京女に江戸男
曇天の日の屯所内は、日中とはいえ世界の不穏を取り混ぜたように薄暗いものであった。
歩むたびにミシリ、ミシリと湿気の籠る板廊下が軋んでいるが、その音を掻き消すような男女の話し声が玄関口から響いてくる。
「────だから、用があんのはあんたやなくてお更ちゃんや言うてるやないの」
「生憎、一端の女郎に構うほどこちとら暇じゃねぇんだ。大人しく色里へ帰ったらどうだ」
「だから!うちは女郎やなくて、れっきとした
啖呵を切るように張り上げられたのは、いつぞや大坂の町で聞いたことのある威勢の良い女のがなり声であった。
幾人もの隊士たちが野次馬のように取り囲む中、 遠目からでも分かるほどにバチバチと火花を散らした双方の心意気が淀んだ空気に張りを与えてくれる。
近寄るべきなのか否か判断に迷ってしまった更紗はその場で二の足を踏むが、男たちの隙間から偶然、自分を見つけた龍は途端に険しい表情に花を咲かせるのであり。
「……お更ちゃん!やっと会えた〜!我慢できひんで会いに来てしもうたわ」
頭を垂れる龍に慌ててこちらもお辞儀をすれば、興味津々に佇んでいた隊士たちがここぞとばかりに通路を開けてくれる。
致し方なく流れのまま歩みを進めていけば、勝ち誇った笑みを浮かべる龍の横で、むっつりと明らさまに不機嫌な顔つきを見せる土方が此方へ流し目を寄越してきて。
「龍さん……お元気そうで何よりです。わざわざ屯所まで……ありがとうございます」
「お更ちゃんも元気そうで安心したわ。今からな、うちと一緒に行って欲しいところがあるねんけど、外へ出られはる?」
「……行って欲しいところですか?」
「そうや。大坂であった出来事をうちの人に話したら、是非ともお更ちゃんに会うて御礼がしたいて」
「……うちの人?」
「嫌やわぁ、前に話した好きな人のことに決まってるやないの。お龍の命の恩人はワシの命の恩人でもあるき、言うてはってね」
龍の嬉しそうな返答を聞くや否や、更紗は小さく同じ言葉を呟き、苦笑いを浮かべる。
「……命の恩人……そんな大それた」
去るあの日、新町遊郭であったこと全てが夢のような出来事であり、正直、死に物狂いで逃げた自分が最後、何をしでかしてしまったか根こそぎ忘れたいくらいであった。
抹殺していた記憶が蘇り始めたことで、妙な汗が全身から吹き出す感覚に襲われるが、それ以上に至近距離から浴びせられる視線が、ぞくりと悪寒を呼び込むもので。
「おめえが町を歩きゃ、どういう事が起こるか分かってんだろうな」
「……はい、分かってます」
「死にたかねぇなら、此処にいろ」
「……はい」
文久二年、幕府の目が行き届かない京の町を我が物顔で歩いていたのは、急進派の尊皇攘夷志士であった。
彼らは天誅と称して幕府の要人や開国派の侍を次々と暗殺し、それまで政争とは無縁に暮らしていた市井の民を震撼させる事となる。
人斬りの暗躍に歯止めをかけるため幕府が腕に覚えのある者を集め、反幕勢力を取り締まる治安維持部隊として浪士組を結成させるが、その不穏な勢いは文久三年、彼らが上洛しようとも衰えることはなかった。
「そう言われる思うて、こっちも考えてきたわ。此処からも近い島原やったら構へんやろ?彼処やったら、お侍さんは店に刀を預けなあかへんさかい」
「……島原って……まさか遊郭ですか?」
「そう、奮発してあの角屋さんに一席設けたんや。お更ちゃんは行ったことある?」
「な……ないですよ!遊郭は男の人が行くところじゃないですか…!」
「あら、島原は新町と違うて、女の人もようさん遊びに来てはるけどねぇ」
「……そうなんですか?…で、でも……」
「楢崎の家は普段の生活を取り戻せたの。お礼くらいちゃんとさせて。この雨の中、歩いて来ましたけど、壬生では人っ子一人会わへんどした。お更ちゃんのことはうちが責任持って送り届けますから、いけず言わんとお頼もうします」
全く意見を曲げない強硬姿勢を見せる龍は大袈裟に声を張り上げると、野次馬と化す隊士たちの前で当てつけのように低く頭を垂れていく。
その構図が完全に誰の目にも弱いものいじめに映り始めた刹那、背後で成り行きを見守っていた男が痺れを切らして歩んでくるのであり。
