祝酒
上覧試合の剣術を四試合行った後、どの派閥にも属さない川島という男が棒術を、兄弟で浪士組に加入した佐々木蔵之丞、愛次郎という若者が柔術を披露した。
全てが滞りなく終了した時でもまだ空は十分に明るく、金戒光明寺に建てられた立派な櫓から昼八つを知らせる時の鐘が重厚に打ち鳴らされていく。
それから一刻、取っ手付きの
丸桶と同じ素材で出来たそれは上覧が終わり暫くして茣蓙のすぐ横に置かれ、肥後守松平容保公のご厚意で、祝い酒として浪士組一同に振舞われていて。
「皆さん本当にお疲れ様でした。どの試合もすごく見応えがあって思わず引き込まれてしまいました」
とはいえ、率先して注いで回るのは更紗含めた身内の隊士のみ。
一部の会津藩士が本堂前で局長と膝を突き合わせて酒を口にしているが、敢えて近づく藩士は一人もおらず、専ら茣蓙に座る男たちがザルのように飲み干していくだけ。
それが立場の違いであるのか身分の違いであるのかは現代人の女の目から見て判断できないが、武士としての格の違いは感じざるを得ないものがあり。
「更紗、ありがとう。近藤先生の前で失敗する訳にはいかないから、無事に終わって安心したよ。山南さんが手加減してくれたお陰で気持ち良く勝たせて貰ったし……その節はありがとうございました」
「否、あれは沖田君の実力だ。実に素晴らしい三段突きだったよ。あぁ市村君、
沖田に続いてその隣に座っていた山南の盃にトクトクと日本酒を注ぎ入れていた更紗は、嬉しそうに微笑むその男に柔らかな笑みを返してみる。
「とんでもないです。山南さんの剣、いつ見ても本当に見惚れます」
剣術試合でトリを務めた剣士は、知ってか知らずか試衛館出身の二名で固められ、インパクトを与えるには十分なあの太い木刀を使って行われた。
天然理心流の特徴の一つに気組を持って相手の闘争心を奪い、相討ち覚悟で斬り込む気迫の念があるようで、剣技同等に本人の精神力や根性を鍛える稽古をしていて。
(……二人とも声の威嚇が凄かったなぁ……勿論、剣の腕も凄いんだけど……)
開始の合図と共に近藤局長そっくりの甲高い声を場内に響かせたのは沖田で、それを潰しにかかるように山南も威勢の良い雄叫びを何度も短く上げていく。
試合運びは一進一退、まさに五分五分の勝負であった。
二人の剣技の質は言わずもがな、これまで披露した隊士に何ら見劣りすることなく、寧ろ、天然理心流の強さを見せつけるような秘技を余すことなく繰り出していく。
その剣術に対する凄まじい気合いに周囲にいる人々は只、固唾を呑んで行く末を見守ることしかできなかったが。
「俺には
無色透明な酒を朱色の盃に注ぎ入れるや否や、その水面に波紋を落とすような低い声が黙り込んでいた女の鼓膜を静かに揺らしていく。
チラリと隣を見やった更紗は、試合で纏っていた黒装束のまま注ぎ終えた盃を傾ける土方と意図せず視線が重なり合ってしまい。
「お疲れさまでした」
「他には」
「……他に…? ええ、と……余所行きの剣、素敵でしたよ?」
「おめえにそれを言われたかねぇよ」
舌打ち混じりの返答が不服そうなもので、更紗は言葉選びをハナから間違った事を悟り、瞬時に肝が冷える心地を覚える。
「……ですね。すみません…」
またいつものように一喝されるのかと身を縮こめるも、視界の端に見切れるその男は何も言わず酒を飲み干し、空の盃を自分の前へ突き出してきて。
「浪士組の門出だ。おめえも一隊士として飲め」
「…え?いや、私、お酒飲めませんし、そもそも隊士じゃなくて…」
「つべこべ言わずに煽りゃあいいんだよ」
手にしていた酒器を奪われた挙句、無理やり押し付けられたそれに並々注がれてしまった更紗は、不意に微笑を覗かせる色男の態度に戸惑いを感じていた。
(……無愛想な人の笑顔って……どうすれば良いの……)
いつもと比べ物にならない位に機嫌が良いのは見るからに分かるが、さながら近藤と話している時のような表情をされるのは、存外扱いに困るものである。
感情とは裏腹にドキドキと打ち付ける心臓の音が煩く、動揺を悟られるのは御免だと急いでその口元に盃を運んでいき。
「……じゃあ、いただきます」
ふわふわと浮き足立つ胸懐に流れ込んでくるそれは思いの外、フルーティーで飲みやすく、以前屯所で飲んだ濁り酒とは風味に天と地の差がある。
あっという間に飲み干してしまった盃から唇を離した更紗は、先ほどまで苛まれていた妙な動揺が綺麗さっぱり流れ去ってしまった事には気づいておらず。
