武術上覧
文久三年四月十六日
京都守護職 黒谷会津藩本陣にて
優しげな水色の空高くに太陽が昇り、その眩しき日差しを緑の山の端にかかる薄雲が遮り始めた真昼頃。
上質な羽織袴を纏う高貴な人物との拝謁を済ませた浪士組の隊士たちはそれぞれ緊張の面持ちで、金戒光明寺の本堂前に敷かれた
末席に座る女も例に漏れず、長い髪を一つに結わえ、渡された木刀を腰にぶら下げた周囲にいる男たちと変わらぬ装いで強張った表情を見せていて。
(………昨日、土方さんと山南さんが話してたのは、この事だったんだ……。)
心の内に
二十五名ほどの浪士が列を成して闊歩するのは、なかなかに見応えがあるもので、通りかがった市井の民はその足を止め、何事かと言わんばかりに此方の様子を眺めていた。
苦い思い出の残る四条通りを真っ直ぐに突き進めば、現代と殆ど変わる事のない朱塗りの八阪神社が祇園の町を見下ろすように堂々と鎮座していた。
女は思いがけず生まれ育った町の150年前の景色を見てしまい落ち着かない気分に苛まれていたが、北へと歩んでいくにつれ家屋は減り、代わりに映り込むのは、要塞の如く丘の上に聳え立つ金戒光明寺の荘厳たる佇まいで。
「──何や、今日も大人しいなぁ」
不意に空気と同化するような静かな声音が聞こえ、右隣へと顔を向ければ、微かに口の端を持ち上げる山崎の横顔を捉える。
浮遊していた意識を慌てて元に戻した更紗は、身体に沁み入るような緊張を覚えつつ、顔を寄せて耳打ちするように小さな声を出してゆく。
「……いや……だって……今日、何があるのか…知らされてなかったから……」
「今日は武術上覧。肥後守松平容保様が、会津藩との結束を強める為にも浪士組の稽古披露の場を設けて下さったんや」
「……武術上覧…?…その……肥後守…様っていうのは……あそこにいる…?」
「そう、局長といはる御仁で会津藩の中で一番偉い人や。俺らは肥後守様の命に従って幕府に仕えることになる」
「……そうなんですか」
太陽の日差しをもろに浴びている自分たちとは違い、本堂の屋根の下に陣を取るその男性の周囲には何人かの屈強な侍が控え、浪士組の局長である近藤や芹沢と歓談している様子である。
上座と下座に区別するかの如く開けられたスペースに歩んできたのは、白装束に身を包んだうら若き青年の藤堂平助と普段通りに黒装束を纏う土方歳三であり。
(……何だかいつもの二人と違う……こっちまで緊張しちゃう……。)
上座に向かって深く一礼をした二人は、顔を付き合わせたまま、手にしていた木刀をゆっくりと構える。
真面目な顔つきで臨む藤堂は見るからに表情は硬いが、背筋を伸ばし堂々と真正面を見据えるその姿からは若さ溢れるパワーが
代わって対に立つ土方は何らいつもと変わらぬ涼やかな雰囲気を醸し出していたものの、美貌を包む黒が男の品位を徐々に解き放っていくもので。
「………すごい……隙がない……」
剣術の試合というよりは剣道形の公開演武といった方が正しいほどに、二人の掛け声と共に繰り出される剣舞の一挙一動から更紗は目を離すことができなかった。
藤堂が木刀の切っ先を土方の顔の中心に向けて星眼の構えを取れば、土方はその刀身を僅かに傾け、切っ先が藤堂の左目を捉えるように平晴眼の構えを取る。
ひたすらに攻めの姿勢を貫く白き藤堂の剣と、それを
「……更紗、ようく見とけよ。一番年下でちっせえ癖に土方さんにも容赦なく斬りかかる平助の流派は北辰一刀流だ。江戸でも三本の指に入る名高き道場、玄武館で鍛えた凄腕なんだぜ」
「……玄武館、ですか。…試衛館じゃなくて…?」
「試衛館にも居たけどよ。やっぱ始めに身体に染み付いちまった剣を消すことはできねぇからな。何が何でも突破しようとする度胸は北辰一刀流で培ったもんだ。まぁ、それを茶化して玄武館の魁先生なんて呼んでやるが、俺なんざ逆立ちしても真似できねぇ剣技だぜ」
