京の町

 どこからともなく聞こえる九つを数える鐘の音が、碁盤の目状に東西南北を網羅する京の町全体に響き渡っていた。



 殺伐とした空気感の中、三人の男たちが背後を振り返ることなく歩み続けるため、更紗は鼻緒が擦れて痛くなってきた足を庇いながら、小走りで後ろに続いていく。


 当たり前ではあるが、男と女の歩幅は違う上に着物では足の開きが悪く、懸命に歩んだところで置いていかれるのがオチである。


 それでも、安易に一言物申せるほど穏やかな雰囲気に包まれてはなく、逆にこのまま引き返してしまいたくなる位には、重苦しい沈黙に侵されていて。


(……もう帰りたい……仕事探してる場合じゃないじゃん……)



 この一週間、頑なに連れ出して貰えなかった理由が今しがたの件と直結するかは不明だが、教えられずとも彼らが京の人々に好かれていないことは理解できた。


 現代人である自分がこの時代に溶け込めない事ばかりを憂いていたものの、実は江戸から来た男たちもこの町に未だ馴染めない事に頭を悩ませているようで。



「……おい、土方さんよ!何でもっと言い返さねぇんだ!身に覚えのねぇ戯言ざれごとだけでも腹立つのに、身なりがボロボロだっつって馬鹿にされてんだぜ!」


「そうですよ、左之さんの言う通りです。我々は大樹公のお役に立ちたいという強い意志を持って京まで来たんです。それなのに…貧乏人の物盗り扱いなんて…」


「敢えて壬生浪士組を騙る俺じゃねぇ誰かがそういう事をしてんだろう。彼処で揉めて、同じ穴のむじなだと思われんのも癪じゃねぇか」


「……だったら!そんな不届き者はさっさと取っ捕まえて、二度と出来ねぇように俺らで斬っちまおうぜ!」


「ほう、そうかい。やりたきゃ、好きにやりゃあいい。丁度、明日帰ってきやがるからな」


「……え、土方さん。明日帰って来るというのは、誰が何処に……?」


「そんなの決まってんじゃねぇか。事を起こして数日行方を眩ましやがった貧乏人の物盗りが、抜け抜けと八木邸に帰ってくんだよ」



 呆れるように吐き捨てられた土方の低い声が宙に舞い、人々の雑踏に掻き消されるや否や、足下で忙しなく鳴っていた高下駄の音がピタリと止む。


 先ほどまでの勢いはどこへやら、途端に口をへの字にして黙りを決め込む原田の横顔を一瞥した更紗は、同じく困惑した表情を浮かべる沖田も併せて捉える。



 土方が誰のことを揶揄して話したのかは分からなくとも、この男たちにとって厄介な人物が明日、屯所である八木邸へ戻ってくる事実は確かなようで。



「……芹沢先生が物盗りのような事をしてるんですか?」


「そうだ」


「……でも、それも人違いかもしれないし…」


「裏は取れてんだ」


「……近藤先生は…その事を知ってるんですか……?」


「今宵にでも伝えるつもりだ」



 流れていた春の暖かい空気が一瞬で冬の訪れを感じるような冷たく張り詰めたものに変わり、状況が飲み込めない更紗の胸懐にまで身震いする感覚を与えてくれる。


(……その人が芹沢って人なんだ。パンフレットに載ってた暗殺される人……)



 幕末の行く末を知る人間として、そう遠くない未来に粛清される人物とは面識を持ちたくないと拒否感が募るも、それは自分本位の身勝手な道理。


 そもそも自分の知る歴史通りに主たる出来事が起こっていく確証もない手前、一人で生きる力もない未来人は、同じ運命を受け入れる道しか選択肢はない。



「……くっそう、芹沢の所為で、どこ歩いてるか分かんなくなっちまったじゃねぇかよ…」



 まるで迷路に迷い込んだかの如く同じ景色が続くその町には標識の一つすら掲げられておらず、百五十年後の街の姿を知る更紗もどこにいるか直ぐにピンとは来なかった。


 思えば、全てが歩行者天国になっているこの世界は、自動車やバイクはおろか、自転車一台さえ見かけることはなく、皆が皆、自分の足で歩いて活力ある日々を過ごしている。



 文明の利器によって手間を省くことを覚えた人間は、如何に楽な日常を送れるかという難題を熱心に追求するようになる。


 結果、日本では誰もが便利な生活を手にすることが出来ているが、その代償として元来備わっていた能力や五感を使わなくなり、人間の本来在るべき姿がどのようなものであったかも忘れている。



 十字路の真ん中で立ち止まってしまった女を追い越すように、逞しく生きる市井の民はこちらを陰から見ては、素知らぬふりで通り過ぎていくが。



「──今、其処の姉ちゃんに聞いてきたんだけどよ!どうやら、この縦の通りは御幸町通ごこうまちどおりっつう名らしいぜ。どうだ、鍛冶屋には近づいてんのか?」


「左之さん、横の通り名は聞きましたか?今いるこの大きな道の名は?」


「…それがよ、御幸町覚えんのが精一杯で……確か…四が何とか……」


「この道は四条通りですけど……原田さんと沖田さんが行きたいお店ってどこにあるんですか?」


「店は六角通りと寺町通りの間にあるんだけど、どっちの通りが東西南北にあるのか分からなくて……いつも辿り着くまでが一苦労なんだよ」



 へにゃりと苦笑いを浮かべる沖田の姿からは先ほど見せていた気鬱さは抜け、すっかりいつもの柔らかい雰囲気に戻っていた。


 更紗はそんな様子にホッと胸を撫で下ろし、再び迷路のような世界をその碧色の双眸で隈なく眺め見ていく。


(……ここが御幸町、ふや、とみ、やなぎ、さかい、たか、あい、ひがし…)



