前門の虎、後門の狼
逃げ場を奪うように日陰を一切作らぬ陽光が京の町を隅々まで照らしていた昼下がり。
人気のない小道を一人、二人と髷姿の男性が通り抜ける時、必ずと言っていいほど、自分の顔を二度、こっそり盗み見てきていた。
頬を赤く染める者、怪訝そうに眉を顰める者、反応は様々であったが、更紗も同じく江戸時代の人間の容姿は
(……私もだけど、新撰組の皆も背が高いんだ。それは目立つわ……)
屯所から一歩も外に出た事がなかった為、気づかなかったが、この時代の平均身長は未来に比べて明白に低いようであった。
町で見た男の大半は160センチちょっとある自分より低く見える背丈であり、女に限っては下手すれば一回り小さく見えるほど。
現に目の前で微笑んでくれている子持ちの女性も然り、平成の世の小学生でも通るような幼さをその身体つきにも秘めていて。
「ほんまおおきに。うちの子、これがないと泣き止まへんさかい、助かりました」
「いえ、お役に立ててよかったです」
「…お姉はん、初めて見るお顔どすけど…どちらのお人どすか?お名前を聞いても宜しい?」
「あー、いえ。名乗るほどの者じゃないので……では、失礼します」
涙の跡が残る顔で必死に風車を握りしめる幼子の頭を撫でた更紗は、興味津々に此方を見つめる小柄な女性にお辞儀すると、元来た小道を引き返していく。
トクトクと打ち続けていた心臓が少しずつ平穏を取り戻せば、代わりにふわふわと心が浮遊し始めるのを感じ。
「……良かったぁ。避けられなかった…」
幕末に来て初めて同性と会話をしたが、不思議がる様子は見られたものの、ごく普通に接して貰えた事が嬉しくて仕方ない。
自分に課したミッションをそつなくこなせた事で、この時代で生活する勇気が持てたような、胸の内から湧き上がる高揚感に進む足取りも軽やかになるが。
(……いや、早く戻ろう。浮かれてる場合じゃない…)
調子に乗ってしまいそうなウキウキ気分を一瞬で地の底まで落としてくれるのは、脳裏をよぎるある男の残像。
「……バレたら、もの凄く怒られるよね……やば……」
事ある毎に浴びせられるあの冷たい眼差しを思い出すだけで、全身を流れていた温かい血流が一瞬で凍りつくような心地を覚える。
兎に角、一秒でも早く寺町六角へ戻り、彼らが店から出て来た暁には、何事もなかったように迎えたい一心で足を動かすが───
「……す、すみません……!!」
角を曲がった次の瞬間、出会い頭に思い切りぶつかった更紗は、ふらつきながらも目の前に立つ見知らぬ男に向けて、目一杯頭を下げる。
しかしながら、此方を見やる相手は無言のまま歩み始める為、女は慌てて道を譲ると、気を取り直してその横を通り過ぎようとするが。
「おい、嬢ちゃん。ワシ、今ので骨が折れたみたいでなァ」
「……え、…?」
突如、グッと掴まれた腕を引っ張られた事で否応無しに身体が傾くが、咄嗟に自己防衛本能が働き、痛み始めた足を地面に押し付けその場で踏ん張る。
至近距離から瞬間的に見えたのは、男の纏う小汚い着流しの色味と帯に差した長さの異なる二本の刀だった。
「腕が使いもんにならんかったら、どう落とし前つけてくれるんじゃ」
ぞわりと、身の毛もよだつような囁きを耳元に吹き込まれた更紗は、条件反射で握り締められた手首を返し、無意識に男の腕を捻りあげていて。
「……痛…え……」
「…離したら離します……!」
即座に男は表情を歪ませ這わせていた指先を解いた為、更紗も同じように手を離し、すかさず距離を取るように後退っていく。
まるで腹を空かした獣のような目つきで此方を睨むのは、腕を
髷を結わえ帯刀している姿から一見、侍に見えなくもないが、全体的な身なりがお世辞にも綺麗と言える代物ではなく。
「うちの
「…今のは先にそっちからやってきましたよね?確かにぶつかってしまった事は謝りますけど……怪我するほどでは……」
「おいおい、女の分際で武士に歯向かうつもりかァ?!別に今ここで無礼打ちにしてやってもいいんだぞ!!」
「……いや、そういう訳じゃ…」
