策士
湯気の立つ湯呑みを二つ乗せた盆を抱える女は、晴天だというのにほんのり薄暗い板廊下を歩いていた。
ここ一週間、同時刻に土方の部屋を訪ねれば、必ずと言っていいほど近藤がその横で寛いでいるため、自主的に準備する茶の数を増やしていて。
意識せずとも二人の会話を耳にすればその仲の良さは歴然、太陽のように大きく笑う近藤の前では、むっつりと無愛想な男も楽しげな笑みを浮かべている。
そんな二人の間に流れる空気感は、試衛館においての師匠と弟子というよりも、長年連れ添った夫婦のような阿吽の呼吸を感じるもので。
「……あ、どうも…」
角を曲がれば反対側から刀差しの隊士が歩いてくる為、更紗は廊下の端に寄ってすれ違う男に頭を下げると、その侍も同じように会釈し通り過ぎてくれる。
少しずつこの時代の環境に慣れてきたように、浪士組の隊士たちも女中として居候する自分の存在を徐々に受け入れてくれているようであった。
「失礼します。朝のお茶をお持ちしました」
「入れ」
「はい、失礼します」
毎日欠かす事のない業務的なやり取りが終われば、いつものように廊下に腰を下ろして戸を開け、入室する前にその場で三つ指を付いて丁寧にお辞儀をする。
目を伏せたまま敷居を跨いで、再び障子戸へ向かって正座をすれば、より細かく教えられた三手での開閉の基本作法を意識しながら実践していき。
(……左手で真ん中まで閉めたら右手に替えて……拳ひとつ分まで閉めたら、持つ位置を変えて……。)
音を立てずに閉められた事に安堵の息を吐いた更紗は、左側に置いた丸盆を手に持ち、冷めた顔つきで此方を見張っているであろう部屋の主に、したり顔を向けてやる。
けれども、当の本人は手元の書状に視線を落としたまま紫煙を燻らせており、その横ではいつもの豪快な笑顔ではなく、慎ましい穏やかな笑みを浮かべる山南が此方を見据えていた。
「市村君は所作が美しく惚れ惚れしてしまうね」
「最初に比べりゃマシにはなったが。惚れ惚れするほどのもんじゃねぇだろ」
「そうは言っても土方君が作法を教えているんだろう?沖田君を連れて出稽古していた頃を思い出すと近藤さんが嬉しそうにしていたよ」
「ガキのお守りは勘弁願いてぇんだがな」
味気なく吐き出された煙の先を見やった更紗は、微かに燻る苛立ちを胸に押し込めると、素知らぬ顔つきで二人の傍へ歩いていく。
いつもの事ながら辛辣な言葉を放つ土方に嫌気が差す事が殆どでも、その口煩い言動を気にして、所作に意識を向けるようになったのは紛れも無い事実で。
右も左も分からなかった自分が、短期間でその立ち振る舞いを人様に褒めて貰えるまでに成長できたのは、悔しくも目先に座る男のお陰だと言っても過言ではない。
文机に置いてあった飲みかけの湯呑みを下げ、代わりに湯気の上がる淹れたてのお茶を二つ置けば、香りの良い白煙が混ざり合うようにその男の口元から漏れていき。
「──先ほどの続きだが。藩の公用方曰く、
「……ありとあらゆるという事は、普段の稽古から実践型の稽古までかい?」
「詳しい事はまだ分からねぇが、試合形式で何試合か見せりゃ気も済むだろう」
「試合形式か……剣術は勿論の事、居合術、小具足術、棒術、柔術なども織り交ぜていくべきか…」
「いや、全てはいいだろう。此処は俺たちが有利に運べる武術で算段する」
「……しかし、芹沢先生が何というか…。またあの時のように立腹されては…」
「勝っちゃんも夜まで戻って来ねぇんだ。伝えるのは明朝でいい。どうせ今宵も島原に行くだろうから、万一、酒が残って試合に立てねぇとなったら、こちとら好都合じゃねぇか」
一体、二人して何の話しをしているのか理解できないが、視界に見切れる土方の涼しい顔つきに、更紗はきっと悪い事でも企んでいるのだろうと、一人無言のまま納得していた。
あの日、自分の所為で芹沢から叱責されてしまった土方だが、萎縮するどころか、却って、悪戯に余裕の感じられる雰囲気を醸していたのが印象的で。
(……多分、芹沢さんの事が嫌いなんだろうな。何かあったのかな…)
