男装の麗人

 がらんどうとした僅か四畳半ほどの室内に、シュッと袴紐を結ぶ心地よい音が静かに鳴り響く。


 慣れた手つきで余った腰紐を紺袴に押し込めると、同色の男物の着物の皺を横に集めて、もたついていた腰回りを整えていく。


 障子越しに射し込む自然光はすっかり明るいもので、およそ一日もの間、狭い和室から一歩も出して貰えなかった女でも、時間の経過を感じられていた。



 部屋の隅に畳んで置いていた制服の横には、脚付きの古びた丸鏡が並んでおり、その前に座り込んだ女は手ぐしで髪を集めると手首にあった髪ゴムでポニーテールを作っていき。


「……うーん、あんまり見えない。これって鏡の意味あるのかなぁ…」



 薄ぼんやりと映る自分の姿を目を細めて見ていた更紗は、部屋にあった時点から既に曇っていた幕末の鏡の使いにくさに、一人頭を傾げていた。


 

 現在の鏡はガラスの片面にアルミや銀を鍍金めっきした上で保護膜を塗布しているが、当時は青銅の表面に水銀鍍金を施して反射面を作っていた為、持ちが悪く、定期的に鏡研ぎの磨き上げが必要であった。


 それでも、江戸時代には柄つきの鏡や懐中鏡が女性の間で流行し、品質の悪い量産品さえ全国各地で飛ぶように売れていたのであり。



「入るぞ」


 間髪入れずに開いた障子戸の向こう側に立つ人間を鏡越しに見やれば、ぼんやりと黒の着流しの纏う男の姿を確認することができる。


 戸を開ける度にその所作を口煩く注意してくる割には、此方の了解を得ずとも立ったまま開けてくるその矛盾ぶりに、日毎に蓄積されていく恨みが腹の内でぐるぐると渦を巻いていき。


 (……お腹減った。気持ち悪い……)



 昨日、京の町で起こした件において、土方からこってりと絞られたのは言うまでもないが、その後申し渡された罰は無期限の謹慎処分に加え、謹慎が解けるまでの間の絶食であった。


 前川邸の奥まった角部屋に押し込まれ、終わりの見えない時を待つのも辛いものだが、唯一の楽しみであった食を奪われるのは、正しく断腸の思いである。


 

 ゆっくりと精神を蝕む空腹が最高潮に達した時、初めて原田の言っていた言葉の意味を理解し、途切れる意識の中で色男の真の怖さを体感することができ。


「……たっぱもある分……男に見えなくもねぇか」



 ポツリと落とされた低い呟きを前に、警戒するように身体の向きを変えた更紗は畳に正座したまま、恨みがましくその端正な顔を睨みつける。


 眉をひそめて何処か思案気な表情を浮かべている土方は、悔しいかな、意地悪な内面とは似ても似つかない大人の爽やかさを朝から醸し出していた。



「これを以って謹慎を解いてやる。但し、飯は事が済んだ後だ」


「……事が済んだ後って……何ですか?」


「おめえには、今から人に会ってもらう」


「……人、ですか」



 昨日までの男たちの会話で思い当たる節があった更紗は、途端に胸の内が波立ち騒いで落ち着かなくなるのを感じる。


(……やっぱり、屯所へ帰ってきたんだ…)



 仮にその人が芹沢鴨という男ならば、彼らさえ扱いに困っている曲者であり、容姿から既に突っ込みどころ満載な自分が訪ねて行ってすんなり受け入れて貰えるとは思えない。


 不安に駆られゆく心の隙間をパタンと閉めるように後ろ手に戸を閉め切った土方は、近くの木柱へその背を預けると、徐に腕組みをして此方を見据えた。



「おめえは今日付けで俺の小姓だ。聞かれたらそう答えろ」


「……コショウって何ですか?胡椒…?」


「茶運びみてえな雑用をこなしてんだろう。その役目の事だ」


「……はぁ……」



 以心伝心ならずとも、嫌な思いが先行したまま相手と会話を続ければ、自ずと返ってくる男の態度も冷たいものへと成り替わる。


「別に嫌なら断わりゃいい。但し、役職のねぇ奴に個室を与える義理はねぇ、荷物をまとめてさっさと大部屋へ移動しろ」



 男ばかりが雑魚寝をしている大部屋に送り込まれるのは、流石に身の危険を感じざるを得ず、土方を突っぱねてまで一人で受けて立つ度量はない。


 バッキバキに折られゆく意地とプライドはかなぐり捨てるしかなく、更紗は全ては生きるためだと、心底嫌いな男へ嫌々ながらも頭を下げていき。



「……よろしくお願いします」


「最初からそう言やいいんだよ。こんな所で男の餌食になりたかねぇだろうが」



 それ見たことかと切れ長の双眸を細めて見下ろしてくる男からプイッと顔を背ければ、目先にあった障子戸がゆっくりと開け放たれていく。


 誘われるように其方へと目線を向けるや否や、状況を知ってか知らずか、ぎくしゃくした空気を一新する笑顔を貼り付けた近藤が、存外優しい眼差しで自分を見つめてきて。



「おお、そうか。確かに歳の見立て通り良いもんだ。美貌を隠すのは少し勿体ないがね」


「んな事より、芹沢の様子は?」


「ああ、さっき朝餉を終えて、八木邸へ戻っていった所だ。行くなら機嫌の良い今行こう」


「満腹でありゃあ…日の出た内に取って食いはしねぇか。おい、行くぞ」



 クイっと顎を持ち上げ、近藤の後に続いて歩くように指示された更紗は、仕方なく畳に手を付き立ち上がると、土方には目もくれずに急ぎ足で板廊下へ歩み出す。


 

 相手に対して失礼な行いであるのは承知しているが、目の前でいつも通りの高圧的な態度を取られてしまえば、此方も反射的に味気ない反応を返してしまう。


 どう見積もっても相性最悪な二人が上司と部下のような関係を築かなければならないのは、どちらの精神衛生上にも良くないのだと落胆してしまうのだが。



「……ちょっと待て」


 スッと伸びてきた長い指が動きを止めるように稽古着越しに肌に触れた瞬間、その華奢な肩が不自然にびくりと跳ね上がる。


 背後に立つ人影が自身のそれと重なった時、その距離の近さにたじろぐも、色男が余りに躊躇なく人の髪に触れる為、安易に離れることもできず。


「……何…でしょうか……ゴミが付いてるなら自分で……」



 くるくると髪に何かを巻き付けているように感じなくもないが、面倒くさそうに吐き出された吐息が否応無しに真後ろからかかる為、更紗は平常心を保つ事が出来ない。


 胸が性急に張り詰めるのを気づかれたくない一心で、眉を寄せて前を見据えてみれば、その様子を立ち止まって見ていた近藤が、ニコニコと柔和な笑みを浮かべていて。



「流石、歳だなぁ。なんだかんだ言っても更紗の身を案じているのか」


「総司がうるせぇから仕方なくだ」


「お前さんのそういう所が心底頼もしいよ」

 


 土方はカラカラと笑う近藤にはいつもの辛辣な返答はせぬまま、石のように固まっていた女の髪から手を離すと、その横を平然と歩いて行く。



「さて、どう切り出しゃ事が上手く運ぶか」


「……ううむ、それなんだが…」



 更紗は触れられていた自分の髪へ手を伸ばすも何をされたか見当もつかず、只、殆ど残っていない大切な精神力を無駄に削がれた気がしてげんなりしていた。


 しかしながら、今しがたの少しの疲弊が後に大きな事態を防ぐことになろうとは、肩を並べて話し込む二人を眺めていたこの時はまだ知る由もなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る