浪士組筆頭局長
一日ぶりに見上げた空は、水の薄衣を纏ったように濃淡を変えて、あまつさえ流れゆく白い雲が霧の狩衣を重ねるように内なる本来の色味を隠してしまう。
徐々に忍び寄る黒い影を吹き飛ばすように息を吐いた更紗は、怪我をした足指に鼻緒が触れないよう浅く履いたまま、近藤と土方の後に続いていく。
前川邸の目と鼻の先、土埃の舞う小道を30秒ほど歩いて八木邸の母屋へと赴くと、その本玄関には沢山の草履が乱雑に脱ぎ捨てられていて。
「……帰ってきたのって、一人じゃないんだ…」
先に中へ入ってしまった二人の後を追おうと思えども、不意に聞き馴染みのない男たちの話し声が聞こえれば、途端にどきんどきんと動悸が打ち始める。
更紗は履いていた草履を脱ぎ、訳もなく座り込んで周囲にあった履物も揃えてみていると、ギシリ、ギシリと背後から板廊下を踏み込む足音が近づいてくる。
「組で初めての謹慎を受けた気分はどうだ」
芯のある低い声に呼びかけられた為、即座に後ろを振り向くと、脇差一本を腰に差した袴姿の凛々しき侍が口の端を上げて佇んでいた。
「……永倉さん…おはようござます…」
「左之に聞いた話しじゃ、昨日は派手にやったらしいな。更紗は間者に違いねぇんだと、昨夜の夕餉時に触れ回ってたぜ」
「……違います。あれは襲われそうになって…自分の身を守っただけです…」
「今更、婦人が間者であるか否かなんぞ取るに足りねぇ事だ。それなりに稽古を積んでいるのは互い様、自分の身を守るだけの技量があるのは、此処にいる限り悪い事じゃねぇしな」
一体、何処まで本気で言っているか分からないものの、永倉新八に限っては、例え自分が間者であったとしても無闇に斬り殺すような事はしない思慮深さが伝わってくるようであった。
それは躊躇いからくるものなどではなく、己の剣に絶対的な自信がある現れ。
余裕のある顔つきで此方を見据えるその風貌からも古き武士の姿を垣間見たような気がし、更紗は背筋がピンと伸びる心地に苛まれその場から立ち上がる。
「身丈、袖丈共に不都合はねぇか?これでも、割と小綺麗なもんを回したつもりなんだが」
「……え、と、…身丈ですか?大丈夫ですけど、これ…もしかして永倉さんの……?」
「俺が一番、背格好が似てるんだと土方さんに言われてな。確かにそうしてりゃ、一隊士に見えなくもねぇな」
「……あの……ありがとうございます。着物より全然動きやすいので…凄く助かります…」
「礼には及ばんよ。で、土方さんから伝言だ。声を掛けるまでは話すな、だとよ」
まるで他人事のように言葉を放った永倉は踵を返す為、更紗も慌ててその後を追い、八木邸の仄暗い板廊下を歩んでいく。
庭先には何度も探索と称してお邪魔していたが、建物の中に一人で入るのは何となく気が引けて、いつも玄関先から殺風景な部屋の景色を眺めるだけだったのだが。
「……話すなって……挨拶もですか?」
「芹沢先生は尊敬できる武士ではあるんだが、アクが強くてな。近藤さんが話しをつけるまでは口を挟まずに出方を待った方がいい」
「……分かりました」
屯所にいる誰もが慎重を期しているその姿勢が思いがけず女の胸の
浅い呼吸を何度か繰り返した更紗は、ふぅ、と息を吐き切ると、和室の敷居を素足で跨いで、鼓膜にまで響き始めた自身の心音へその意識を向けていく。
「大坂はどうでしたか?聞き
「京どころか江戸より活気があるやもしれんな。金回りも女もいいもんだ」
「……そうでしたか。それは良かったです。それでその…少しばかり聞いたのですが、大坂で…金子を借り入れられたと…」
「
「……いや、そうではないのですが…」
「安心しろ、借り入れた訳ではない。是非とも隊服の支度金にと、献上されただけの事だ」
息を潜めたような静かな室内にしゃがれた声が重く響き渡れば、酸素を取り込む事さえ
無意識に部屋を見回せば、見知らぬ男たちが六人ほど、近藤、土方が中央に正座し、縁側傍に陣取る男へ向けて話しをしている中、一人また一人と此方へ顔を向けてくる。
