五月雨

文久三年 五月下旬


土方副長室にて



 軒を打つ雨の音がうつらうつらと女を眠りの世界へ誘う時、その締め切った室内には男の燻らす紫煙が立ち込めていた。



「──特に不逞浪士には出くわさなかったのですが、町方同心が浮浪の取り締まりに手こずっていましたので、その助太刀を……」


「例えば」


「……は、暴れる浮浪を私と藤堂で取り押さえた後、沖田が手持ちの縄を掛け、その場で引き渡しました」


「何か言われたか」


「……同じ浅葱の羽織を纏っていました故、何者かと問われました」


「返答は」


「……我々は会津藩お預かりの壬生浪士組であると…」



 ぼそりと、土方の問いに答えた青年の声はその姿を隠すように淀みなく降る五月雨の中へと消えてゆく。


 水分を含んだせいかいつもより濃く感じる煙管の香りが、眠気でぼんやり惚ける女の頭をクラクラさせる。


 土方が書き終えた書状を受け取っては一枚ずつ畳に並べていた更紗は、低頭する斎藤の背後を横切ると、縁側へと繋がる白障子に手を伸ばし。


「それでいい。売れるもんはつらでも恩でも存分に売っておけ。ご苦労、下がっていいぞ」



 昼下がりの屯所はそれは穏やかなもので、その先の雨戸を開け気まぐれに外を眺めても、止む気配の無い静かな雨が迎えてくれるだけ。


 五月十一日に将軍警護の仕事を終え大坂から帰京した頃より、降雨時間が一日の大半を占め、気づけば京では二週間近く長雨が続いていた。


(……これって梅雨だよなぁ。未来より季節が早くやってくる……暦が違うとか…?)



 平成で培った感覚は思いの外、身体から抜ける事はなく雨は六月に降るものだという認識が、些か早く訪れる梅雨に違和感を感じさせてくれる。


 思い返せば、タイムスリップした三月三十日、現代では満開に咲いていた京都の桜が、幕末ではどの場所も綺麗に散って葉桜と化していた。


 自分の持ち合わせる常識とおよそ一ヶ月程度のズレはあるものの、蒸し暑い未来の梅雨時期と比べ、気温の上がらない今の季節は、とても過ごしやすいもので。


(……ほんと現代の地球温暖化を感じるわ……150年前と全然違うもんなぁ…。)


 

 更紗は斎藤が退室するのを無言で見送り、室内に充満した重たい煙のような灰色の空を仰ぐばかりであったが、男の容赦無い怒号によって現実に引き戻され。



「馬鹿野郎!雨が入ってきちまったら紙に皺がいくだろうが!早く閉めろ」


「…あっ……すみません…!」



 視線を向けるまでもなく額に青筋が這う男の般若顔が想像でき、女は勢いよくパタンと戸板を閉めれば、慌てて近くで乾かしていた書状を確認していく。


 特に滲んだ文字もなくホッとしたのも束の間、右から左へと達筆に書かれた人名らしき数と、末尾に書かれた総人数の漢数字が何度数えても合わないもので。


「……あの、ですね。この鎖港さこうについての上書なんですけど……書いてある名前は35人分なのに、最後に〆三拾六人て書いてるのはワザと…?それとも一人足りないのは気のせい…ですかね?」



 恐る恐る文机に向かって歩みを進めれば、煙管を煙草盆に置いて書きかけの書状に再び筆を走らせる土方の姿が碧色の双眸に映り込む。


 一晩中泣いた大坂のあの夜以来、何故か傍に置いてくれるようになり、ふと気がつくと茶運び以外の小姓の仕事や世の情勢を教えられていた。



「誰の名がねぇか分かるか」


「……誰の名……名前……」



 両手に広げた書状をじっと見入るも、其処には博物館に展示される書簡にありがちな、柔らかく繊細な崩し字が永遠と連なっているだけ。


 この時代の文字は一画、一画を整えて書く楷書体というより、書く速さや筆づかいの美しさを際立たせた草書体が主流なようで、素人目に解読できるものではない。



「……読めない」


「おめえはよ……よくそれで生きてこれたもんだな」


「……そう言われても……まだ、この時代では二ヶ月しか生きてませんから…」


「字は覚えても損ねぇんだ。今からでも読み書きできるようになれ。因みに書いてねぇ名は新見だ。新見錦の名を外した」


「……新見さんですか。それって……芹沢先生を怒らせることをしたから…?」



 その男はこちらの問いに答えることもなく悠然と筆を動かすだけで、シンと静まり返った室内には戸板に当たる雨音が小さく響いていた。


 

 切腹を強いられた家里次郎の亡骸を奉行所へと運んだ壬生浪士組の手元に残ったもの、それは彼が兄から預かったと強く言い張った5枚の小判であった。


 盗られたものを返して貰うだけだと、彼らはそれを悪びれる様子もなく隊費へと当てたが、管理を申し出た新見が黙って一両を持ち出す騒動が起こり。


 事態を重く見た平山が本人に詰め寄れば、資金を増やそうと博打に当てたが負け越したのだと言い出す有様で、憤慨した芹沢が新見を局長職から降格させ、屯所から放り出したのである。



