



「身分を弁えろ、だと?壬生浪士組の筆頭局長が袖にされた女に刃を向けるとは、隊の沽券に関わる問題だ。武士道に反するとは思わねぇのか」


「まさか田舎侍より武士道を説かれるとは思わなかったわ!否、田舎侍でなく浪人かぶれだったか。お前如きが士人を名乗るな。多摩の農民出が」



 心底馬鹿にしたような物言いで話す芹沢は威圧するように土方を一瞥するが、その男は殺気を漂わせ、一路に睨み返していた。


 きっと隠していた素性をこんな形で露呈させられるのは腹立たしくて仕方なくとも、抗えば何をするか分からない危うさが、唯一の反論を止めていく。


 更紗もどうにも出来ないまま、土方の横に立つ永倉を見やるが、その男はしきりにお鹿の様子を気にするばかりで、事態の収拾に努めることもない。


 隻眼の平山も諦めたように静観し、例によって女たちは恐怖からか再び嗚咽し始め、それを無表情で見つめていたのは自分の隣に座る斎藤で。


「……気が変わった。斬首は取り消してやろう。その代わりとして断髪申し付ける。但し、碧目。お前もだ」



 ゆらり、と宙を舞った鉄扇の先が、撃ち抜くように自身へと向けられる。


 無意識に開いた唇から息が漏れると同時に、低頭していた小寅が涙に塗れた身を持ち上げ、芹沢へ思いの丈をぶつけ始め。


「…か、堪忍して下さい!うちがあんたはんに何をしたって言うのや!!芸妓にとっては……商売道具の髪を…黒髪を切られる言うんは、この命を取られるのと同じや……罪人になんてされたら…」



 青ざめた顔でワナワナと震える小寅からは既に看板芸妓の貫禄はなく、逆に一言も話すことなく前を見据えるお鹿の方が覚悟を決めた気っ風の良さが見受けられた。


 地獄絵図のような光景の中、芹沢はそんな吉田屋の女たちに目を向けることもなく、落ち窪んだ双眸を細めて一人の女を見つめ続けており。

 


「のう、碧目。黒髪でもないお前なら断髪は易かろうぞ。特別に儂が切ってやろう」


「……芹沢先生よ、頼むから此奴を巻き込むのは止めてくれ…」


「土方、お前が儂に乞うて何か変わると思うなら、それはおごりだ。妓どもの首と夷狄の髪を引き換えとして落着とする。さぁ、如何するか」



 淀んだ空気を掻き乱すような笑い声が大きく木霊するのを聞きながら、更紗は静かに思案を巡らせていた。


 何の罪もない女性二人が斬首させられてしまうのは論外であるため、断髪して物事が丸く収まるなら、迷いなく自分は髪を切り捨てる覚悟はある。


 けれども、目の前の小寅は髪の価値と命の重さは同じだと泣き、周りの男たちの反応も断髪に対してやたらと否定的だが。


(……もう、私には伸ばす意味もないし……バサリといくか。)



 少し癖のある栗色の髪を綺麗だと褒めてくれた人には、どれだけ想い願ったところで会うことさえ叶わない。


 何ら価値を持たなくなってしまった髪を切り落として別の価値を見出せるなら、この場で失う方が本望だとゆっくりと立ち上がり。



「私が髪を切れば命は助けてくれるんですよね。なら、今すぐここで切ります」


「……おい、お前は今、何を言っているのか分かっているのか?」


「こんな髪に……価値なんて何もない。欲しいなら幾らでもあげます」



 言い聞かせるように強く返答すれば、隣に座っていた斎藤が珍しく狼狽えた顔つきでこちらを見上げていた。


「……気でも狂ったか」



 微かに震える右手で左腰に差していた脇差しを引き抜くと同時に左手の指先を後頭部の髪ゴムに這わせ、そっと緩ませていく。


「更紗!早まるな!!先生はご冗談を言ってらっしゃるだけで…!」



 くぐもって聞こえる永倉の慌てふためいた声に反応するように、更紗は小さく微笑むと、力を込めて適当なところへ刃を滑らせていった。


 光の輪が髪に広がるや否や、柔らかな栗毛は音もなく重力に導かれ、女の肩上でふわりと揺れる。


 執着していた割には呆気なく己の身から離してしまった髪の束を見れば、これまで感じなかった新たな悲しみが心の隙間から顔を出そうとしていた。


 それを閉じ込めるように栗髪をぎゅっと握りしめた更紗は、芹沢の前まで歩みを進めると、畳の上にそれを置き、手をついて頭を下げていく。



「言われた通り、断髪はしました。これで、小寅さんとお鹿さんの命は助けてあげて下さい」


「良いだろう。次は小寅とお鹿、断髪申し付ける」



 胸に込み上げるのは屈辱よりも空虚に近い負の感情。


 泣く女を大の男が複数人で押さえつけ、土方が小寅の島田髷へ、平山がお鹿の女髷の付け根へ抜き身を入れていく。


 はらはらと落ちる黒髪は蛇のように畳へ広がり、それを見ながら盃を傾ける男は、気が晴れたのか廊下の妓を呼ぶよう主人に声を掛けていて。


「髪を酒の肴にするも一興か。女は身を張ってこそ一人前よ」



 芹沢鴨という圧倒的な存在を前にしては、この場にいる全員が結託したところで太刀打ちできない現実を目の前に突き付けられる。


 置屋の男衆に支えられ、精根尽きた表情の女たちが退出するのを見届けた更紗は、こんな理不尽な仕打ちに流す涙はないのだと、踵を翻した。

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