月の照らす夜に

 月明かりの下、水鏡に映る己の姿は今にも消えてしまいそうに儚く、生気のないものであった。


 橋の上にへたり込み、人の目もはばからず泣き続けていれば、流石に傍にいた井上も呆れ果てたのか、知らぬうちにその姿は消えていて。


「……ごめ……なさ……」



 誰かを不幸にしたくて教えたわけでないのは自分が一番分かっているのに、誰かをこれ以上ない不幸に突き落としてしまった現実が覗きたくなかった深淵しんえんにまで追い立てる。


 自分がこの時代で生かされている意味などなく、存在価値すら見出せないのに、生きるべき先人の命が自分の所為で消えてしまうのは耐えられなかった。


 それでも芹沢に死を匂わす問いを差し向けられた時、咄嗟に言葉を返せなかったのは、あざとくも己の命を手放したくないと思ったから。


 捨てきれない生への執着が矛盾して後悔の裏に潜んでいる事に気付き、どうにもならない不甲斐なさに目頭から熱いものが溢れ出てくる。


「……私なんか……いなければ……」



 夜風で揺れる水面に映っていた下弦の月は、いつの間にか真上に移動し、朧げな世界の中でも小さくも冴え冴えとした輝きを手放さない。


 カツカツと鳴る音が自分の目先で止まった事で、更紗はぼんやりとしたまま頭を少し持ち上げるが、濡れた瞳に映るのは高下駄を履く男の素足だった。



「いつまで此処にいんだ。おめえが源さんを困らせてどうする……戻ってやれ」

 

 どこからともなく肌を撫でる微風が女に鉄錆の匂いを感じさせると思いきや、滲む視界に映るのは、黒袴についた筆を押し付けたような赤黒い染み。


 それが何を意味するのかを即座に更紗は理解するも、嗚咽に混じって口から出る言葉は此処で何度繰り返したか分からない一文のみで。



「……ごめ……なさ……」


何故なにゆえ、おめえが謝る義理がある」


「……だっ…て……私の…せいで………」



 伝えたいことは山ほどあるのにぽろぽろと流れ落ちる大粒の雫が、女の唇から紡ぎ出そうとする懺悔の言葉を否応無しに奪っていく。


 火がついたように泣きじゃくる更紗の前にゆっくりとしゃがみ込んだ土方は、濡れた白い顎を掴むと強引に上を向かせる。


 たちまち涙でぐしゃぐしゃになった女の顔が月明かりに照らされれば、スッと伸びてきた長い指が頬に残るそれを拭い取っていき。



「おめえが悪さをした訳じゃねぇだろう。何をそんなに泣く必要がある」


「……家…里さ……が……死んだ……の……私…が……」


「自惚れるな。奴はてめえで腹を切り、武士たる最期を遂げたんだ。背を向けて逃げやがった腰抜けの分際で、これ以上の死に様はねぇだろうが」



 一人の人間を死に追いやったのだと責め立てられても可笑しくないのに、目の前の男はいつもの素っ気ない言葉の中に最大級の許しを与えてくれていた。


 耐えきれず声を上げて泣く自分から指先を離した土方が再び手を伸ばした刹那、ふわりと頭上を優しい感触が包み、徐に掛けられた重みで伏せた顔が男の肩へと触れ。


「……たく、赤子みてぇに泣くのは今宵で仕舞いにしろ。気の済むまで弔ってやれ」



 情けない姿を笑うでもなく、まるで壊れ物を扱うように何度も頭を撫でてくれる土方の体躯は、海岸線のように緩やかで存外逞しいものであった。


 その大きな手が心地良くて、その広い肩が心強くて、着物越しに伝わる体温が今もなおこの世界で生き続ける自分を肯定してくれるようで。


「……ふ…えぇ……」


 

 母を喪った日のようにむせび泣く声に混じって、一度は耳にしたことのある江戸子守唄を口遊む男の低音が、瞑目した更紗の鼓膜を静かに震わせていく。


 それは寄せては返す波のように、新しく生まれ出る雫を涙の跡へと引き込み、二人の狭間にある光の届かない天下てんげへ落としていった。

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