試衛館一派と芹沢一派の仲が思わしくない事は住まいを分けている所から察しても十分に分かるものであり、寧ろ、あの一件があってから自分自身が芹沢鴨という人間を受け付けられないでいた。
「市村君、ありがとう。有り難く頂くよ」
「いえ、とんでもないです。それでは失礼します」
丸盆を持ち、笑顔で声を掛けてくれる山南に会釈してその場を立ち上がれば、その男は何かを思い出したかのように表情を変えて土方へ言葉を放つのであり。
「……そういえば土方君、市村君はどうするんだい?総員での列座を希望されているのなら、連れて行った方がいいのか…」
「…まぁ、気掛かりはそこだ。芹沢もだが殿内派の輩が大人しく黙ってるとは思えねぇ手前、先手を打って話しておいた方が波風立たねぇんじゃねぇかと、な」
「近藤さんはその件については何と?」
「俺と同意見だ。取り敢えず、女の隊士もいるっつうていで公用方にそれとなく話してみるとよ」
ふぅ、と溜め息混じりに吐き出された低い声が鼓膜を揺らせば、何とも言えない不可解な感情が膨れ上がり、歩み始めた女の足を止める。
くるりと振り返った更紗は、煙管を咥えたまま何やら物思いに耽る土方の見目好い顔を、眉根を寄せてじっと見つめていき。
「何だ、もう下がっていいぞ」
「あの……女の隊士って、私の事ですか?」
「他に誰がいんだよ」
「…いや、私、女中として居候しているだけで、隊士じゃないです」
語尾を強めて紡いだ言葉は、立ち上る白煙の中へと呆気なく消えてゆく。
ぷつりと途切れた会話の後に流れ込んでくる沈黙の壁が、二人の距離をより遠いものへと感じさせてくれる。
静寂の狭間にゆっくりと吐き出された紫煙を眺めていれば、やがて土方は伏せていた長い睫毛を持ち上げ、その内にある漆黒の双眸を余す事なく此方へと向けていき。
「小姓という役目を受けた以上、おめえは隊士だ」
「……それじゃあ、話しが違います。私は戦いには出られませんし…」
「剣術、柔術共に嗜みがあるんじゃねぇのか」
「……嗜みって……人様に見せられる腕はありませんし、護身以外に使うつもりもありません」
「おめえが何を言おうが近藤さんが決めた事には従ってもらう。納得いかねぇなら出て行きゃあいい」
表情を崩さないままに吐き捨てられた言葉は、女の胸の内に抉るような痛みを与えてくる。
今の自分に行くところがない事を理解している癖に、敢えて突き放すような態度を取り続けられるのは、悲しみを通り越して惨めな気分になる。
この世界で誰一人からも必要とされていない存在であるのは、この半月生活を共にし十分に分かり得たこと。
出て行けるものならとっくに出て行っているのだと、喉まで出かかった反論を飲み込んだ更紗は、ぎゅっと唇を噛みしめると頭を垂れて足早にその場を立ち去っていく。
一刻も早く仕事を見つけて屯所から離れたいと思えども、彼らでさえ京で生活するのに苦労している事実が、何一つ見出せない自分に重くのしかかる。
光の届かない谷底へ突き落とされたような途方もない苦悩を前に、闇の中でぼんやり灯る明かりを視界の端に捉えたまま、気づけば七輪に置いていた小鍋がグツグツ煮えるのを見つめていて。
「──何や、今日は元気がないなぁ」
「……え、?」
「いつもやったら、このくらい煮詰まったらそろそろ完成ですか?なんて興味津々で問うてくんのに、さっきから心此処に在らずや」
「……すみません…」
「何があったかは知らんけど、悩みがあるんやったら聞いたげるさかい。ほら、頭出してみ」
月明かりの下、土間の洗い場で小鍋から取り出した布海苔とぬるま湯を混ぜていた男は小鉢を手に持ったまま、式台に置いた行灯傍にちょこんと座る自分の方へ歩んでくる。
仄暗い闇の所為でその表情は読めずとも、山崎から紡がれる声色の優しさに、頑なに守ろうとしていた気持ちの棘が一つ一つ抜かれていくようである。
更紗は言われた通りに地面へ下ろし髪を垂れると、その前でゆっくりとしゃがみ込んだ山崎が、とろりとした温かいものを後頭部に落としていき。