「……美味しい。前飲んだのと全然違う…」
「一国の殿様が用意する酒が庶民の物と同じである訳ねぇだろう」
「え、肥後守様ってお殿様だったんですか……知らなかった…」
「おめえは何も知らねぇんだな。よくそれで生きてこれたもんだ」
「……だから、もう少し事前に何があるか教えて下さい。私にだって心の準備があるんですから……」
珍しく二人の間に穏やかな空気が流れ始めたものの、それは互いが歩み寄りを見せたというよりは、毎日顔を合わせていく中で生まれた慣れという感覚そのもの。
土方歳三という人間が好きかと聞かれれば、やはり嫌いで苦手だと即答できる事に変わりはないのだが。
「おい!女!芹沢先生が戻られたんだ。すぐに酌につけ」
刹那、遠くから浴びせられた横柄な大声に更紗は肩をびくつかせ、声のした方へと躊躇いがちに顔を向けていく。
試衛館組の面々が周りを囲うように座る先には、初対面で気持ち悪いと罵られた殿内派らしき男たちがやけに面白みのない顔つきで酒を嗜んでいる。
そしてその奥、自分たちとは対極に席を陣取る芹沢一派の中央で、茣蓙に手をついてゆっくりと座り込むのは、忘れもしない堅牢な肉体を持つあの男で。
「……土方さん……どうしよう…」
脳内を走馬灯のように駆け巡る記憶は数秒かからずとも地獄の淵に立たされるような戦慄を思い出させ、息が詰まる苦しみを与えてきてくれる。
しかしながら、その恐怖に脅かされているのは皆同じ、辺りにいる侍たちの空気も不気味に冷え渡っていくのが、ひしひしと感じられ。
沈黙の中で浴びせられる視線の重責に底知れぬ不安を覚えた更紗は、唯一、助け出してくれた目の前の男を縋るように見つめるも。
「行って来い」
「……え、」
「女が酌をするのは当たり前の事だ。機嫌良く飲ませてやれ」
「……でも、前みたいに…」
「こんな所で悪態つかれる訳にはいかねぇんだよ。我慢しろ」
少しずつ膨らんでいた土方への過度の期待はまるで針で突いた風船のように呆気なく割れ萎み、悲しみの残骸を置いて胸の内から消えていく。
確かに芹沢から救い出してくれたあの日、今後は自分で何とかするように言われたが、絶体絶命の状況下で見放されるのは流石に人前でも心が折れそうになる。
「………分かりました」
土方の命令は絶対であるばかりか、屯所にいる男たちから用事を頼まれれば、例え下帯の洗濯や汚れた厠の掃除であっても自分が一手に引き受けるしかない。
無論、レディファースト精神など欠片も存在しないこの時代には、至極当然の如く男尊女卑が
「何かありゃあ助けてやる。奴が怒り出さねぇうちに行って来い」
あっさりと引導を渡してくる色男から明らさまに顔を逸らした更紗は、茣蓙にあった酒器を手に取ると仕方なくその場から立ち上がる。
すぐ傍にいる侍たちの誰しも声を掛けてこないことに苛立ちを覚えるが、言われた事をするしかないのだと、諦めの境地で重たい足を動かしていき。
「……失礼します」
微かに震えているのは声だけでなく酒器に添えたその白い手先も然り。
早く早くと焦る気持ちを抑え、粗相をしては何をされるか分からない恐怖から一滴も零れないようにと慎重に、朱色の盃に透明な細い糸を落としてゆく。
至近距離から射抜くように見られている事に気付いた所で為されるがまま、更紗は頑なにその視線を拒むように俯く事しかできず。
「近藤から聞いたが武術の嗜みがあるそうだな」
「…………嗜みと言うほどのものじゃ…ないです…」
「流派は何処だ」
「……無双直伝英信流を少し…」
「ほう、伝位は何だ」
「…伝位……?…段位の事でしたら…何も…」
「何も?初目録もか?」
「はい、何も……何も取ってないです…」
躊躇いがちに伏せていた顔を持ち上げれば、あの時見た冴え冴えとした双眸ではなく、思いの外、穏やかな眼差しが此方を見下ろしている。
「何もとは……碧目である故、取らせて貰えなかったのか」
身近で一番強面の近藤よりも凄みがある癖に、身近で一番冷淡な土方よりも親身に話す芹沢鴨という男の本性が、更紗はどうにも掴みきれないでいた。
初対面で自分の首を絞めたあの獰猛な人間と同一人物だとは思えないほどに落ち着き払った挙動は、浪士組の筆頭局長の名に相応しい堂々としたもので。
「……いや……そういう訳ではないんですが…」
「ならば、儂が神道無念流を教えてやろう」
