郷に入りては

「ほんなら、お嬢ちゃんは遥か遠い未来から飛んできた言うんかいな」


「飛んできたというか……気づいたらココにいたっていうか……」


「覚えてないんか」


「……はい。雷に打たれたような気もするけど……それ以上にこっち来てからの方がショックだったから……詳しいことが思い出せなくて…」


 

 柔らかな陽光が部屋全体を照らす頃、目の前に座り込んで飄々と話す山崎に言葉を返した更紗は、少し前から紫色の風呂敷一枚隔てた距離にちょこんと腰を下ろしていた。


 これまで出会った男たちとは違い、眉毛も見える程に短髪であるその男は一見すれば現代人でも通るような、ある種、幕末らしからぬ独特の雰囲気を醸している。



「それは難儀やなぁ。で、しょっく云うんは、どういう意味なんや?」


「……え、と。ショックっていうのは……衝撃的だったというか……悲しいっていうか……何て言ったらいいんだろ……」



 畳に広げられたその中から着物を取り出すたび、こちらを流し目で見やる仕草にドキリとするも、当の本人は至って普通の様子で手元にあるものを分けていく。


 しかしながら、その所作の一挙一動さえ、芸妓時代に舞の稽古を欠かさず続けた亡き母にも負けじ劣らずの品や華やかさを備えている。


(……この人、ひょっとしたら女の人って事もあるのかな。女の人でもこんなに綺麗な人余りいないし……)



 まるで歌舞伎役者の女形とも言わんばかりの艶を覗かせる山崎は、選んだ着物一式を手に取ると、僅かに口の端を上げながら女の目先へと差し出した。


「まぁ、何らかの拍子に頭打ってしもて、物事をど忘れする事は稀にあるさかい。ゆっくり思い出したらええ」



 些か高いトーンに思える滑らかな男の声が室内へと響けば、更紗は渡された着物の重みを両の手に感じるように、がっくりと肩を落としていく。


「……いや、あの……別に頭は打ってないんですけど……ありがとうございます…」



 30分前まで見ず知らずの他人だった人間にさえ、記憶喪失だと勘違いされている節がある辺り、昨夜、身に起きた出来事を懸命に説明したが、一切を信じて貰えなかった現実を思い知らされる。


 それでも不幸中の幸いなのは、悪夢のような酷い扱いからは抜けられたようで、訳の分からない間者の濡れ衣は晴れた気配が漂うことであり。



「取り敢えず、そのけったいな着物から着替えてしまい」


「……着替えるって…この着物にですか?」


「そうや。流石に小袖の着方は覚えてるやろ」


「…着付けって……実は上手くできなくて……」


「……ほんまかいな。しゃあないなぁ。俺が手伝ってあげるさかい…」


「…いや、待って…!帯だけ…!帯だけ手伝って下さい!」



 遠慮なく伸びてきた綺麗な手を着物越しに押し返した更紗は、顔に熱が集まり始めるのを散らすように首を振ると部屋の隅へと後退っていく。


 幾ら着物の着付けが不得意だからといって、出会ったばかりの面識のない男性に一から手伝って貰うほど恥じらいを捨てている訳ではない。


 

「……あの……着替えるので……外に出てて貰えませんか……」


「そんなん、朝から取って食ったりはせえへんわな」


「…いや…!そうでしょうけど!そういう問題じゃなくてですね…」


「俺がこっちを片付けてる内にさっさと着替えてしまい」



 慌てふためく女を横目にクスリと微笑んで見せた山崎は、こちらに背を向けると再び腰を下ろし広げていた着物や帯を風呂敷の中へと戻していく。


 自分ばかりが変に意識しているように思わされる空気感に反論の言葉が続かず、更紗は仕方なく踵を翻すとブレザーを脱ぎ、真っ白なシャツのボタンをそっと外した。



 心地よい春風が室内へと流れ込んでくれば、庭の木々がサワサワと音を立てて揺れるように、陽に当たってより茶色に見える女の下ろし髪も後方へと攫われていく。


 刹那、そう遠くない距離から闘志溢れる男たちの雄叫びが聞こえてくるや否や、竹刀の唸る音が板廊下伝いに鳴り響いて。


(……懐かしい音。流石、新撰組の屯所だわ。毎日、朝稽古してるのかな…)



 割と鬼気迫るその声色に稽古の様子が容易く想像できた更紗は、畳の上に置いていた長襦袢を肩に掛けると、風に靡いていたチェックのスカートも下ろしていく。


 目が醒めるほどに綺麗な赤で染められた襦袢は思いの外女っぽく見えるもので、なけなしの色気を呼び覚まそうとするむず痒さを感じるものであり。


(……何か……芸妓さんみたい……。)

 


