郷に従うこと

 カツカツと地を打つ下駄の音が、闇の潜んでいた玄関口から外へと静かに響き渡る。


「ほんなら、局長の所へ行こうか」



 女は履くように促された男物の草履に素足を通すと、黒装束の男に遅れを取らないように、急ぎ足で八木邸を後にする。



 目が眩むほどに明るい朝日は、昨夜のうちに地面で朽ちてしまった花弁の色味を少しだけ蘇らせてくれるものである。


 新緑輝く庭の木々には、愛らしい雀が数匹止まっては楽しげに戯れており、先ほどまで途切れることなく聞こえていた竹刀の音はいつしかピタリと止んでいた。



「………ここで……倒れてたのか…」


 四方を隈なく眺めていた更紗は、茶色の土壌に一部苔の生えた箇所を見つけ、その地に根を張る樹木を観察していく。


 一見、何の変哲もない只の桜木に見えるものの、周囲にある木々と比べると、花の散りが些か遅いようにも思えて。


「………あ、……」



 細い木の枝に四角い紙が引っ掛かっているように見えた更紗は、遠ざかる山崎の背を横目にそろり、そろりと近づくと苔を踏みしめ背伸びをする。


 僅かな差で届かない悪戯な距離感にやきもきしつつ、左の手の平をゴツゴツした幹につけては右手の指先を伸ばしていき。


「お嬢さん、おはよう」



 刹那、背後から掛けられた声に振り返れば、昨夜、沖田総司だと名乗った若者が首にかけた手拭いで顔を拭きながら歩いてきていて。



「……おはようございます」


「こんな所で何してるの?」



 朝稽古の後なのか稽古着から覗く肌は汗ばみ、熱を放っているように思えるもので、袴を纏ったその腰元には使い古された木の棒がぶら下がっていた。



「……あの、紙が挟まってて……」


「枝に引っかかってる紙が取りたいの?じゃあ、俺が取ってあげるよ」


 

 邪気のない顔つきでニコリと微笑んだ青年は、高下駄を鳴らしながら目と鼻の先まで近づくと、スッと手を伸ばし、挟まっていた紙に長い指先を這わしていく。


「……よっと……お、取れた」



 履物のせいで自分より頭一つ分長身の沖田はひょろりと痩せて見えるが、実は伸ばされた腕が想像以上に逞しく、長年剣術に勤しんでいることが見て取れ。


(確か……新撰組一の剣士って呼ばれてたんだっけ…)


 

 幼い頃から剣の道と縁があった更紗は、中高と剣道部に所属していた幼馴染の腕節の強さを思い出していた。


 それでも、マジマジと男性の腕を眺め見るのは気恥ずかしいもので、気づかれないようにと沖田の手元へ目線を落としていき。



 「……新撰組……壬生屯所遺蹟だって。へぇ……近藤先生、婦人が面白いものを見つけてくれましたよ!」


 即座に楽しげな声を上げた青年を仰ぐも、目先にいたはずの沖田は袴を靡かせ、後方の長屋門へ駆け出していく。


「……あ、ちょっと……それは……!」


 

 一瞬だけ見えた手の内のもの、それはタイムスリップする前に八木邸の入口で貰ったパンフレットであった。


 日本の行く末を知らぬ彼らに見せるのは危険だと更紗も慌てて駆けていくが、沖田は井戸の傍に佇む男たちの前で足を止め。



「近藤先生、これを見て下さい。屯所の長屋門が描かれているんですが、まるで絵に閉じ込めてしまったように美しいのです。これはもしかして…江戸で聞いた、ほとがら、というものではないでしょうか?」


「ほとがら、か。どれ見てみよう」



 太陽の下、汗ばんだ上半身を晒し白布で拭き上げていたのは、昨夜、地獄の淵から掬い上げてくれた強面の男性であった。


 岩のように無骨で頑丈そうな近藤勇に手の内のものを差し出した沖田が寄り添うと、先ほどまで一緒にいた山崎も身を乗り出す。


 

