髪を切るということ
吉田屋の玄関から空を見上げれば、先ほどよりも薄闇が広がり、小降りで切れ目のない雨が辺りを灰色の世界へと変えていた。
赤い格子窓の奥を覗きに来た男たちは、傘も差さずに歩く自分の姿を目にするや否や、決まって見世物を見つけたように好奇心のまま騒ぎ立てていく。
碧色の瞳に映る景色は滲んで消えていくのに、鼻腔を擽る匂いは遊女のように甘く、全身を濡らす雨は人肌のように生温い。
新町遊郭から京屋までの道のりは、正に白昼夢のようであった。
自分一人だけ現実世界から切り離された不思議な感覚の中、雨の滴が確かに生きているという実感を与えてくれた。
締め切った部屋で高く積まれた白布団をぼんやり見ていたが、イビキを掻いて寝こける伊達男を敷きっぱなしになっていたそれの一つに見つけ。
未だ混沌とした世界に置き去りにされているのかと思うほど、布団の中にいる原田は幸せそうに寝落ちており、それがなぜか面白くて愛らしく見えた。
「……髪、ちゃんと切らなきゃ」
姿見の前で正座をし、太陽の光を頼りに自分を見つめるが、
長さを切り揃えるとしても、伸びた前髪を切るくらいしかした事がないため、全部を一人で整えるのは、どう考えても上手くできるはずがない。
「……うーん、どうしよっかな……髪型って大事だしな…」
今更、こんな酷い状態で呟く悩みでないことは分かっていたが、やはり年頃の女子である以上、せめて可愛いボブにしたいと思う気持ちも捨て切れない。
売られた喧嘩を買うように手放した髪であったが、いざ無残な自分の姿を目の当たりにすれば、後悔とも落胆とも言える複雑な感情に苛まれていき。
「……っお前!!」
刹那、息を呑んで飛び起きる人の気配を感じた更紗は、衝動的な驚きと焦りから髪を隠すように両手を首に押し付ける。
そんな女の肩をがしりと強く掴んだ原田は、切れ長の双眸を白黒させて鬼気迫る表情を浮き上がらせていき。
「何があった!?誰にやられた!?俺が仇を取ってきてやる!!!」
「……あ、えっと…自分で?」
「てやんでい!てめえでこんな馬鹿やる訳ねぇだろうが!!折角の綺麗な髪がよ…!」
黒髪でもなければ、自慢できるようなストレートでもなく、単に胸下まで伸ばした長いだけの髪を綺麗だと言い切って貰えたことに、自然と目頭が熱くなる。
自らの手で切り捨ててしまったものは、思っていた以上に大切で、思い入れのあるもので。
「いや、切ったのは私なんですけど、芹沢先生とちょっと揉めて……責任を取ったんですよ。でも!自分で決めて切ったから気にしてないですよ」
更紗はワザとへにゃりと笑って見せたが、原田は戸惑いの表情を浮かべると同時に、その長い指で何度も女の頬を優しく拭い出す。
「泣いてんのに、何を無理して笑ってんだよ」
「……私、泣いてますか?」
掛けられた言葉の意味が分からないため、訝しげに原田を見つめると、その美しい双眸に映る二人の自分の瞳から、絹糸のような涙が頬を伝っていた。
「……ほんとだ。泣いてた…」
自分が泣いてることにも気づかないとは、本当に感覚が可笑しくなったのかと無意識に苦笑が零れる。
刹那、熱い体温が濡れた肢体を包み、痛いほどの力強い感触に身動き一つ取れなくなり。
「……もういい、笑うな。我慢すんじゃねぇ」
「……は、らださん……着物が…濡れ…」
「そんな事はどうでもいい。女が髪を取られるなんざ……顔で笑っても心は痛くて泣いてんだよ」
グッと抱き締めてくる原田の吐息が耳に当たり思わず心臓が高鳴るが、それ以上に言葉が心に響き、漸く目の前の景色が涙で滲んでいたことを理解する。
瞑目すれば中等部に入学した当時の光景が脳裏に浮かび上がり、途端にフラッシュバックを起こし始め────
京都から東京へ引越して間もなく、慣れない新生活に憂鬱なまま、私立の女子中等部へ入学した初日が彼との出会いであった。
肩上の栗髪を生活指導の教師に睨まれ、染髪は校則違反だと怒鳴られ泣きそうになっていた時、真新しいスーツを着た青年が周囲の目を気にも止めず助けに入ってくれる。
お礼を伝えると高等部に新任で入る美術教師だと、更紗の髪を撫でながら綺麗な栗色の髪だと微笑んでくれた。
