夢幻の夜

 穏やかに晴れ渡る浅葱色の空には、綿菓子のように薄く千切れゆく白雲が広がっていた。


 幼子が幾ら手を伸ばしたところで届くことのない天空は、何千何万年の時を超え、全ての世界を見下ろしている。



「──ここにはね、昔、新撰組というお侍さんが住んでいて、京都の町を悪さから守ろうとしたのよ」


「……しんせんぐみ?どんな人がいてはったん?」



 春の到来を感じさせる心地よい風が吹き込めば、頭上へ舞い散るのは、数え切れないほどの薄紅色の花弁。


 はらり、はらりと目の前へ落ちる桜の花びらに手を差し伸べた少女は、隣を歩む着物姿の女性へと大きな瞳を向けていき。



「どんな人……そうね、局長の近藤勇はとても情に厚い人だったの。皆を平等に暖かくしてくれる太陽のような人だった。

 で、彼を支える副長は性格が正反対な二人が務めていて……一人は仏の副長と呼ばれて町の人からも慕われていたけど、もう一人は鬼の副長なんて呼ばれて、それはもう怖がられてたのよ」


「……ほとけ、と、おに?」


「そう、仏と鬼」



 そっと伸びてきた綺麗な手が頭を優しく撫でたかと思えば、髪に絡みついた花弁を取り除いてくれる。


 その感触に安堵の心地を覚えた少女は、ゆっくりと瞳を閉じて心が満たされていくのを感じていたが────





「……っ……痛…っ…」



 じんじんと痛む上体を起こした更紗は、力なく目蓋を持ち上げ、無限に広がる暗黒を朦朧と眺めていく。



 先ほどまで見ていた美しい桜吹雪は一瞬のうちに消え去り、闇夜には殆ど散ってしまった大樹があるのみ。


 疲労から意識が薄れるたび、自分の重みで縄が手首にきつく食い込み、うつらうつらと夢心地に浸っていた意識が現実へと引き戻される。


「……夢……か…」



 縁側の柱に縛り付けられてからどの位の時が経ったのか見当もつかないが、いつしか天上には青白く輝く月がその存在感を露わにしていた。



 見上げた遠く彼方ではこれまで見たことのない数多の星が煌めく一方、近くでは呼吸をするように樹木から僅かに残る薄紅色の花びらが散っている。


 まるで、己の寿命を心得ているかの如く一つまた一つと舞い散る桜の花唇かしんは、音もなく地面に落ちるとその可憐な色味を失い、闇色へと溶け込んでいて。


「……昔は3月に桜が散っちゃうんだ…」



 夜風の騒めきにも負けてしまいそうに呟いた女は、息を殺し、開け放たれた室内へと視線を這わせていく。


 誰もいなくなった部屋にはかろうじて行灯が一つだけ灯されており、遡って時が動き始めた八木邸を不気味に照らし出していた。



 何とか逃して欲しい一心でありとあらゆる知識を掘り起こした甲斐なく、見つけた一筋の光は呆気なく打ち消されて。


「……仏が誰かは分かんないけど……鬼は絶対……」



 山南が無実の人間を捕らえては隊の沽券に関わるのだと諭したところで、あの土方という男に限っては聞く耳持たず。


 抵抗する間もなく引き摺られるように縁側まで連れて行かれた更紗は、立ったまま太い柱に縛り付けられ、今に至っていた。



 終わりのない絶望を前にすれば、溜め息を零す一秒さえも計り知れない時を刻んでしまっているような、言い知れぬ恐怖に精神が蝕まれていく。


 恐ろしいほどの静けさにばくばくと高鳴る鼓動を抑えきれず、小刻みに打ち震える脚で身体を支えるのがやっとであった。


「……怖い……」



 物心ついた頃から夜になると母がいなくなる毎日が寂しくて、気付けば一人で闇夜を過ごすことが極端に苦手になってしまっていた。


 どうしても独りで夜を越したくない時、幼馴染みの部屋に忍び込んで、眠くなるまで一緒に過ごしていたのが常で。


「……こんな事になるなら…付いてきて貰えば良かった」



 唯一の肉親を失くした今、覚束ない心の拠り所になってくれたのは、昔と変わらず傍に寄り添ってくれた楠木家の人々。


