文武館

文久三年 四月十五日


八木邸敷地内 文武館にて




 抜けるような青空の下、八木邸の隣にひっそりと佇む道場、文武館には今日も多くの隊士たちが出入りしていた。



 威勢の良い男達の声と共に小気味良い竹刀の音が鳴り響けば、雷が落ちたかと思われるほどの振動が場内を駆け巡る。


 そんな中、邪魔にならぬようにとその隅っこで太い木刀を握り締めていた更紗は、同じ木刀を腰に差す藤堂の指導の下、黙々と素振りの練習をしていた。



「止める時に四方に振れないように。腕で振るんじゃなくて、肩で振るんだよ」


「……こう……ですか…?」


「ううん、もっと利き手の力を抜いて。右手は添えるだけでいいから。肝心なのは左手」



 スッと目の前で太い木刀を腰から抜いた藤堂は、敢えて左手だけでそれを持つと捲り上げた袖口からむき出しの腕を持ち上げ、弧を描くように振り下ろしていく。


 丸太のような木刀を軽々と片手で振り抜く藤堂は、更紗より小柄である筈なのにその腕の太さは倍以上に違うものであった。


 それもその筈、彼らが愛用している太いそれは、どう指先を伸ばしても親指と中指が付くことはなく、更紗の知る一般的な木刀よりも優に三倍は重く感じられるもので。



「……藤堂さん……だいぶ腕がダルくなってきました……」


「そうそう、俺も最初の頃は腕が上がらなくなったなぁ。でも、試衛館では近藤さんから千回振るように言われてたから、皆で励まし合いながら頑張ったんだ」


「……せ……千回ですか…!?こんなに重いのに…!?」


「そう、毎日休まず千回。でも、そのお陰で実践で刀を握っても違和感なく立ち回れるんだ。大刀の重さとこの木刀の重さはほぼ一緒なんだよ」



 ニコリと八重歯を見せて笑う藤堂は、途端に顔つきを凛々しいものへ変えると演武を舞うかの如く身を翻しながら、その場で素早く殺陣を披露してくれる。


 彼に限らず、近藤の周りに集う男たちの誰もが俊敏で腕っ節が強いのは、遠い江戸で稽古に励んだ試衛館という名の道場に秘密があるようで。


(……確か……天然理心流だっけ…?皆、門人だったんだよね。)


 

 それは近藤勇が師となり教えていた天然理心流では例え他流派から田舎剣法などと揶揄されようとも、実践に重きを置いた稽古方法を貫いた事に始まる。


 反りの綺麗な細身の木刀は一切使わず、木の棒にも見える重く持ちにくいそれで日々、練習に臨み、時には柔術や小具足などを交えて実践で怯むことがないよう一人一人の身体に叩き込んでいたのであり。



「何度言ったら分かるんだよ!そんな踏み込みじゃ斬られに行くだけだろうが!!」


 バチイン、と地面を叩く竹刀の凄まじい音が場内に木霊すれば、竹刀を握り防具を付けていた隊士が打ち付けられた剣先の前で、情けなく尻餅をついている。


「いつまでそうやってるんだ!!早く立ち上がれよ!!!」



 周囲を威嚇するように声を荒げたその隊士の表情は面で見えないものの、身につけた防具越しからでも伝わる熱量が道場内を灼熱地獄とも思わせるほど、辛く厳しい修羅の世界に導いていた。


 更紗も初めて遭遇した時こそ面食らったものの、過去に一度、その片鱗を目にしていた分、刀を握れば変貌する青年の姿を日毎に受け止められるようになっていて。



「今日も総司は絶好調だね…。昨日もあんな感じだったの?」


「はい。昨日は斬り込みの練習をしていた隊士さんに、刀で斬るな!体で斬れ!って怒鳴ってました」


「そっか……。総司の才は天性もあるけど、人一倍苦労して稽古を重ねてきた努力の証だから…そんな容易く周りは真似できないんだけどなぁ」



 苦笑いながら沖田を見つめる藤堂の優しい眼差しは、多感な時期から苦楽を共にし、青春を謳歌した仲間ゆえの慈愛に満ちている。


 試衛館に身を置いていた彼らの固い結束は他所者が易々と立ち入れるものではなく、時として恐れを感じるほどの強い団結力を見せつけられる事もある。


 やはりどこか踏み込めない彼らとの微妙な距離感に、更紗は疎外された気分を味わう事もあるものの、そんな時に決まって助け舟を出してくれるのは、いつも場を盛り上げてくれる賑やかな男の声で。



「おうい、更紗!素振りばっかやってねぇで、そろそろ打ち込みに入ったらどうだ!しょうがねぇから、俺が敵娼あいかたになってやるぜ」


「……相方…?」


「あー……左之さんの言う事は気にしなくていいから。掛かり稽古でもやってみたらいいよ。念のため防具つける?」


「……防具は……いいです。打ち込むだけならこのままで出来ますし」



 防具置き場の前に膝をついて、使い込んだ胴を身につけ面を被る原田をチラリと横目で見た更紗は、木刀を竹刀に持ち替え、空いた端のスペースへと歩んでいく。


 潔癖とはいかないまでも平成生まれの女子代表として、一体、誰が使ってきたか分からない古びた防具を身に付ける勇気は今の所、未だない。


 一つだけ割と小綺麗な防具があるものの、敢えて黒白であるべき面紐を赤紐に変え、胴色も男性が好む黒でなく朱と現代でも見かけない組み合わせ方にどうしても一人の男の存在がちらつき。


(……これってきっと……触らない方がいいやつだよね…。)