「……ならば、俺が迎えに上がろう。それだったらいいだろ?土方さんよ」
「新八てめえ、女郎に口添えするつもりか」
「偶にはいいじゃねぇか。男所帯で不自由な生活を強いてんだ。俺たちみてぇな息抜きも必要だろう、なぁ更紗」
両者譲らぬ言葉の天秤にほんの一匙の重みを乗せたのは、割と何事にも沈着な物言いをする永倉であった。
「お兄さん、話しの分かる人やねぇ。壬生浪にもそんな御方がいはったとは」
「武士とて堅物な男ばかりではありませんよ。迎えに上がるにあたって、角屋のどちらに伺えば?」
「へぇ、才谷屋に会いにきたと言うてくれはったら。ほんでも、女同士ゆっくり話したいこともあるし、その辺は…」
「然り。江戸っ子は野暮を嫌う性分ゆえ、何卒ご安心を」
珍しく饒舌な喋りを見せる永倉の顔を見やれば、涼しげな美しさを覗かせる龍を前にして、機嫌がいつもより上り調子である模様。
対して、横で広がる重苦しい空気に恐る恐る目線を持ち上げれば、眉間の皺を深く刻んだ色男が此方へ突き放すような冷めた眼差しを向け。
「勝手にしろ。おめえがどうなろうと知ったこっちゃねぇ」
吐き捨てられた言葉は刃物のように鋭く、どんどん遠ざかる背中を見つめているだけで、胸にぐさりと穴が開くような痛みを感じてしまう。
「……怒っちゃった」
この時代に来て約二ヶ月、殆ど屯所から出ない生活を送っているが、それは夷狄の血を引く自分が町で命を狙われないように、平穏無事に暮らしていくための手段に過ぎなかった。
本人から見れば周りと変わらぬ容姿だと思っても、幕末の人間に浮いて見えるのだと諭されれば、今の生活スタイルもそれなりに受け入れられるもの。
気づきを与えてくれたのは決して優しい物言いはしない土方であったが、その助言を無下にしてまで自由な時間を手にしたいとは思えなくて。
「────ほんまいけ好かへんわ。顔が変にいい男は腹の内が真っ黒やね。墨だらけや」
ぽつぽつと傘を打つ雨音に紛れて、頼りなく前を歩く龍の不機嫌な声が途切れ途切れに聞こえてくる。
長雨のせいで酷くぬかるんだ壬生村の畦道は高下駄を履いても足を取られるもので、下手に道の端を歩けば田んぼに滑り落ちそうな怖さがある。
そんな
「墨だらけって……土方さんのことですか?さっきまで筆で文字を書いてたから…」
「そういう意味やなくて!腹黒や言うてるの」
「ああ、そういうことですか……腹黒、かなぁ。確かに優しくはないですけど……でも、そんなに悪い人ではないのかなって」
「どうなろうと知ったこっちゃねぇ、なんて。江戸弁であんな酷い言い草されたのに、お更ちゃんは何で悪人やないと思うてんの?」
「……何で…って。つらかった時に、一度だけ寄り添ってくれたから…ですかね」
この降り注ぐ雨のように、いつ泣き止むかも分からない自分に文句一つ言わず付き合ってくれた時間は尊いもので、だからこそ今こうして前を向けているのだと自覚していた。
勿論、全てを忘れることはできず、家里を思い出して胸が苦しくなることもあるが、闇の中で感じた温もりそのものが、どうしても噓偽りだとは思えなかった。
「……お更ちゃん、まさかとは思うけど。あの副長に惚れてるん?」
「え、私がですか?何で…?」
「だって、今、……乙女の顔してた」
「ちょっと待って……何がどーなったらそーなるんですか!私が土方さんを好きになる…?ないない!絶対ない!!死んでもない!!」
「死んでも、て。けったいなこと言わはるなぁ。死んでしもたらかなんし、今日は此処までにしとこか」
カラカラと笑い出す女の先には城門に見間違うほど立派な島原大門がそびえ、入り口で揺れるしだれ柳さえ来客を待ち侘びる遊女を連想させるものであった。
「……ほんと、笑えない冗談はやめて下さい」
新町遊郭と違って赤塗りでない、木目格子の建物が整然と並んでいる様を垣間見た更紗は、焦燥とも高揚とも言えぬ奇妙な感覚に駆られ、胸がばくばくと張り詰めていた。
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