夏の夜の夢

 夜も深くなり音の絶えた夏の闇が、生きとし者の五感をより繊細なものへ変えていく。


 肌に触れる夜風に港町特有の海の匂いを感じれば、さわさわと揺れる葉の隙間で蝉でも蛙でもない生き物が呼吸を始める。


 鬱蒼と茂る庭の草に光る何かを見つけた気がした更紗は、余所見をしながら手の内にあった盃を唇につけ、眉を寄せていた。



「ぬるい……折角ならキンキンに冷えたものが飲みたい……永倉さん、氷ありませんか?」


「氷っておい……そんな高級品ある訳ねぇだろ。夏に一欠片の氷を嗜めるのは、御上だけだぞ」


「え、氷ってまだ無いんですか……常温だと美味しさ半減しますね…」



 呆れるように息を吐いて酒を煽る永倉の隣で、地味に落ち込んだ顔を見せる更紗はしょうがなく盃を傾け、生温い酒を流し込んでいく。


 気分が沈んでどうしようもない時は、どんな小さな不満も大袈裟な落胆に化けていく。


 今だにあの狂いごえを思い出せば、喉元から生き血を抜かれた動物のように、餌食になる瞬間を待ち詫びている気分になるが。



「冷をとる事ばかり考えるのでは無く涼をとる事を考えろ。夏に熱いものを飲めば汗をかき、次第に涼しくなるだろう」



 シンと静まり返った闇に響き渡ったのは、いつも寡黙な青年の低い声。


 殆ど話したことのないその男から放たれるアドバイスは、不思議と雁字搦めになっていた絶望を緩めてくれるものである。


 それでも、猪口で熱燗を呑む斎藤を見やった更紗には、なかなか共感できるものではなく。



「熱燗とか……見てるだけで汗かいちゃいますね。斎藤さんは暑くないんですか?」


「暑い」


「……涼とれてないじゃないですか」


「ははは、一くんは妙なところで透かし技をかけてくるからなぁ。じゃあ、皆で水垢離みずごりでもやろうか。一気に涼しくなるよ」


「総司飲み過ぎだ。そろそろ止めとけ」


「……はいはい、永倉さんは相変わらず厳しいなぁ」



 逆さに向けた銚子から最後の一滴を滴らせていた沖田も、そんな仕草を険しく睨みつける永倉も、言い知れぬ影を潜ませていた。


 闇はいつでも人の弱さにつけ入ろうと、その背後に押し寄せ、覚束ない心を食らう準備をする。


 それを跳ね除けるも飲み込まれるも己次第、とはいえ、時に仲間が救い出してくれる存在になる場合もある。



「……しかし、疲れたな。芹沢先生のあの横暴には流石に参るぜ」


 大きな溜息を吐きながら盃を煽る永倉の前で沖田が畳に身を放り出し、天井を見つめながら口を開いた。



「さっきから永倉さん元気ないけど、芹沢先生と何かあったの?」


「……何かあったなんてもんじゃねぇよ」



 永倉は勿体つけるような話振りを見せるや否や酒を煽り、芯のある低い声で語り始める。


 月明かりの差す室内には斎藤、沖田、更紗の他に、寝入る山南が音も立てずに聞き入っていて。



「先生が妓を呼べっつうんでよ、俺の女と芸妓を呼んだら終いに女へ帯を解けっつうんだよ。小寅は花代をツケに回す客が大嫌いだから、大いに揉めてな。其処に通り掛かった更紗も巻き込まれてなぁ……お陰で部屋が滅茶苦茶だぜ…」