天を仰ぐように祝いの盃を持ち上げればものの一瞬で飲み干し、再び前へ突き出してくる為、更紗は慌てて軽くなってきた酒器をそれに傾けていくが。
「───芹沢先生も人が悪いなぁ。そろそろ俺に代わって下さいよ」
刹那、馴染みのない男の声が頭上に落ちてくると同時に着物越しに腕を掴まれ、反射的に殆ど空に近い酒器を手離し、茣蓙の上に転がり落としてしまう。
「……す…すみません……!」
透明な雫が飛び散るのを見るや否や鼓動が跳ね上がり、一刻も早く対処しなければ生きた心地がしないのだと自身の手拭いで染み込んでいくそれを拭き取っていく。
隣に座り込んだ男は誰なのか気になるものの、前回のように地獄の淵を歩かされる思いだけはしたくないと、色濃くなる茣蓙を何度も何度も強く拭うのだが。
「儂を差し置いて仕掛けようなんぞ頭が高いぞ。新見」
「そうは仰られても、昨宵の角屋で夷狄を落とし込んでみろと言って下さったではないですか。尽忠報国の士、敵を知るにはまず女からと…」
「平山、儂がいつそんな事を言った?覚えておらんな」
「……まぁ、申されたと言えば申されたのですが……先生が覚えていないのであれば仕切り直しですな」
頭上で交錯する会話の内容はよく分からなくとも、芹沢派が醸す独特の雰囲気は、いつも行動を共にしている試衛館組のそれとは全く異なるものであった。
太陽のように笑う近藤の周りで賑やかす男たちとは違い、淡々と会話を進める男たちの中心で月の如く鎮座する芹沢の背後には、さながらブラックホールのような闇が共存していた。
少しでも気を抜いてその空虚に吸い込まれてしまえば、一生抜け出すことの出来ない暗黒の世界が待ち構えているようで。
「……芹沢先生!肥後守様がお呼びです。早急に本堂へ参りましょう」
「……近藤か。
「何を仰られますか!誠忠浪士組の筆頭局長は芹沢先生ではありませんか!」
「その名もとうに捨てておる。儂らは田舎道に放たれた壬生の浪士組であろう」
「無論、誠忠浪士組でも壬生浪士組でも尽忠報国の士に代わりはありませぬ。ささ、行きましょうぞ」
敢えて空気を読んでいるのかいないのか判断に困るほどに陽気な声を響かせる近藤の顔は天空と同じように赤らみ、既に出来上がってきているようである。
元々、下戸の類いなのか夕食時に酒を嗜めば、真っ先に酔いの兆候が現れくしゃりと顔を綻ばせて笑う為、その人懐っこさに自ずと愛着が湧いてくる。
芹沢もそんな近藤に気を許している所があるのか、溜め息を吐いても強く押し退けることはせず、暫くすると重い腰を上げて本堂へと歩いて行き。
「……やっと、あんたと話せる機会ができた。先生が密かに目を掛けてたもんだから、迂闊に近づくことも出来なくてな…」
思いがけずお役御免となった更紗は一気に気が抜け、遠ざかっていく両局長の広い背中をぼんやり眺めていたが、その心の隙間に入り込む声の主へそっと視線を移してゆく。
手を伸ばせば触れてしまう距離に座るその男は丁髷を結わえており、割とはっきりした目鼻立ちは、現代でも通じる美意識を感じさせてくれるものである。
「……えっと……初めまして、ですよね?」
「否、話すのは初めてなんだが、芹沢先生へあんたが挨拶をした時に俺も立ち会っていたんだ。あの緊迫した空気では周りに気が向かなかったろうが」
「……すみません」
「別に謝る必要はない。名は新見錦だ。俺も一応、局長の役職を貰っているゆえ気に留めて置いてくれ」
照れた顔つきで笑うその男は、試衛館組の男たち以外で初めて自分に優しく接してくれた浪士組の隊士であった。
先ほどまで酌をしていた芹沢もまた然り、海賊の船長のように左目に黒の眼帯を付けている平山五郎という男も殿内派の男たちとは異なり、自分を蔑ろにするような言葉を使わずにいてくれて。
「あの……お酒がなくなったので、補充してきますね」
束の間の嬉しさを感じた更紗は、笑みを貼り付けたまま軽やかに酒器を手に取り立ち上がるが、初めてその場所から碁盤の目状に広がる京の町が見渡せる事に気づく。
「……わぁ……綺麗」
まるで歴史館にあるジオラマのように精巧な作りに見える古き町に最後の光を落とすのは、自分たちを空高くから見守りながら西に傾く太陽であった。
刻々と色濃くなっていく美しき夕空にやがて紺色が混ざり合えば、人々の恐れる殺伐とした世界が訪れる事を、更紗は近い将来、知ることになる。
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