 心の着地点が定まらないまま落ち着きなく襦袢を広げると、露わになった黒の下着を隠すように左右を丁寧に合わせ、腰紐を巻いてキュッと結んでみるが。


「あんた、華奢な割に鳩胸なんやなぁ」



 不意に鼓膜に響いた柔らかな声色に碧色の目をパチクリさせた更紗は、反射的に声のした背後へと勢いよく顔を向ける。


 其処にはいつの間にか立ち上がっては、飄々ひょうひょうとした顔つきで自分を見据える山崎が腕組みをして佇んでいるのであり。



「……え…!?…い…いつから…見て……!?」


「大きかったら下品に見えるさかい、さらし巻いた方がええわ」


「……サラシ…?!…そ…そんなの巻いたことないですけど…!?」


「なら、俺が巻いてあげるから中に着てる黒いもん脱いでくれるか」


「……黒いのって……ちょ…無理ですって…!てか、めっちゃ見てるじゃないですか…!」


「……ほんなら、襦袢の上からしたげるさかい、少しは大人しいしてみ」



 紫の風呂敷からひょいと棒状の白い布を取り出した男は、顔を真っ赤にさせて襦袢の合わせを握りしめる女の傍へと近づいていく。


 指に絡めた布の端を女の身体へ襦袢越しに押し当てれば、触れ合うほどの距離で切れ長の目を伏せ、その華奢な腰元を覆うように巻きつけていき。


「よう覚えとき。巻き始めはへその上や。背中の窪みに回した時に上下逆にする。そんで、二巻きしたらお腹から脇の下を通って、胸の位置まで持っていき」



 静かなトーンで囁く声が存外甘いもので、更紗は耳まで赤くなり始めた顔を逸らし唇を噛み締めると、固まったまま具合悪げに俯くのが精一杯であった。


 動く度に至近距離から薫る白檀の香りが懐かしさを覚えるものであったが、襦袢越しとて男の指先が自身の肌に触れるのはこの上ない緊張を煽るものであり。



「……今回は副長の杞憂やなぁ。こないにおぼこやったら…」


「………あ、の……?」


「何でもあらへん。こっちの話しや」



 ばくばくと打ち続ける女の鼓動を抑えるかの如く豊かな胸元をグッと締め上げた山崎は、意味深な微笑を貼り付けたまま、お腹まで巻き下げた白布の端を折り込んでいく。


 腰を屈めて次に男が手に取ったのは白と薄灰からなる縞柄の着物と腰紐であり、更紗の肩へ優しく掛けると慣れた手つきで丈を合わせていき。



「あんたが知ってるかは分からへんけど、日ノ本の美人の条件は、歌川国貞が描く柳腰なんや」


「……やなぎごし…?」


「そう、花顔柳腰かがんりゅうよう。花のように美しい顔に柳の枝のように細くてしなる腰つきの体や。あんたは胸を押さえれば、見栄えがぐんと良くなる」


「…へぇ……そうなんですか」


「まぁ、そんなん言うても、遊郭では敢えて乳房の大きい遊女を好む男も多いけどな」



 サラリと、セクハラまがいの発言を言ってのける男に不快感を持っても可笑しくない筈なのに、その中性的な容姿のせいか嫌らしさの一つさえ感じられない。


 そればかりか、このタイミングなら降って湧いた素朴な疑問を聞き出せるのではないかと、芥子色からしいろの帯を畳に広げる色男をそわそわする心地で見つめるのであり。



「…あの……」


「…うん?」


「…初対面なのにこんな話しで申し訳ないんですけど……下着ってどうしてるんですか…?」


「下着?」


「……あの……胸を覆うのはサラシじゃないですか。じゃあ、……下を覆うのは…?」



 ニュアンスで何とか伝わればと含みを持たせる言葉を二人の間に落とせば、ゆるりと色気の孕んだ眼差しが向けられる。


 薄い唇が微かに綻ぶのと同時に男が踵を返せば、風呂敷の中から赤い何かを抜き出し、再び傍へと歩いてきて。



「これを使うたらええ」


「…これ、布じゃないですか」


「そう、腰巻や」


「……腰巻きって事は、…腰に巻くだけ…?」


「そうや」


「いやいや、下から覗いたら見えるじゃないですか!」


「着物を下から覗くことなんて、そんな無いやろ」


「…そうですけど……何かスースーしてお腹痛くなりそうだし……転けて見えちゃったりしたら……最悪じゃないですか…」


「すぅすぅ?何やよう分からへんけど…あんたの言う下着はこれ違うんか?」


「…はい。あの……パンツというものなんですけど…こんな形の……まさか無いとか!?」



 自分の下腹部に両の手で逆三角形を作って即席パンツを披露した更紗は、それを見据えながら訝しげに首を傾げる男の姿に眩暈を起こしそうになっていた。


 確かに生前の母が着物を纏う際に、俗に言う下着類は身に付けていなかった記憶はあるが、そもそもそれが何故かという疑問すら持ち合わせた事もなく。



「…ぱんつ……聞いた事ないなぁ…」


「……マジですか……えぇぇ……」



 女は受け入れ難い事実を突き付けられた事で、地上から一気に奈落の底へ引きずられるかの如く、その場へと足下から崩れ落ちていく。


「……パンツ1枚で生活って……どうやって………」



 生まれ育った環境で培われた常識を一瞬の内に粉砕された衝撃というのは計り知れないものである。


 今となって思えば、現代の芸妓たちが敢えて下着を身に付けなかった意図も腑に落ちるが、平成生まれの乙女がその慣習をすんなりと受け入れるかと言えば、その答えは言わずもがなで。



「お嬢ちゃん?大丈夫かいな?」


 

 悪戯に鼓膜を揺らす声は、まるで膜が張ったかのようにくぐもって聞こえ、遠く別世界から届いたものと錯覚させる。


 新たな絶望の淵を彷徨う女の頭上に黒い影が差した時、畳に両の手をついたままピクリとも動かない桜色の唇から空気と同化するようなか細い声が漏れて。



「…ちなみに……男の人はどうしてるんですか…?」


「男はふんどしやね。まぁ、町人の中にはそれすらせえへんと、ぶらぶらさせてる輩もいるけども」


「……チョウニン……フンドシ……ブラブラ……」



 一難去ってまた一難、全く馴染みのない単語を呪文のようにブツブツと唱えた更紗は、晴れ渡る大海に放り出され、身一つで大波を超えていかねばならぬ不安にその心を巣食われていた。


 眩いばかりの光の中で広げられた帯の麻の葉模様さえも、天下てんげに張り巡らされた蜘蛛の糸のように見え、逃げ切れぬ恐怖を掻き立てるものであった。

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