「それは大変ですね。想像するだけでおっかなくて笑えてきちゃうなぁ」


「俺ァ一つも笑えねぇよ。お鹿にはそっぽ向かれちまうし……何事もなく明日を迎えられる事だけが今の願いだ」


「……あのお鹿さんて方、永倉さんの恋人だったんですか?それならもっと芹沢先生から守ってあげて欲しかったです……ずっと震えてましたよ」


「おいおい、よく言うぜ。俺ァお前ら三人をあの鉄扇から守ってやるのに必死だったんだよ」


「だから、顔に痣があるんですね。青々としたものがひとつ、ふたつ……」


「総司、うるせぇよ……畜生め、どれだけ飲んでも気は晴れねぇもんだな…」



 空になった銚子を畳に放り投げた永倉は、更紗の前にあった銚子を掴み取り手酌を始める。


 自分のいらぬ一言が引き金となって芹沢を激昂させてしまったのに、その事には一切触れず、只々、男は不機嫌な様子を露わにしてくる。


 いっそのこと、いつものようにピシャリと叱りつけてくれたら歩み寄れるのに、互いに抱える後ろめたさが高い壁を作り上げていて。


「……何だか部屋の空気が悪いなぁ。悪酔いしたかなぁ……更紗、介抱してよ」



 ふわりと空を切る黒髪が切り傷のある手に触れたかと思いきや、両膝に優しい重みと温かみが掛けられてゆく。


 更紗は浴衣越しに感じる頭の感触に心臓が飛び出るほどの緊張に苛まれるが、当の本人は目を瞑り、気持ち良さげに脱力しており。



「……え、ちょっと……沖田さん?!」


「こりゃあ珍しい事もあるもんだ。総司が女に熱を上げるとはな。近藤さんに報告だな」


「違いますよ。更紗は女じゃなくて天女だから。いつかは月の向こう側に行ってしまうから、俺には丁度いいんですよ」


「後腐れなく切れるからか。それなら色里の女でもいいだろ」


「この世の女は何をしでかすか分からないし……ほら、無駄に銭も掛かるでしょう?」


「お前が言うと、妙な重みが出るな」



 瞑目している沖田は人の膝の上で戯言を言い、それに釣られるように永倉は笑みを零すが、更紗は同じように頬を綻ばせて笑うことができなかった。


 いつかはこの世界の向こう側に行ってしまうからこそ、後腐れなく切れる存在でありたい。


 男たちが口にした言葉は自分が浪士組に求めている関係性そのものなのに、いざそれを伝えられると虚しさが胸を巣食う。


 ちくちくと胸の奥が痛むのは、自分の所為で割れ落ちた何かの破片に触れてしまったから。


 目に見えないくらい小さな欠片でも、伸ばした指先から赤い血を滴らせる。


 音の絶えた夏の夜を照らすのは、全ての闇を包み込もうと光を放つ、大きな月であった。


 けれども、光の届かぬ奥の戸が静かに開けば、瞬く間に現れた人影が女の傷を闇に隠していき。



「急いで帰ってきたが……永倉君、件は解決したのか?」


「ああ、近藤さん。すみません、妓に預けた文に書いてある通りで、片は付いてます…」


「確かに文は落着としてあったが……婦人が泣き出すもんでな……更紗は無事なのか?」



 外の匂いを引き連れて帰宅したのは浅葱の羽織を纏う赤ら顔の近藤と、僅かに赤みを帯びているように見える黒装束の土方。


 畳を擦りながら目先まで歩んできたその色男は、こちらへ向けて上下へ視線を這わせると、あからさまに怪訝な声音を放ち。



「総司……おめえ何してんだ」


「え、何って膝枕です」


「そりゃあ見りゃ分かんだろう。この女の身が危ねぇと近藤さんが言うから帰ってきてやったが……おめえは一体何してんだ」


「……何って……気分が優れないから膝を貸して貰ってるだけですよ。なぁ、更紗?」


「え、ああ、まぁ……」



 唐突に漂い出した重苦しい雰囲気を察し、誰しもその怒りの矛先が自分に向かないよう口を噤んで時をやり過ごすが。


 たった一人だけ空気を読もうとしない沖田は、切れ長の双眸を細めて冷ややかに見下ろす土方から目を逸らすことはせず。