優しげな瞳と笑うと出来る目尻の皺が印象的で、名前も知らないその男性が去って行く後姿をただ見つめていたが。
三年後、更紗も高等部へ進学すると、そこには変わらぬ男の笑顔があり、必然のように恋に落ちてしまい。
それからの長く短い出来事が走馬灯のように駆け巡り、更紗の脳内を瞬時に埋め尽くしていく。
「……っ……先生…っ…」
記憶の片隅に追い込んだ熱情はいとも簡単に、懐かしくて愛おしい人を心に呼び戻そうとする。
「────じゃあ、何だ。更紗はその絵の先生の為だけに髪を伸ばしてたのか」
「……だって……長い方が似合うって……言ってくれた……から……」
「……何とも妬ける謂れだな。年は幾つの男だ?名の知れた絵師となると、下手すりゃ四、五十の老いぼれ…」
「……なわけないじゃん……十歳上です……一回りも離れてません……」
「……十、か。なら食われちまってるよなァ……些か残念だが仕方ねぇか。俺ァ髪が短くても気にしねぇぜ。どうだい?俺を恋人とやらにしてみるか?」
「……丁重に…お断りします……」
暫しの号泣後、更紗は心にわだかまっていた過去の出来事を一つ、また一つと言葉にし、消化していた。
元の世界では誰にも言えなかったことも、二人の素性を知らぬ原田に聞いて貰うだけで、苦しかった心が楽になったような気がしていた。
文机にあった書き損じた紙で人目を気にせず鼻をかんで、スッキリした面持ちで布団を畳む伊達男に視線を向ける。
「……本気で…泣いちゃってすみません……」
「いやぁ、お前は年の割に冷めたとこがあるけどよ。ちゃんと年相応の嬢ちゃんだと分かって安心したぜ」
茶化すような口振りで話す原田だったが、その手は去りし日のあの人のように、自分の頭を優しく撫でてくれる。
「でよ、ちっとは落ち着いたみてぇだし、他の奴も部屋に入れていいか? 一が盗み聞きして其処に居やがんだよ。ほら、入って来いよ」
原田が襖の方に目線を投げ、伸びやかな声で呼びかけると、少しの間を置いて静かに襖が開いていき。
「……盗み聞きとは心外だ。言い直せ」
「悪りい、悪りい。俺たちの愛の抱擁を邪魔しないでくれて恩に着るぜ」
「……ちょっと原田さん…、愛の抱擁って、勘違いされちゃうじゃん…!」
「お前が慰められていた事は分かっている。気にするものでは無い」
入室した斎藤は大刀を抜き取り、昨夜と同じようでいて真逆の言葉を口にして壁際へ座り込むため、更紗は自然と泣き笑いの表情を浮かべる。
いつかは消えてなくなる存在だからこそ後腐れなく切れる縁にしたいと思ったが、友情なのか人情なのか分からない結びつきは日に日に強くなっていく。
知らぬ間に固結びになってしまった縁は、無理に解こうと手を加えれば加えるほど、頑丈でビクともしない絆に変わっていき。
(……原田さんも、斎藤さんも……ありがとう。)
いつかその絆に時空という鋏を入れて袂を分かつ時が来ても、互いの心のうちに残された糸の切れ端を手繰り寄せて結んでしまえばいい。
「何で手伝ってくれないんですか?後ろ髪をちょっと切るだけじゃないですか」
更紗は鋏を手に持ったまま口を尖らせ背後に座る男たちに詰問するが、原田も斎藤も明らかに困った顔で離れた位置から自分を見守っていた。
「……そんな事言われてもよ…女の髪は切れねぇって。一、お前やれよ」
「断る。そもそも、お前は断髪の意味を理解しているのか?」
「……やっぱり、深い意味あります?」
頬に
「……信じられん。断髪は、罪を犯した者や俗世を離れた人間がする事だ」
「……マジですか……小寅さんが言ってた罪人にされるって、そういうこと……」
「おいおい、
「……はい、そうです。夏だし…涼しいし……伸ばす理由もないし…」
ぐうの音も出ない男二人があんぐりと口を開けば、更紗は決まりの悪そうな顔つきで、これからの自分の未来について思案を巡らせてみる。
江戸時代における断髪の意図を理解した上で、今後の日常生活を想像してみても、不思議と不安や恐怖というものは湧いてこない。
というのも、幕末では異質なヘーゼルアイと栗色の髪のお陰で、既に何度も好奇の目に晒されているからであり。