さながら自分の事のように嬉しげに話す左隣の原田をチラリと一瞥した更紗は、全く異なる性質を持つ二つの剣が一つの形を作り出す不可思議さにどんどん魅了されていた。
まさしく陰と陽が対峙するかの如く白装束と黒装束の武士のせめぎ合いが白熱すれば、興奮冷めやらぬままに自身の胸がばくばくと張り詰めていく。
色味のお陰もあって一回りほど身体が大きく見える藤堂平助の剣は、道場で見ていたそれよりダイナミックな躍動を感じられる鋭さを全面に押し出している。
対して、初めて目にした土方歳三の剣は、相手方の果敢な剣とは異なり、雄叫びを上げる事もせず、無駄な所作一つ見当たらない落ち着き払ったものであった。
男の余裕さえ感じられるその凛とした佇まいは、自身の魅せ方を理解しているかのように美しいもので、少しでも気を抜けば見惚れてしまいそうになるが。
「……土方さんの剣って……綺麗なものなんですね」
「いや、ありゃあ、偶に出る余所行きの剣だぜ」
「……え、?」
「若い頃から行商で他道場を渡り歩いて良いとこ取りしてた所為で、普段の剣は癖が強ぇんだよ。しかも勝つ為にはどんな姑息な手も使いやがる。隠し持つ剣は天然理心流にも染めきらねぇ土方流。即ち我流っつう事だ」
敢えてその男が居ない時間帯を見計らって道場に顔を出していた更紗にとって、目の前で見ている剣が作り物であるならば、その裏に秘めた本来の剣技がどのようなものなのか好奇心を擽られるものであった。
「……副長なのに……姑息なんだ」
何となくいつもの態度を見ていれば、腑に落ちるような気もしなくもないが、それが帳消しになってしまうほどの美貌を備えた土方を、どうしても目で追ってしまう。
そわそわと落ち着かない心地のまま、上座へ向かって頭を垂れる藤堂と土方を見守っていたが、代わりに端から現れた二名の剣士が面に胴小手と防具の全てを身に付け裸足のまま空きスペースへ歩んでいき。
「おお!ぱっつぁんと
「……どっちが永倉さんで……もう一人が……誰…?」
「右が新八で左にいるのが斎藤一。まだケツの青い無口な野郎が一人いるだろ?あれがまた強くてよ……まぁ、見てろ。驚くような事をしてくれるぜ」
含みを持たせて話す原田の楽しげな声を聞きながら、更紗は前に座る隊士たちの背中越しに竹刀の切っ先を合わせて対峙する二人の男を見やる。
間に入る見知らぬ侍の号令が掛かった次の瞬間、雷鳴の如く凄まじい音が辺りに鳴り響き、互いの面に振り下ろされた剣の威力が甲乙つけがたいものである事を証明していた。
磁石が弾き合うかのように距離を取り合った永倉と斎藤は、殺伐とした独特の空気を放ちながら、摺り足でゆっくりと立ち回っていく。
斎藤が正眼の構えから上段の構えを取るように腕を持ち上げた刹那、上座側、下座側の両方の侍たちから歓喜とも思えるどよめきが沸き起こっていき。
「……あれ…?左手に竹刀を持ちえた…!?」
「そう、一は両利きなんだよ。例え利き手が左であっても武士がそっちで刀を握るのは法度とされてんだけどよ……以前いた道場では強みとして捉えてたみてぇでな。今でも欠かさず右も左も稽古してんだぜ」
「……へぇ、珍しいですね。両利きの剣士なんて初めて見ました」
「長年生きてきたけど、俺も初めてや。確か……流派は溝口派一刀流やったと言うてたやろか」
「あぁそうそう、そんな名だった筈だ。なぁ、源さん、一の流派はどこの国の流派だったっけよ…?」
原田が目前に座る丁髷姿の侍をツンツンと小突けば、遠慮がちに背後を振り向いた井上源三郎が目尻に皺を寄せながら穏やかに微笑んでくれる。
「本人は口下手なのか多くを語らないんだが、溝口派一刀流は会津で伝承されているようだね」
「会津かぁ……そりゃあ肥後守様の前で披露するにはもってこいじゃねぇか。お陰でぱっつぁん、年下相手にやりにくそうにしちまってよ…」