思いの外、事が大きくなっていく事態に、全身から大量の汗が吹き出すような不味さを感じた更紗は、胸が嫌な音を立てて性急に張り詰めていた。
「詫び代として金一両払って貰おうか」
「……え、一両って……私、一円もお金持ってません…」
「何を分からねぇ事抜かしてんだ?金がねぇなら仕方ねぇ……辻君みてえに体で償うのが女の筋だろうなァ」
「…辻君…?言ってる事が分からないですけど……」
吐き出された言葉の意味は分からなくとも、へらへらと笑いながら近づく男たちの不穏さに、段々と息苦しくなっていく。
(……これって当たり屋みたいなもんだよね。マジで運悪い……最悪…)
一瞬の隙をついて走り出そうと心では思えども、徐々に植え込まれていく恐怖心が、ジンジンと痛む足に根を生やすように動きを封じていく。
加えて男たちの腰に下がる刀の存在が、逃げ出した途端にその背後から斬られるのではないかという、無限の脅威を与えてきて。
「よく見りゃあ、肌が真っ白じゃ……こりゃあいい。前犯った女は浅黒い上に泣き叫んでばかりでよ。諦めが悪くてつまらんかったんじゃ」
「……でも、頭。この女、何か様子が妙ですぜ……面構えは上玉ですが、目が硝子玉みてぇに…」
「別に女でありゃあ物の怪でも構わん。連れてこい」
「…へ、へえ……」
大柄の男に急かされた小作りの男は古ぼけた着物の袖口を捲りながら、三日月のような目をより細め、此方へと近づいてくる。
更紗は訳が分からずともこの時代に来て人生二度目の大ピンチに陥っている事を悟り、意を決して指先を強く握り締め、胸の前で両の拳を作るのであり。
「……そ…それ以上、近づいたら本気でやりますよ…!」
「……何だその格好は。恐怖で頭に虫でも涌いちまったかぇ」
正面切って伸ばされた薄汚い男の手が自分に触れそうになる刹那、更紗は有ろう事か縞柄の裾を開き、膝が見える位置まで白い脚を露出させ。
「……痛…っ…てえ……!!」
脛に向かって躊躇なく蹴り上げた草履の硬い先端が、鈍い音を立てるや否や、目先の男が声を上げながら苦しげに身体を前のめりにする。
それを待ってましたかと言わんばかりに捉えた更紗は、亡き母と一緒に通っていたジムのトレーナー直伝の護身術を脳内で超高速再生していき。
「………やあ……!」
低い位置まで降りてきた顔面へ勢いをつけた肘鉄を食らわせれば、衝撃から両手で顔を覆い、隙のできた腹部へ間髪入れず渾身の一撃をお見舞いする。
途端にふらつき、体勢を崩した男の腕を掴み足を引っ掛ければ、大の男がいとも簡単に地面へと転げ落ちて行き。
「……このアマ……!」
代わりに飛んできた罵声へ視線を向ければ、腕が折れたとのたまった大柄な男が鯉口を切り、ゆっくりと大刀を鞘から引き抜いていくのであり。
「この場でなぶり殺してやる……」
殺気立つ男の憎しみに満ちた眼差しが、仕留める獲物を定めた獰猛な猛獣に思えて、更紗は一瞬で地獄の淵に追い込まれた絶望感を味わうしかなかった。
全てはこの地を舐めてかかった自分が招いた結果、親子を追いかける前に一言彼らへ声を掛ければここまで最悪な事態にはならなかったのだと、後悔しても過ぎた時は戻らない。
(……もう遅い……どうせ死ぬなら、戦って死のう……)
思いがけず、人生の最果てを見つけた更紗は、項垂れるように身体を折ると傍で倒れている男の腰にある鞘から静かに大刀を引き抜いていく。
居合道場で使っていた竹刀や木刀とは全く異なる手触りのそれは多少の刃こぼれが見られるものの、人の命を奪う凶器であることには変わりなく、その重みにふっと意識が遠のきそうになるが。
「……更紗…!危ないから下がれ……!!」
切迫した怒鳴り声が背後から掛けられるや否や、まるで獣に首根っこを引き千切られたかと思うほどの強大な力に引っ張られ、更紗はその反動で刀ごと後ろへと投げ出されていく。
「……きゃあ……っ…!」
地面へ落ちる刀身が陽の光を乱反射させていた時、横倒れになった状態から懸命に見上げた視線の先には、珍しく木刀でないものを腰にぶら下げていた若者が男と自分の間に立ち塞がっていて。
「女相手に武士が乱暴ですか」