 現代と比べ道幅は大分に狭いものになってはいるが、パッと見た感覚的に路地の数にそう大差はないように見受けられる。


 仮に推測が当たっていれば、彼らの目指している場所をすぐに特定できるだけでなく、京の町で生活する一つの強みとなり得るのであり。



「寺町六角なら…多分わかります。案内するので付いてきて貰えますか?」


「……え、お嬢さん何で来たことがないのに、分かるの?」


「この時代では来たことないですけど……もっと後の時代ではここに住んでましたから」


 

 三者三様の顔つきで自分を見据える男たちにニコリと微笑んで見せた更紗は、踵を返すと先に続く土道を歩み始める。


 同じように見えていた町屋もよくよく見れば、傘屋、小間物屋、乾物屋など、一つ一つは全く異なる店の集まりであり、路地の角地には見栄えのする大店おおだなが構えていた。


「……この道を三筋上がれば、六角通りになるはずです」



 呉服屋の前を曲がり寺町通りと思しき小道を北へ進んでいけば、徐々に喧騒を忘れるような静けさが辺りに漂い始める。


 指を折って通り過ぎた道の数を数えていた更紗は、その代わりようにそわそわと落ち着かない心地に苛まれ、背後にいる男たちの反応を見やるが。



「……おお、此処だ此処だ。更紗、やるじゃねぇかよ」


「お嬢さんが知ってるなんて、何だか不思議な感じがするけど……」



 口の端を上げて満足そうに古びた町屋へ入っていく原田に続いて、小首を傾げながら歩みを進めていた沖田もすだれの下ろされたその中へと消えていく。


 日除けというよりは安易に覗かれないよう目隠しをしたように思える簾の妙な置き方に、更紗は何となく気が進まず、その前で歩みを止めてしまい。



「………あの……行ってきて貰って大丈夫ですよ?」

 

「おめえを一人で残すわけにはいかねぇだろう」


「いや、別に……ここで待ってますし。何かあれば呼びに行きますから…」



 躊躇いがちに隣に佇む男へ視線を投げれば、こちらの一挙一動を洞察するかの如くぎろりと漆黒の双眸を這わせてくるため、女は耐えきれず顔を背ける。


 出会いが史上最低だったせいか、他の隊士たちより群を抜いて苦手な土方と二人きりの時を過ごすのは、もはや苦行以外の何ものでもない。


 逃げ場のない沈黙の中にその身を沈めるように黙り込む更紗を見据えていた土方は、ふぅ、と小さな溜め息を落とすと、腰に差した大刀に手を置き。



「下手な事すんじゃねぇぞ」

 

 ゆっくりと視界の端に見切れていく色男の姿がその瞳の中から跡形もなく消えた時、女の桃色の唇から盛大な安堵の吐息が漏れる。


「……良かった。一人の方が気楽だわ…」



 見知らぬ土地で一人にされる恐怖より、嫌いな相手と二人でいる苦痛の方が、よっぽど精神的ダメージは計り知れないものである。


 ましてや、何かあれば背後に鎮座する怪しい店に駆け込めば彼らと合流できるため、不安材料になるような心配事は今のところ、思いつかない。


「……それにしても……良い天気…」



 ポツンと手持ち無沙汰になってしまった更紗は、暇を持て余すかの如く目の前を通り過ぎて行った女髷を結わえる女性をぼんやりと眺めてみる。



「……同じ縞柄でも黒と紺とか……渋いな…」


 意外と地味な着物を纏うその女は自分と同じ年の頃に見えるのだが、白のタスキを上手く使っておくるみごと赤ちゃんを背負っていて。


「………あ、…落ちちゃった…」



 小さな手が握っていた赤色の風車かざぐるまが突如、吹き込んだ春風に攫われるように、ふわりと道端へ落ちてゆく。


 刹那、背負われていた赤子が元気良く泣き出すが、当の母親は落としたことに気づかず、あやすように身を揺らしながら、別の路地へと消えていき。


「……あ、……どうしよう…」


 

 更紗は周囲へ視線を向けるも、それに気づいたのは自分以外にいないと理解し、どきんどきんと鼓動が打ち始めるのを感じる。


 このまま見過ごしてしまえば良いかもしれないが、見てしまったからには、やはり届けてあげたいと思うのが、人間の良識の部分で。



 幸い大体の地理が予測できると分かった現状なら、一人で屯所まで帰るよう言いつけられても、問題なく指示を遂行できる自信はある。


「……渡すだけだから良いよね。すぐ戻ってくるし…」



 草履の音を立てないよう慎重に風車の傍まで歩むと、それを拾い上げて親子が消えた路地へと急ぎ足で駆けてゆく。


 忽然と浮世離れした女の姿が消えてしまった鍛冶屋の店前には、天上高くに登る太陽が容赦なく白く輝く光を注いでいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る