「膝を借りる事の何が悪いんです?」


「無理強いするもんじゃねぇだろう」


「無理強いなんてしてませんよ。更紗、悪酔いした俺に膝枕するの嫌だった?」


「いや、……別に膝くらいなら……どうぞ?」



 どちらの肩も持たなくとも、誘導されたようにも思える返答を口にすれば、即座に頭上へ舌打ちが落とされる。


 びくり、と跳ね上がった肩をそのままに恐る恐る顔を向ければ、既に土方は踵を翻し部屋を後にしていた。



「総司、歳を茶化すな。山南さんの件で今、気が立っているのは分かってるだろう」


「……すみません。でも、更紗を自分の物のように思っている節があるなら、それは正すべきでしょう?赫映は月に帰るんですよ」


「まぁ、そうだな。それは歳が一番承知している件ゆえ案ずるな。更紗、悪いな。歳にこれを返してきてくれるか?慌てたもんで手銭を借りてな…」



 近藤から託された深緋の小袋はズシリと重く、廊下を歩む足取りを鈍くさせていく。


 心の奥底でわだかまる何とも言えない憂いがこれ以上、溢れ出さないよう、更紗はきゅっと唇を結ぶと襖へ手をかけ、丁寧に開けていき。


「……すみません、土方さんいますか?近藤さんから小袋を預かってます…」



 布団が高く積まれている暗晦の隅で、ゆらりと動く人影は一つ。


 手に持つ灯火を頼りに前へ進めば、月明かりは届かなくともその男が、土方歳三であることは一目瞭然で。



「其処に置いておけ」


 不気味なほどに静寂が支配する室内には、袴紐を解く音が静かに響いていた。


 変にドキドキと胸が高鳴る中、更紗は畳上に横たわる大刀の横に、そっと小袋を置いて立ち上がれば。



「布団を敷いてくれるか、横になりたくてな」


「……あ、はい。一番上にある布団でいいですか?」


「構わねぇ」



 嫌味の一つでも言われるかと思いきや、思いの外、穏やかな言葉が掛けられたため、拍子抜けしながらも言われた通りに布団を一組抱えてみる。


 膝をついて敷き布団の皺を伸ばし、その上に薄手の掛け布団を置けば、背後に人の気配を感じ。


「……すみません、すぐ退きますので…」



 慌てて場所を譲ろうと振り返るが、真後ろから行く手を阻んだのは、着流し姿になった美丈夫であり。


「おめえは……まるで危機感がねぇな」



 月明かりが揺蕩う黒髪に光の輪を授ける時、青白くも見える土方の顔つきはいつもと変わらぬ愛想のないものであった。


 けれども、身を屈めてゆっくりと近づいてくる男の造作に只ならぬものを感じた更紗は、一定の距離を取るよう布団の上で後退り。


「……な…何ですか」



 トンと肩を強く押された次の瞬間、両腕を無理やり掴まれ、勢いそのまま顔の横に押さえつけられていく。


「……や……何……?!」



 白布に沈んだ両腕を這う指先は力強く、組み敷かれた身体を動かそうとしても、男の力の前では敵わない。


 固く瞑った目蓋を持ち上げれば、至近距離から見下ろしてくる端正な顔立ちと暗闇の天井が迫ってきて。


「痛い目を見ねぇと分からねぇ女っつうのは、どの村にも必ずいるもんでな」



 枕元で揺れる蝋燭の火を頼りに目を凝らすと、色気を孕んだ切れ長の双眸が容赦なく視線を絡め取る。


 これは押し倒されている状況なのだと気付いた時には、相手の膝が両脚の隙間に捻じ込まれ、太腿が見えるくらいに裾が肌蹴てしまい。



「……や……やめて下さい…」


「厭なら押し退けてみたらどうだ」



 声を震わせ、狼狽える自分の様子を表情一つ変えることなく見据え、土方は落ち着いた言葉を落としてくる。


 心臓の音がはっきりと聞き取れるくらいの緊迫感を味わいながらも、細められた眼差しから目を逸らすことができず。


 抵抗する間もなく近付けられた口元から漏れる吐息が女の唇に触れる距離まで迫った刹那。