今更、髪が短くなって犯罪者のレッテルを貼られたところで、夷人として攘夷派の志士に命を狙われる可能性がある現状と、大して変わらない気がしてならなかった。
「……もういい。自分でやりますようだ」
更紗はプイッと男たちから顔を背ければ、
母のような黒髪ストレートに憧れ、ゆるく巻いてしまう自分の髪質が嫌いであったが、この時ばかりは適当に切っても誤魔化せる自分の栗髪に感謝していて。
「こんな感じかなぁ……ちょっと右の方が長い…?」
うねる毛先を見つめ、左右の長さが均等か鏡で念入りにチェックしてみるも、背後から放たれる突き刺さるような視線が邪魔で仕方ない。
気が散ると言いたげに後ろを振り返ると、やたらと悲しそうにしている原田と眉を寄せて顔を
「二人とも何て顔して見てるんですか。元々、髪は切るつもりだったんで、私はもう落ち込んでもないですよ」
「だってよ……良い女が河童頭になっちまって……」
「……カッパって……月代剃ってないからお皿の部分ないし!最低でもお、を付けて下さい。おかっぱ頭ね」
「……髪は生える故……三年ないし四年耐えれば、元に戻るだろう」
「……三年から四年って……それまでには絶対帰る…」
「…おいおい、さっきより短ぇじゃねぇかよ!!左之、何で止めねぇんだよ!」
スパン、と開けられた襖の音に重なるように男の焦り声が室内に響き渡ったため、更紗は反射的に騒々しい方角へ顔を向けていく。
そこには、血相を変えてこちらへ歩んでくる永倉と入り口で佇んだまま自分を見ていた土方の姿を捉え。
「更紗!!真に面目ない!!助けてやれんで済まんかった…!」
鋏を隠すように両手で握りしめた更紗は、赤く充血した瞳を見られまいと、咄嗟に顔を戻して目の前の薄ぼんやり映る鏡を見つめる。
鏡越しに見える永倉は申し訳なさそうに背後へ腰を下ろしていくが、ここにいる誰も悪くないのだと、声にならない葛藤が小さな刃を胸に突き立てていて。
「……お前に責任取らしちまって悪かった。俺に出来る事はないか…」
「私は大丈夫です。それよりも小寅さんとお鹿さんには筋を通してあげて下さい。断髪してもちゃんと胸を張って生きていけるように」
「……でもよ……お前もそのナリじゃあ……罪人ならずとも、俗世を捨てた出家僧だと思われるぞ…」
「……俗世を捨てた、か…」
永倉から発せられた言葉をゆっくりと反芻し思考を巡らすと、無意識に口元が綻び、笑みが零れていた。
その言葉はあながち間違いではなく、ほんの少し訂正するならば、平成という俗世を自ら捨てたのではなく、あちらから見捨てられたようなもので。
「……出家僧扱いで上等ですよ。だから、誰か断髪式に付き合って下さい。流石に一人じゃ上手く切れないし」
「ならば、俺が切ってやる」
「……え、……」
「これでも布を裁つのは得意でな」
壁に預けていた身をゆらりと起こした土方は、懐手をしたままこちらへ真っ直ぐ歩いてくる。
昨夜、あんな目に遭わされた男に触れられるのは抵抗があるため、肩を竦め身構えてしまうが、当の本人は素知らぬ素振りで握りしめていた鋏を抜き取っていく。
「……たく、雑に切りやがって。芹沢に啖呵切ってどうすんだ」
「……だって、命より大切なものはないし…」
「それで、おめえさんは泣きを見てんだろうに」
「……どれだけ痛い目にあっても、懲りない女もいるんです」
「そうかい、そりゃあ救いようがねぇな」
殆どの男たちが同情の眼差しを自分に向ける中、この男はいつものように突き放す態度で自分に接してくる。
でも、それがなぜか有り難く思えるもので。
「……ほんと……救いようがないですね…」
今はもう誰かに謝って欲しいわけでも、憐れんで欲しいわけでもない複雑な感情は、男からの一言がパズルを埋めるピースのようにストンと胸に嵌っていく。
更紗は泣き腫れた目蓋を下ろし、長い指先を栗髪に差し込み手櫛で梳かす感触に心地よさを覚え始めていた。
それは無理やり押さえつけた恐怖の感覚ではなく、壊れ物に触れるような、優しい気遣いを感じるものであった。
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