「これに卵を溶いたらもっと髪が綺麗になるんやけど。もう少し隊の懐が潤ってからでないと厳しいな」
「……いいです。どうせ私なんて皆さんのお荷物ですし……住まわせて貰えるだけで十分です…」
「何をいじけてるんや。そうか、また副長にお小言言われたんか」
クツリと小さく笑みを漏らす山崎にぐうの音も出ない為、そのまま静寂の中に身を委ねていくが、男の指がそっと髪に差し込まれると、途端にトクトクと心臓が早くなる。
液体を馴染ませた地肌に触れ、マッサージするように丁寧にもみ洗うその感触が心地よく、更紗は息を吐いて目蓋を閉じると、思いの丈を唇から零すのであり。
「……これ以上、皆さんに迷惑かける前に出て行った方がいいのは分かるんですけど。どうやって生きていけばいいのか分からないんです…」
「別に迷惑やとは思ってへんけどなぁ。賄いなんて格段に美味しいなったし」
「……でも、土方さんは私の事…気に入らないみたいだし…」
「気に入らへんというよりは、気になるんと違うか?副長は白黒はっきりした性格やさかい、当たりは強う思うやろうけど、誰に対してもそうやからなぁ」
「……でも…」
「ほら、顔上げて。生え際も洗わへんと気持ち悪いやろ」
沈み込んだ心を掬う声かけに冴えない顔を持ち上げれば、まるで泣きべそをかく幼子をあやすかのように微笑む山崎の柔らかな眼差しに視線を絡め取られる。
タイムスリップした数日後、屯所に風呂がないというまさかの現実に直面し、悲しみに打ちひしがれていた所を、助けてくれたのが山崎烝という男で。
その日のうちに身体を水拭きするための手拭いを与えてくれ、その夜には皆が寝静まった刻を見計らって、土間で洗髪の仕方を懇切丁寧に教えてくれた。
石鹸やシャンプーがない時代、うどん粉や卵の白身、布海苔という名の海藻を煮詰めてふやかし、それをシャンプー代わりに頭皮の汚れを落とすしか、庶民には洗髪の方法がなく。
最低でも三日に一度は睡眠時間を削って洗髪に勤しむ更紗の感覚とは違い、一つ屋根の下に住む隊士の中には一ヶ月に一度しか髷を解いて洗わない強者もいるのである。
「……すみません、甘えてしまって。後は自分で洗えますから…」
「かまへん。これも俺にとっては生業のお稽古やさかい」
「……生業のお稽古……山崎さん、ここ数日お見かけしなかったですけど、どこで何をされてるんですか?」
「ほんま、どこで何してんのやろなぁ。俺もよう分からへんわ」
「……言いたくないならいいです。じゃあ、素朴な疑問なんですけど……殿内さんって一体、何者なんですか?」
何となしに思い浮かんだ人の名を口にすれば、小刻みに動かされていた男の指先がこめかみを捉えたまま何故かピタリと止まる。
不思議な沈黙に包まれた事で掴めない不安が女の胸に影を落とすが、立ち止まった時の流れを取り戻すように、再び指の感触がべったりと濡れた髪を走ってゆく。
「殿内の何を知りたいんや?」
「……いや、…知りたいっていうか……。皆さんが話されてる時に時々、名前が出てくるんですけど、そういう名前の隊士さんは居ないから、誰だろうと思って……」
「それはなぁ、あんたは知らんでええ事や」
突如、穏やかながらも一線を引く物言いを落とされ、更紗は全身に冷水を浴びさせられたような、不穏な焦燥に駆り立てられていく。
どういう顔をして見ればいいのかも分からず、変な気まずさに視線を泳がせれば、行灯の明かりの横でスッと立ち上がる山崎が視界の端に見切れて。
「さ、髪流そか。ついておいで」
いつもと変わらぬ飄々とした美しい顔が微笑むと、何事もなかったように湯の入った桶を手にし、一人、土間から宵闇の広がる庭先へと出て行く。
更紗も慌てて後を追うように外の世界へ一歩を踏み出すも、雲の掛かる月の下では、自分の足元どころか彼らの心の内さえ闇深くて見えないものであった。
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