他愛もない会話で和やかな雰囲気が流れ込んでいた茣蓙の向こう側では、まさに緊迫した男たちの戦いが繰り広げられていた。
永倉が一切の妥協を許さず斬撃を打ち込んでいくものの、左手に竹刀を持つ斎藤は滑らかにそれを振っては攻撃を切り崩していく。
左右の違いといえどもその独特の間合いの取り方はやりにくいもので、立ち回り方を間違えるだけで右利きの剣士は命取りになる。
斎藤に先手を打たれないようにとどっしり重みのある足運びを見せる永倉に対して、地面を滑るように擦る青年は、相手に隙が生まれるのを今か今かと待ちわびているかのようであったが。
「勝負…!!」
不意に声を荒げた永倉が背後に大きく間合いを取り、切っ先を土埃の舞う地に向けるように下段の構えを見せる。
刹那にタイミングを計った斎藤が地面を蹴って天に掲げた竹刀を振り下ろすが、その斬撃を永倉は力で擦り上げ威力そのままに渾身の面を打ち込んで。
「……龍飛剣出しやがったな。肥後守様の前だからって身内にも手加減しねぇなんざ、ぱっつぁんの良い格好しいめ。源さん、後でちょっと懲らしめてやろうぜ」
「別にいいじゃないか。実にいい試合だった。二人の良さが出ていたねぇ」
「永倉の剣は天然理心流のものですか?どうにも近藤先生のそれとは違うような気がしますが」
「山崎君の見立て通り、新八の剣は初めて体得した神道無念流の方が色濃く出ているかな」
「そうそう、天然理心流はどっちかっつうと気組で乗り切っちまうが、ぱっつぁんは力で敵をねじ伏せる神道無念流の剣だよなぁ。芹沢先生にもやたらと気に入られてるしよ」
「芹沢先生の一派は皆、神道無念流の使い手なんやもんなぁ。次に出る平山五郎が免許皆伝で、佐伯又三郎は……何て言うてたやろか…」
地面に伏せてしまいたくなる衝撃音が今だ鼓膜から離れない更紗は、身を縮こませたまま、自分の頭上を飛び交う男たちの声を薄ぼんやりと聞いていた。
この屯所に来て知った常識の一つに、隊士たちが幾人か集まって他愛もない会話を始めれば、辿り着く先はどこぞの廓の女が良いだの悪いだのという色めいた話しか、誰がどこの道場で目録を取っただのという剣の話しの二択である事だった。
さしてどちらの話題にも興味がない為、盛り上がれば盛り上がるほど、話しにも寄らずその光景を見ていたが、誰かの口から一言でも芹沢という単語が放たれれば、即座に警戒を促すように背筋がぞくりと冷えていく。
「そういや、平山っていつ見ても黒の眼帯をしてやがるが、生まれつき見えねぇのか伊達政宗に憧れて隻眼を真似てんのか気になるよなぁ。とっつきにくい野郎で聞きづらくてよ…」
「いやいや、左之助。流石に偽りで目を隠すことはしないだろうに」
「でもよ、源さん。
「な訳ないやろう、ほんまに…。昔、花火が目に当たったかなんかで左眼が潰れたんやて本人が言うてました」
「そうか……花火にやられたとは気の毒なもんだな。まぁ、それで免許皆伝まで会得した根性は大したもんだが」
いつしか緊張感もなく会話に花を咲かせる男たちを視界の端に映したまま、更紗は中央で圧巻の戦いぶりを見せる芹沢一派らしき隊士たちを只、息を潜めて見つめていた。
(……あれが……芹沢さんの剣……。)
自分がこれまで携わってきた居合道の剣が遊戯に感じるほどに江戸時代の武士の繰り出す剣は鬼気迫るものがあった。
それは護身の剣ではなく、人を殺めるためだけに磨かれた剣であるが故。
その先に続く彼らの未来が修羅の道に繋がっている事に人知れず恐怖を覚えるが、奇しくも激動の時代に飲まれてしまった女の進む道もただ一つ、その退路は既に絶たれていた。
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