「……今頃…探してくれてるよね。央太なんか徹夜で走り回って……」



 未熟な行いでどれほどの迷惑を掛けたとて、たとえ世界を敵に回しても味方でいてくれる安心感を彼らは与え続けてくれる。


 それでも、生涯会うことが叶わない世界へ飛ばされた状況では、孤独に苛まれる心を救い出してくれる存在など見出せるわけもなく。


「……お母さん……置いてかないで…」



 弦を震わすようにか細い声が唇から漏れれば、熱を持ち始めた目の奥から温かい涙の膜が膨れ上がってくる。


「……誰か……助け…」



 言葉を紡ぐより先に零れた一粒の雫は、足下へ落ちて僅かな輝きを失い、花びらと同じ悲しき運命を辿っていく。


 このまま闇の一部と化してしまいそうな己の危うさを考えれば考えるほど、光の届かない絶望がひたひたと女の胸懐へと迫り来るが。



「───さぞ痛かったろう。私が責任を持って解いてあげるから安心なさい」



 どこからともなく聞こえた野太い声に深淵しんえんを覗き込むかの如く目を凝らせば、月明かりの下、桜の舞う庭先を闊歩する幾つかの人影を捉えた。


 カラコロと音を鳴らしながら高下駄を脱いだ一人の男は、目先の板間に袴履きの足を乗せ、ミシリ、と音を立て縁側へ上がってくる。


「……な…に……」



 涙に濡れた淡褐色の瞳で睨み付けてみたものの、躊躇いなく近づいてきた侍は、自分を見据えるや否や、角ばった強面な顔から想像できない人の良い表情を見せてくれ。



「……まだ子供じゃないか。こんな可愛らしいお嬢さんが間者である訳なかろう」


「…っちゃんは甘えんだよ。素性も知れねぇ女に情けは無用だ」


「こんなに赤くなるまで縛り付けたか……京に来てまで女を泣かさなくてもいいだろう、なぁ、とし


「…俺にとって浪士組の長は芹沢ではなくあんただ。幕臣に取り立てられる前に下手うって殺られたとなったら、故郷にも示しがつかねぇだろうが」


「それは、確かに覚悟を持って送り出してくれた周斎先生には顔向けできんな。只なぁ…今宵の会合においても、まだ間者を送り込まれるほど、誠忠浪士組は当てにされておらんよ」


 

 そっと伸びてきた無骨な手が頭を優しく撫でたかと思えば、柱に幾重にも巻かれていた麻縄を迷うことなく取り除いてくれる。


 長時間、後手に縛られていた感触が解き放たれると、更紗は妙な安堵感で身体からなけなしの力が抜けていき────



「……もう、大丈夫だ。手荒な真似はせぬと約束しよう。総司、そこに布団を敷いてくれるか」


「はい、分かりました。えっと…流石に芹沢先生の布団は不味いですよね?」


「誰のものでも構わんよ。先生は若き浪士を連れ立って暫しの間、大坂へ足を伸ばすそうだ。何か言われた所で私がいつものように謝れば一件落着だろう」



 明るく笑う男の腕の中が温かいもので、女の凍てついた心が溶けるように次から次へと涙が溢れては、張り詰めていた緊張感が緩んでいく。


「……っ……」



 この時代に来て初めて感じた安心感は絶大なもので、嗚咽すらも止められないほど、自分の意識の中に侍の優しさがすっぽりと収まっていた。

 

 例え天上界から地獄の底に垂らされた一本の蜘蛛の糸だったとしても、無力な今の自分には差し込む光を目指して掴むことしか出来ないのであり。


「このまま休みなさい。諸々の事情は明日話してくれれば良い」

 

 

 耳元で囁くその言葉に覇気なく頷いた更紗は、涙のせいで柔らかく霞んで見える、悔しいくらいに綺麗な朧月をぼんやりと見上げていた。



 畳を歩む少年の姿が視界の端から消えていけば、待ち構えていた暗黒の世界に足を踏み入れるように目蓋を下ろしていく。


 ふわりと浮遊した身体を運んでくれる無骨な温もりは、馴染みのないその匂いさえも懐かしさを感じる陽だまりのようなものであった。

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