 初めて見た瞬間から持ち主の想像はついてしまったが、そこは触らぬ神に祟りなし、無駄な関わり合いを持たない為にも、結びつく可能性のある事柄一切に近づかないのが鉄則である。



「……よろしくお願いします」


 顔を付き合わせた防具姿の原田へ丁寧に一礼した更紗は、スッと腰を下ろして蹲踞そんきょの姿勢を取ると、手に持つ竹刀をゆっくりと構える。


 重くて持ちにくい木刀から慣れた細身の竹刀へ持ち替えれば、途端に腕にかかる重量が減り、その身が格段に軽くなった心地を覚える。


 先ほどまで感じていた腕の怠ささえ意識の中から消え去った次の瞬間、摺り足で相手との間合いを詰めていた己の神経がピンと研ぎ澄まされるもので。


「……やぁ…!…面…!!」



 地面を蹴り、飛び掛かるように荒く大きな一歩を踏み出した更紗は、その勢いのまま高い位置にある面の中心へ力一杯に振り上げた竹刀を下ろしていく。


 さながら仁王像のように一寸たりとも動かない原田へ身体ごとぶつかれば、その反動を使って左足で踏み切り、背後へ飛ぶと同時に再び面を打ち込むのであり。


「……面…!!」



 芹沢鴨との戦慄の対面から早十日、八木邸に近づくことすら億劫だった気持ちを奮い立たせたのは、自分の身は自分で守るしかないと心に強く刻みつけられたからで。


 今だに遠巻きにその屈強な姿を見るだけで背筋が凍るような緊張を覚えるが、常に試衛館の男たちと行動を共にしているお陰で、何かを仕掛けられることもない。


 それでも、立て続けに身に降りかかった不運な出来事を思い返せば、いつ何時どんな状況に追い込まれても、自分の力で切り抜けるだけの技量を身につけて損はないと思うのであり。


「……面…!!……胴…!!」



 目にも止まらぬ速さで空を斬る音が二人の間を掠めていけば、刹那に方向を転換した女の竹刀がすれ違いざまに原田の黒胴を小気味よく打ち抜いていく。


 面の格子越しに驚いた男の表情を垣間見た更紗は僅かに頬を緩めると、踵を翻して姿勢を正し、肩で息をしながら改めて一礼をする。


「……ありがとうございました」



 久々に身体を動かして打ち込む剣道は思いの外、清々しく感じられるものであり、自ずと過去に幼馴染と練習に励んでいた日々を思い出すものである。


 歴史を象る上でも彼らの絆を深めた青春の一ページが剣の道にあるように、現代人の女にとっても央太と競い合った懐かしい思い出が剣の道に足跡を残してくれている。

 

 更紗は薄らと額に滲んだ汗さえも愛おしく思え、和らいだ表情で面を脱ぐ原田を見やるが、以心伝心とも言わんばかりにその男も白い歯を見せ笑いかけてくれるのであり。



「お前、なかなか良い筋してるじゃねぇか。流派はどこだ?」


「本当ですか?流派……と言っても、剣道と居合道は別物なんですけど、無双直伝英信流の居合道場にはよく遊びに行ってました。知ってますか?」


「……聞いた事あるような気もするけど……開いた国は何処だ?」


「……国ですか?…国って、江戸とか京とか、そういう地名ですよね……多分、土佐だったと思います……高知県…違うかなぁ…」


「……ま、山南さん辺りに聞きゃあ分かるかもしれねぇな。それより、柔術は何処で手習いを受けたんだ?あの日見ちまった渾身の突きはその無双とやらか?」


「……いや、あれは流派とかじゃなくて……ただの護身なんで…」


「ただの護身にしては、仕留め慣れてたじゃねぇかよ」


「いやいや!本気で使ったのは初めてですって!てか、そもそもジムでやるボクササイズなんてそんな難しい技は習いませんし、どちらかといえばキックボクシングの方が好きだし…」



 きょとんとした顔つきで小首を傾げる原田を見つめていた更紗は、央太に勝てないと悟った時点であっさり居合道を辞めて、キックボクシングに鞍替えした不純な動機を上手く伝えきれないでいた。


 武士となる為に剣の道を志す彼らの真っ当な動機とは異なり、年頃の女子として手軽にシェイプアップができ、かつ日頃のストレス解消目的で始めたとは口が裂けても言えないもので。


「……あ、鐘だ。土方さんに朝のお茶を運ばなきゃ……」



 いつもなら憂鬱に誘い込む響きでしかなかった昼四つの鐘の音が、今日ばかりは救いの音に聞こえてくる自分の都合の良さに苦笑が零れそうになる。


 それでも、ひとたび時間通りに運べなければ、耳の痛い小言を食らう羽目になる焦燥もふつふつと心の奥底から沸き立つのであり。



「今日は楽しかったです。またよろしくお願いします」


「ええ!?まだちょっとしか組み合ってねぇじゃねぇかよ!これからゆっくり二人きりで時間をかけてよ…」


「すみません、もう行かなきゃ怒られるので。また明日お願いします」



 明らさまに不服そうな表情を浮かべる原田に笑顔を返した更紗は、手にしていた竹刀を元の位置に戻すと、碧色の瞳を中央へ向けつつ揺れる板間を歩いていく。


 相も変わらず、叱責の木霊する場内では沖田が他の隊士相手に容赦のない稽古を付けていたが、その横では先ほどまで教えてくれていた藤堂が、数人を前にして身振り手振りで斬り込み方を指導していた。

 

 男たちがぶつかり合うむさ苦しい熱風の中を掻い潜り、開け放たれた道場の入り口をそっと跨いだ時、生き返るような新鮮な朝風が女の火照った身体をくすぐった。

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