「……うーん……未だかつて、ほとがらというものを見た事ないからなぁ…。私には絵のようにも見えるが……山崎君は、ほとがらを見た事あるかね?」


「いえ、私も拝見した事はないです。確かに絵にしては細部まで凝られてるいうか…」


「そうか……なぁ、歳。お前さんはどう思う?この手のもんの目利きは得意だろう」



 井戸を覗くように身を屈めていた人間が丸桶からパシャリと水を掬って顔を洗えば、悠然とした動作で身を起こし流し目を寄越す。


 雫が滴る黒髪を濡れた手で搔き上げたその男は、着流し姿のまま諸肌を脱いでおり、色白ながら鍛え上げられた肉体を惜しげもなく披露していて。



「ほとがらかはさて置き、中には何が書いてあんだ」


「……あぁ、中か。どれどれ……ううむ……これは…」


「何も書いてありませんね」


「な訳ねぇだろう。総司、くだらねぇ事は抜かすな」


「いえ、本当ですって。上紙はこんな美しいのに、中身は真っ白」



 穴があくほど見られてしまえば、取り返しのつかない事態になると、更紗は地面を蹴り上げ一目散に走り出す。


「……それは……見ちゃダメ……!」



 脱兎の如く駆け、体当たりするように男たちの輪の中へ入り込むと、なりふり構わず四角い紙を奪いその場へと座り込んだ。


「……これが真っ白なわけ……」



 しわくちゃになってしまったパンフレットを恐る恐る開いてみれば、瞬時にカッと頭に血が上るような焦燥に襲われ。


「………どういう…こと…!?室内の写真とか……説明書きとか……えぇ……」



 碧色の双眸が落ち着きなく紙の上を転がれば転がるほど、それを持つ華奢な指先には小刻みな震えが起こっていく。


 まるで元から何も印字されていなかったように、紙面から全てが跡形もなく消えており、これから起こるであろう未来の出来事を知ることすら叶わない。


 これが何を意味しているか考えようとしても、収拾が付かないほどに混乱している頭ではまともな思考を持つことさえままならず。



「それは、貴女のものだね?」


「……は…い」


「本来、何か書かれていたのかね?」


「……は…い…」


「どういう事が書かれていたんだ?」


「……それは…」



 口を注いで出そうになる言葉は未来を暗示するものばかりで、彼らにどこまで真実を伝えていいものか、直ぐに答えが出るものではない。


 ましてや、未来の予言となる文字や写真が全て立ち消えてしまった事からも、歴史を動かす出来事が本当に起こるのかさえ定かでない、危うく不確かなもので。

 

「この期に及んで口を割らねぇとは、大したたまだな」



 張り詰める心の糸にはさみを入れるような心無い言葉が頭上に放たれた事で、更紗は闇深い穴の底へ身体ごと落下していくような、救いようのない悲しみに襲われていく。


「………私は…そんなつもりじゃ……」


 

 知り得る全てを語ったところで、昨夜のように信じて貰えないのなら、これ以上、彼らと関わりを持つことはしたくない。


 恨みがましく睨みつけるように声のした方へと顔を向ければ、落ち着き払った眼差しで自分を見下ろす色男に視線を絡め取られ。


「なら、分かる範囲で答えりゃいいだろう」



 ゆるりと片眉を吊り上げた土方は、彫刻のように引き締まった上半身を着物へ収めながら、堂々とした風貌で歩いてくる。

 

 朝稽古後にもかかわらず、お風呂で汗を流すこともせず井戸水を浴びて済ませる男たちの行動は、現代人として全く理解できないものである。


(……せめて……建物の中でやってよ……)

 


 騒つく胸の内を悟られたくなくて俯いた視界に男の姿が見切れた刹那、スッと伸びてきた骨張った長い指が目の前へと現れ。

 


「あ、土方さんずるい!それ、俺が取ってあげたやつなんですよ」


「うるせぇ、ほとがらかどうか見るだけじゃねぇか」


「そう言って、直ぐに人のものを横取りするじゃないですか…!これは近藤先生に…」



 意味を成さない紙が指先から抜き取られるや否や、大の男たちがそれを巡って醜い小競り合いに身を投じていく。


 更紗はその声をぼんやりと聞きながら、天地がひっくり返ったような、青い空に飲まれていく絶望を味わっていた。



「……もうどうすればいいの………元の世界へ帰りたい…」



 刻一刻と穏やかに進められる彼らの日常は、本来であれば現代人が知る由のない、長い時を経て積み重なった歴史の下に埋もれる真実である。


 けれども、それは彼らの隠された生きる道であって、時空を超えてまで未来人の自分が知りたかったものではない。


 手の内から消えてしまった紙も然り、存在さえ危うい己の所在を思えば思うほど、春の空に浮かぶ雲のように薄く千切れ、儚く消えてしまいたいと願うのだが。



「更紗と言ったか。歳から身寄りはないと聞いたが、この京に帰る家はあるのか?」


 突如、野太い声に名前を呼ばれた女は、じわりと涙で潤み始めた瞳を瞬いて、真正面にしゃがみ込む半裸の男を躊躇いがちに見つめていく。



 昨日まで当たり前に生活していた平成の世に見放され、古めかしい江戸時代へと飛ばされた自分に行く当てはおろか、知り合い一人見つけることさえ不可能である。


 不意に襲う気の遠くなるような孤独感に、息が詰まり言葉を発せないまま、ただ力なく首を左右に振ることしかできないのだが。



「ならば、目処が立つまで此処にいてはどうだ。生憎、見ての通りの男所帯で炊事洗濯に苦労していてな。女中として払う給金はないんだが、代わりに居候として住んで貰って構わんよ」



 まるで太陽のように豪快に笑う近藤勇の顔つきは、昨夜、絶望の中で与えられた絶対的な安心感を再び感じさせてくれるものであった。


 どんな事があってもこの人間は自分を裏切らないと、根拠のない自信が心の奥底からむくむくと湧き上がってきて。


「腹が減っては戦ができぬ。今から朝餉だが、共にどうだ。京の漬け物は格別に美味いぞ」


 

 剣だこのある手の平で肩をトントンと撫ぜられた更紗は、目頭の奥が急激に熱くなるのを感じながら、徐に立ち上がった男へと目線を向ける。


 

 和やかな光を受けて陰影のついた大きな背中は、追いかけて手を伸ばしたところで到底届くことのない遠い存在に思えて仕方なかった。


 それでも温かく霞む碧色の双眸には、青空の下、楽しげな罵声が飛び交う男たちのありふれた日常が確かに映っていた。

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