更紗は息を止め、幽霊の如く音もなしに畳の上を彷徨えども、四方から感じる不躾な視線に今すぐにでも消え去りたい衝動に駆られていき。
「それよりも──、儂の居ぬ間に屯所の雰囲気が変わったようだな。近藤、何か話しがあって此処に来たのではないか。世間話をしに来た訳ではなかろう」
「……いやはや、芹沢先生には隠し事が出来ませんなぁ。…実はここ一週間ほど前から居候している若者が居りまして、主に賄い方として働いております故、何卒、先生に無礼なきようにと連れてきた次第であります」
「賄い方……先だっての酷いアレか」
「いえ、今日の朝餉においては事情があり、別の者が…」
場の空気を壊さぬよう静かに腰を下ろした永倉の背に隠れるように更紗も末席に小さく座り込むと、伏せていた碧色の双眸を男の肩越しに前へ這わせていく。
嫌でも目に入ってしまうかつて縛り付けられた木柱の前で黒い眼帯を嵌めた侍に脱いだ羽織を預けた長身の武士は、ゆらりと此方へ身体を向けてきて。
「まぁいい。何奴だ。顔だけ見せてもらう」
鼻梁の通った凄みのある顔の頬は幾らか痩け、ほんの僅かだが白髪が混じる髷から推測しても、部屋にいる誰よりも年長者である事が伺い知れる。
そんな齢四十にも届くや否かの風貌を根底から裏切るのは、重ねられた着物の上からでも充分に分かる男らしい堅牢な身体つき。
大刀を袴から抜き取る所作一つみても抜かりのないもので、その生き様全てを閉じ込めてきた眼差しに一度でも捉えられれば、人は容易に抜け出せるものではなく。
「……随分と変わった若者を雇ったもんだな。名は何と言う」
落とされた鋭い視線に抗うこともできず、更紗は従順に口を開こうとするも、その脳裏を過るのは先ほど言付けされた永倉の言葉。
むっつりと座り込んでいた土方が途端に振り返り、
「……名は、市村と申します故。以後、お見知りおき…」
「土方、お前には聞いておらん。おい、そこの小童。名を名乗れ。何故、天を仰ぐと目が青になる」
「……芹沢先生、そんな声を荒げられますと、何事かと怖がって……」
「近藤、
「……いえ、そのような事は決して…!これには深い訳がありまして……先生……!」
右手に持つ大刀を強く握り締めた芹沢は、近藤と土方の間を裂くように荒々しく闊歩すると、獲物に飛びつく猛獣の如く殺気を放ちながら目の前へと迫ってくる。
顎を掴まれグッと背後へ押された事で、敢え無く鈍い音を立て壁へと押し付けられるが、男が力を緩める事はなく、寧ろ、より動きを封じ込めるかの如く、節くれた指を喉元へと這わせていく。
「……儂の居ぬ間に忍び込むとは、何処の藩の差し金か」
「……ち…が……」
恐れと痛みで上手く呼吸ができずにいた更紗は固く目を瞑り、押さえつけてくる芹沢の左腕に震える両の手を這わせる事が精一杯だったが、突如、その苦しみから解放されていき。
「……お前、女か」
ポツリと洩れた
至近距離から値踏みするような顔つきで全身を見られる為、女は今にも泣き出しそうな顔を背けるが、ざらりとした指先の感触が顎のラインに触れてきて。
「名は」
「……市村……更紗…です…」
「生まれは」
「……京都…」
「齢は」
「………」
「年は幾つだ。答えろ」
「……じゅ…十八……」
「随分と若いが……上玉だ」
スッと離れた人の気配に今にも崩れ落ちそうな安堵を覚えたのも束の間、地獄の淵から掬い出される勢いで、下ろしていた腕を掴まれ持ち上げられる。
更紗は息つく間もなく畳の上を引き摺られるように歩かされ、口から心臓が飛び出てしまいそうなほど気分が悪くなり、底知れぬ眩暈に襲われていく。
「儂の身の回りの世話をさせてやる」
「………身の回りの世話って……何を……」
「全てだ。一つ一つ教えてやる」
男の望む事が何かなど想像すらできない現状では、この恐怖から一秒でも早く解放してもらえるなら、何をしても構わないとさえ思うほど、精神的に追い詰められていた。
