壬生の朝

 知らぬうちに唯一の灯火を失っていた八木邸は、天上に輝く月と幾千の星々が手をこまねく森閑とした場所へと変わっていた。


 けれども明けない夜はないように、光を携えた太陽が地上へと赴けば、静寂に包まれていた世界が深い眠りから目覚めていく。



 深い深い闇の底へ沈んでいた女も然り、目蓋の裏にほんの一筋の光が差し込むや否や、見る見るうちにその領域が全身へと広がっていき。


「……う…ん………」



 目を開ける前から思いがけず眩しさを感じた更紗は、おもむろに手の甲で顔を覆うと、ゆっくりと重い目蓋を持ち上げていく。



 指の隙間から見えるのは、光に照らされキラキラと煌めく粒子のような埃と、木目が浮き出た見慣れぬ板張りの天井。


 チュンチュンとさえずる雀の鳴き声が聞こえると同時に、どこからともなく竹刀の鳴る音が微かに鼓膜を揺らしてくれる。



 女はぼうっとしたまま、顔に添えていた手を持ち上げ、射し込んでいた光の輪へとかざしてみるが。


「……夢じゃない………最悪だ……」



 白い手首にくっきりと残る赤く鬱血した縄の痕が、昨夜の悪夢が全て現実であることを生々しく物語ってくれていて。


「……これから……どうやって生きよう……」



 未だ何一つ解決されていない問題を起き抜けの頭で考えたところで、なるようにしかならない未来を憂うだけである。


 兎にも角にも元の時代へ戻ることが先決だが、どこへ行って何をすれば叶うのかが分からない。


 それよりも、一体どんな因果があって幕末に飛ばされてしまったのか、皆目見当もつかないのであり。


「……新撰組と私のルーツって……何よ…」



 匙を投げるように身体を大の字に放り出した更紗は、一晩開け放たれていたらしい障子の先の世界をぼんやり見上げた。


「……のどかだなぁ……」



 気が引けるくらいに晴れ渡った青空が大海に思えてきた時、その水面に波打つ薄白い雲が飛沫しぶきをあげて流れていく。


 悲しいかな、この一ヶ月空を見上げて想いを馳せる心の余裕など微塵もなかったことに気付き、久々に見入った空がこんなにも青く美しいのだと惚けるのだが。



「……はしたねぇナリして、いつまで寝てんだ」


 不意に落とされた低音に、女はビクリと身体を揺らすと、太腿まで捲れ上がっていたスカートを引っ張っていく。



 続き間へ顔を向ければ、忘れたくても忘れられない憎き男と初めて見る黒装束の人間が佇んでいて。


「局長と会う前に、先ずは着替えてもらう」



 冷めた顔つきで見下ろす狂人は朝日を浴びているせいか、昨夜とは似ても似つかぬ別人のような爽やかさを醸し出していた。

 

 結い上げられた豊かな黒髪には光の輪が広がる一方、その肌は女のように白く細面であり。


 切れ長の眼差しは人を惹きつけるもので、微かに眉間を寄せるだけでスッと通った鼻筋がより整って見える。


 胸元を着崩しているその風貌から匂い立つ男の色気に面食らうも、ふつふつと湧き上がる恐怖にあからさまな警戒心を出してしまい。



「山崎、適当に見繕ってやれ」


「御意」


「終わり次第、連れて来い」



 その声を聞くだけで条件反射と言わんばかりに背筋が凍る戦慄を覚え、息が詰まり石のように固まっていってしまう。


 どれだけ懇願したとて縛り上げられた屈辱が脳内を侵せば、ばくばくと心臓が打つたびに手首の傷も焼けるように痛むのだが。



「腕に塗っておけ」


 ヒュ、と投げられた硬い何かが畳の上をゴロゴロと転がり、縁側の敷居へぶつかり反転する。


 歪に止まったのは、はまぐりより一回り小さい黒の縦線が入った白貝で、口は閉じたまま開きそうにもなく。


「……え、…と……塗るって……」



 男の背中に向けて、躊躇いがちに疑問を投げるも振り向くことなく奥の通路へ歩き去ってしまう。


 代わりに近づいて来るのはその背後にいた黒装束の人間であり、自分の横で膝を折ると開かずの貝へと手を伸ばしていき。



「これは膏薬や」


「……こう……やく……?」


「何や、知らんのかいな。膏薬云うんは、傷を治す付け薬の事や。ちょっと手ぇ貸してみ」



 間髪入れず手を掴まれ、驚き強張ってしまうが、その男はクツリと微笑むと貝の口を開いて黄身がかった白い何かを長い指で掬う。


 両手首の赤い縄痕に優しく塗られていくそれは、独特の匂いがするものの、熱を帯びてヒリヒリしていた感覚が和らぐものであった。



「土方副長のご実家は江戸でも名の知れた薬問屋らしいてなぁ。効き目はお墨付きやさかい、そんな怖がらんでもええ」


「………………。」


「でも、二、三日経ってもようならへんのやったら、俺んとこのよう効く薬を出してあげるわ」



 滑らかに話す関西弁に親近感を与えられてしまった更紗は、そわそわする心地を覚えながらそっと視線を持ち上げる。


 至近距離から見た男は思いの外睫毛が長いもので、一見女性と見間違えてしまう程に繊細な横顔を持ち合わせていて。


「俺は山崎烝やまざきすすむと言います。お嬢ちゃんの世話係を賜りました故、どうぞお見知りおきを」


 

 薄い唇がゆるりと弧を描けば、こちらの視線を受け止めるように向けられた桃漆黒色の双眸が柔らかに細められる。


 その何とも言えない絶妙な雰囲気に意味なくどきどきと胸が張り詰めるのであり。


「……あの……市村更紗です……よろしくお願いします……」



 漸く紡げた言葉さえたどたどしくなってしまった更紗は、動揺を悟られたくないと頭を下げて、赤くなり始めた顔を隠していく。


 太陽の光を全身に受けていた身体は、いつも以上に温かなもので、初めて迎えた幕末の朝に新たな感情を生み出してくれるものであった。

 

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