「乳くせえ餓鬼は引っ込んでろ。貴様も殺すぞ」
「手向かえば斬り捨てます」
初めて呼ばれた自分の名は驚くほどに荒々しさを孕んだものであったが、今まさに目の前で放たれる沖田の声は、恐ろしいほどに落ち着き払ったものであった。
辺りに漂う独特の緊張感に呼吸が浅くなれば、悔しくも身体中が打ち震え、みるみるうちにその碧色の双眸に大粒の涙がたまっていき。
「……大丈夫か?何、物騒な事に巻き込まれてんだよ…」
「……は……原田さん………」
「勝手な事した罪は重えぞ。土方さんの眉間が皺々になっちまってたからな」
今だ転がる小柄な男を足蹴にした長身の男は、今にも涙を落としそうな更紗の傍に腰を下ろすと、栗色の頭をポンポンと撫ぜては腕を回し持ち上げていく。
安堵感からか途端に気の抜けた身体では男の手を払う事すら出来なかったが、緊迫した世界に背を向け、元来た道を戻ろうとする原田へ涙交じりに声をかけ。
「……お……沖田さん…は……」
「彼奴は問題ねぇよ。一太刀でぶった斬る事はあっても下手こいて斬られる事は、…先ずねぇんだよなぁ、これが」
「……でも……斬る…なんて……」
「腰抜けは総司相手に抜刀する事も出来ねぇぜ?てめえの命が惜しいからよ」
その言葉に慌てて後ろを振り返った更紗は、抜き身を手に背を丸めながら虎に似た唸り声を上げる大振りの男が、細身の青年を前に一歩も動けないでいる姿を目の当たりにしていた。
背面しか見る事が叶わない沖田は、相手を真っ直ぐに捉えたままいつでも鯉口を切れる状態に入っているようで、まるで孤高の狼の如く付け入る隙がない。
一切の無駄がない佇まいには簡単には人を寄せ付けないオーラが滲み出ており、笑顔の裏に見え隠れする難攻不落の胸懐が姿を現したような、漠然とした恐怖が女の胸を締め付けていくが。
「……それよりよ、更紗。やっぱお前……間者じゃねぇのか?」
「………何で今……そんな…こと……」
「いやぁ、さっき見た時は相当たまげたけどよ…それ以上に一介の男としてゾクゾクしたぜ!なぁ……誰にも言わねぇから、ちょっと左之助様にそこんトコ教えてみなさい…」
グッと腰を掴む力が存外強いもので、知らぬうちに新たな鎖を巻かれたような感覚に陥った更紗は、徐々に近づいて来る高下駄の音に気味の悪さを感じる。
思わず前に向き直せば、能面を付けているかと錯覚するほど端麗な顔立ちをした男が、刹那に般若の面を被り直し、恐ろしい形相で自分を睨み付けてくるのであり。
「……おめえは……全くもって聞き分けがねぇようだな…」
「……ひぃ……」
女は心臓を鷲掴みにされるくらいの戦慄を感じ、すぐ横を駆け足で通り過ぎる着物に白股引を履いた月代姿の男たちへ、今すぐにも死にそうな碧色の目を向ける。
それぞれ腰にぶら下がった一本差しの刀以外に、十手や麻縄、刺又など、時代劇さながらの小道具を手に持っていたが、チラリと此方を二度見するだけで何も行動は起こしてくれそうになく。
「……だ……誰も助けてくれない……」
奈落の底へ自ら落ちてしまった絶望に追い打ちをかけるのは、少しでも動けば鋭い刃物が身体に減り込んでくるような原田の強靭な拘束力で。
「これがよく言う行くも地獄、戻るも地獄っつうやつか?土方さんの仕置きは怖ぇぞ〜俺ならチビるくれぇだが、女は直ぐあの世へイッちまうぜ」
あたかも自分が捕縛されたように無理やり歩かされている様は、さながら水の流れていない三途の河を渡っているかのような幻想を抱かせてくれる。
砂埃の舞う乾いた人生の終焉の先では、どう転んでも地獄にしか案内してくれない美貌の閻魔様が、腕組みをして待ち構えているのであり。
「………終わった…」
全てが夢であるようにと強く願う世界の中で肩を落とした更紗は、鼻緒に触れる指先が赤く濡れているのをぼんやり霞んだ瞳で見つめていた。
麻痺していた五感がゆっくりと命を吹き返せば、この場に崩れ落ちて息絶えた方が楽だと思われる痛みや苦しみが、後から後へとその身を覆い尽くして止まなかった。
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