 視界の端で音もなく襖を開けた斎藤が、こちらを見るや否や、身動ぐことなく固まっていた。



「……斎藤さん助け……!」


「取り込み中だ。後にしろ」



 反射的に上げた金切り声も虚しく、土方の冷たく放たれた一言で事態は急速に暗転する。


 常日頃からこの男に従順な斎藤は無言のまま頭を垂れると、至極当然のように襖を閉めて去っていく。


「……や!行かな……!」



 声にならない叫び声を上げ、萎縮した表情を見せるその耳元へ敢えて息を吹き込んだ土方は、僅かに口の端を上げ。


「生憎、女の怯えた面を好む野郎もいるもんでな。それは止めた方がいい」



 吐息交じりの男の囁きはカッと頭に血が上るほどに刺激的で、意識が朦朧としそうになる。


 白布に広がる更紗の下ろし髪を撫でた男は、色づいた唇に自分のそれを重ねていき。


「丁度いい。育ち過ぎてんだ、少し減らすか」



 吸い寄せた唇を離して味気なく呟いた土方は、慣れた手付きで女の浴衣の合わせを剥いでいく。


 月のように白い柔肌を直に触れ、間髪入れずに覆い被されば、汗ばむような夏の夜が二人を包む。


 身体の芯が性急に熱くなり始めた時、間近にあるその逞しい首筋に、赤い痕が生々しくつけられていることに気づき。


 鼻腔を擽る妖しき移り香の匂いが、艶かしい遊女の姿を鮮明に思い起こさせてくれる。


 都合の良い女に成り下がるつもりはないと、後腐れなく切れる存在でありたいのだと、更紗は滲む瞳に力を込めると唇を強く噛み締め。


 曲線を弄ぶように掴む男を押し返して隙間を作ると、自分の膝を立てその下半身スレスレに合わせた。



「……これ以上するなら蹴り上げますけど、どうしますか?」


「……たく、おめえはよ。もっと早く止めろ」



 大きく溜息を吐いた土方は被さっていた更紗の肢体からゆっくりと起き上がり、無表情のまま女を見据える。


「厭なら力づくで突っぱねりゃいい。それが芹沢でも別の野郎でも、おめえなら何とでもなるだろう」



 沸き立つ熱に浮かされそうな、荒療治とも言える手法に緊張で張り詰めていた身体がばくばくと血流を巡らせていく。


「……こ……怖かっ……」



 息つく間もなく襲ってきた相手から、助言を受けている今の状況が夢か現か、考えれば考えるほど分からなくなってくる。


 一体、この男は自分にとって敵なのか味方なのか、信じるべきか遠ざけるべきか。


 ほんの少ししか口にしてないはずの酒が知らぬ間に全身に甘い毒として回っているような、麻痺する感覚に陥っていて。


「おめえでどうにもならねぇなら、そん時は助けてやるから、それまでは何とかしろ」



 説得力の欠片もない言葉を投げられたところで、闇に食い潰されそうになった心がそうそう落ち着くはずもない。


「……助けてやるって……こんなことして何を…」



 泣きそうなのを堪えながら露わになっていた胸を隠せば、不意にポンポンと撫ぜる感触が頭に伝わってきて。


「餓鬼は寝る時間だ。その布団で休め」



 鍛えられた胸板を合わせから覗かせていた土方は、徐に立ち上がると振り向くことなく襖の先へ消えていく。


 信じがたい行動を取った後に見せられた不意打ちの優しさは、日に何度も心労を重ねた女の胸懐に一ミリも届くことはない。


 じっとりと肌を濡らす汗がひと時の悪夢を忘れぬようにと、沸き立つ血潮を冷やしていき。


「……この世で信じられるのは……自分だけだ…」



 胸を巣食う虚しさがやがて悔しさに変われば、自分の目に映る男たち全員が敵であるような、一切を遠ざけたい衝動に駆られる。


 夏の闇で燃え上がる灯火は、照らす指先に残る線のような赤い傷跡を浮き上がらせ、全てが夢でないことを思い知らせてくれていた。

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