「芹沢の野郎、他人には厳しく身内に甘ぇとはな。辛酸をめさせられたモンとしちゃ腑に落ちるもんじゃねぇなァ」


「……それは……私には分かりませんけど……」


「人によって量刑が変わるのは不承だ。浪士組に入ったからには、誰しもてめえの命を賭す覚悟をしてんだ。俺が不平等にならねぇよう規律を纏めてやる」


 

 この時代において平穏無事に一生を終える事は奇跡に近いもので、死がいつも手に触れるほど身近にある事を、背後には常に死の影が付いて回る事を、更紗は少ない経験から肌で感じ取っていた。 


 得体の知れぬ自分を受け入れてくれた壬生浪士組も全ては信用できないもので、過去にどんな半生を送ってきたかも分からない浪人たちと暮らす事に恐怖を感じ、底知れぬ不安に襲われる夜もある。


 それでも、人間とは単純なもので、抱えていた哀しみを一度でも誰かと共有すれば、その苦しみから一切とはいかなくとも解放される瞬間があり。



「おめえも小姓として市村──、とその名を書いてやっても良かったんだがな」


「……いえ、それは結構です。目立つ事はしたくないですし……それに、この書状って……ある意味私の存在を否定してるようなものだし…」



 土方が書き連ねていた鎖港についての上書、即ち浪士組から君主である徳川幕府へ提出する建白書には、攘夷実現へ向けて外国船の入港を禁止する為にも港を封鎖すべきだという主旨の意見を記していた。



 事の発端は遡ること梅雨入り前、将軍警護から帰京する前日の五月十日は、異国嫌いの朝廷を納得させる策として、幕府が苦し紛れに布告した攘夷期限の日であった。


 圧倒的な武力を持つ外国を排除する事は不可能だと悟った幕府は、あくまでも自分たちの攘夷は締結された条約破棄や鎖港交渉を開始する期限だと捉え、命知らずな軍事行為に出るつもりは無かった。


 しかしながら、攘夷に執念を燃やす長州藩は来たる五月十日が異国へ公式に宣戦布告できる日だとし、同日に下関海峡に停泊していたアメリカの商船に砲撃を加えたのである。


 口火を切ったように瞬く間に全国へ攘夷運動が広がっていく中、それらに触発された朝廷が無理難題を述べる前に京を離れるべきだと、現実を知る幕府側は水面下で将軍を江戸へ戻すよう動いていた。


 けれども、政治からも蚊帳の外であった浪士組はそんな幕府の思惑も露知らず、将軍東帰を止めて攘夷を叶えたい両局長の熱意を組んで、歓迎されない独自の行動を取っていた。



「…まぁ、そう言われりゃそうだが。何だ、気にしてんのか」


「……気にしてるっていうか。攘夷派のお侍さんに会ったら斬り殺されそうで怖いです」


「ほう、おめえも世の常が分かるようになったか」

 

「……少しずつですけど。これでも自分の身は自分で守るつもりではいます」



 いつ何時どんな災難に見舞われるか分からないご時世だからこそ、浪士組の男たちに負けじ劣らず、胸を張って生きていたいもの。


 幸か不幸か、これまで培ってきた武術の技をより磨く環境は揃っており、後は現代へ呼び戻されるその日まで自己防衛に徹しながら幕末を生き抜くしかない。



「そうかい、ついこの間まで赤子みてぇにピイピイ泣いてやがった女がなァ。せいぜい頑張るこった」


 クツリ、とまるで人を小馬鹿にするように口の端を持ち上げた色男は、吸い終えていた煙管を手に取ると、慣れた手つきで煙草盆に灰を落としてゆく。


 こちらを揶揄するような土方の態度に更紗は自ずと不愉快な気分に苛まれるも、ぐっとそれを胸の奥底に閉じ込めて言葉を紡ぎ出すのであり。



「……もう泣きませんから。ていうか、いい加減、忘れてくれてもいいじゃないですか…」


 その男は、不意にさりげない気遣いを見せたかと思えば、手の平を返したように突き放す素振りを見せたりもする。


 更紗は自分にとって天敵でしかなかった筈の土方歳三が、大坂での出来事を境に果たして敵なのか味方なのか、冷静に判断できない感情に苛まれており。



「───失礼」


 音もなく襖が開くと同時に廊下を漂っていた涼やかな空気が吹き込めば、何処か澄ました顔つきの永倉が遠慮のない足取りで部屋の中へと入ってくる。



「おお、やはり此処にいたか。更紗、お前に客人だ」


「……客人?」


「いつの間に京美人の知り合いができたんだ。お前にしちゃあ大手柄だな」


「……京美人ですか?……私、女の人で知り合いなんていませんけど…」


「向こうはよく存じているようだったぞ。お更ちゃんに会いたい、お更ちゃんは何処にいるんだ、と畳み掛けるように隊士たちに話していたが」


「……畳み掛けるようにって……ひょっとして…」



 女性と関わることなど皆無に近い軟禁生活の中で唯一、思い浮かんだ女の名を呟こうとすれば、朝に着座してから一歩も動かずにいた男が立ち上がる。


「……あのアマ、何しに来やがった」



 舌打ちと共に吐き出された言葉には既に誰であるか察しのついた嫌悪が含まれており、その場にいた更紗と永倉は思わず、息を潜めて火の粉が降りかかる瞬間をやり過ごしていた。


 開け放たれた襖から颯爽と出て行く土方の後ろ姿は、風を切って纏う火群ほむらを辺りに撒き散らす、さながら不動明王のように思えるものであった。


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