瞬きをする度に揺れ霞む視界の先には、唖然とした顔つきの見知った侍が見え、その横で見知らぬ侍たちが何処か楽しげな表情を浮かべ、他人事のように自分を眺めていた。
不意打ちで背後から掴まれた手が誰のものであるかなど、考える余裕は微塵もなかったが、歩みを止めた男の手を振り解くように仕向けられていたのか、更紗は漸くその場に留まる事ができ。
「芹沢先生、具合が悪いことにその申し出は承知できません。何故ならば、賄い方っつうのは建前、此奴は俺が小姓としてわざわざ雇い入れたもんでしてね」
遠くなりかけていた意識に響く音は聞き馴染みのある低い声で、いつもなら嫌悪感しか湧かなかった筈なのにこの時ばかりは、感じた事のない安心感すら与えられるものであった。
強く握り締められた腕を引かれ、更紗は目先にあった着流しに減り込むように顔をぶつけるも、肩に触れる感触は躊躇いのない優しいもので。
「……土方の小姓だと云うのは、近藤、真意か」
「……ええ、まぁ……歳が此処に連れてきたのは真です…」
「毎夜、熱心に勤しんでくれるもんで、今の所、手放すつもりはありません。まぁ、飽きた日位は回してもいいですが、俺の後とあっては先生も腹に据えかねる所があるのでは?」
話しの内容は分からなくとも一触即発ともなり得る空気感の中、尋常でなく張り詰める女の鼓動を押さえるかのように、肩に回された逞しい腕がゆっくりと力を込めてくる。
更紗は悔しいかな、憎き男と着物越しに触れ合う事でしかこの場を切り抜けられないと悟り、その思いの丈をぶつけるように、ぎゅっとその袖口を握りしめるが。
「……小姓にすら赤の組紐とは──土方、武士非ずと洒落者気取りか!!出直せ!」
刹那、雷鳴のような怒号を浴びせられた更紗は全身をびくつかせるが、隣に立つ土方は腕を解き、見た事もない丁寧な所作で目の前に佇む芹沢へ低く頭を下げていく。
「以後、気をつけます故、これにて失礼仕る」
踵を翻す姿が視界から見切れると同時に、女は再び手首を掴まれ引かれるままに逆方向へ歩み始めるが、今度は自分の意思を持って重苦しい和室の敷居を跨いでいき。
(……た……助かった……)
痺れるほどの安堵感に強張っていた身体の力が抜けていけば、震えの収まらない指先を大きな手が包み込んでくれていた事に気付く。
更紗は思わずその手の主である土方をチラリと見やるが、ふ、と口元を緩めて普段見せない微笑を浮かべる端正な横顔が視界に飛び込んできて。
「流石におめえでも怖かったようだな。事が済んだんだ。飯でも食って落ち着きゃあいい」
「………今……ゴハン食べたら…絶対吐きます……」
「それでも間者の端くれか?随分と可愛いもんじゃねぇか」
呆気なく指先を離れた熱は玄関口にある陽だまりに吸収されていく為、更紗もそれに吸い込まれるように、よろよろと地面へへたり込んでいく。
話す気力も湧かず、高下駄を履く土方の小慣れた動作をぼんやりと眺めていれば、またも堂々と人の髪に触れてくる為、諦めるように身を任せるが。
「これは餞別としてくれてやる。次からはてめえで何とかしろ」
素っ気ない言葉とともに目の前に落とされたのは、鮮やかな色彩を放つ一本の赤い紐。
まるで蛇の如くうねり板廊下へと這うように落下していったそれは、土方の結わえた黒髪に度々、巻き付けられていた赤い紐と同じに見えるもので。
「……え、……これって……」
慌ててその紐を拾い上げて玄関へと顔を向けるも、既に八木邸を後にした色男は振り返りもせず、細長く続く土道を颯爽と歩いて行く。
仄暗さ漂う室内から見る外の景色は、不自然なほどに白く明るいもので、この先に続く道が果たして何処へ繋がっているのか不安になる位に、本来の姿を惑わせていた。
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