証なき存在

 夜空は月の光を借りて漆黒の闇から藍色へと、その顔つきを柔らかいものへと変えていた。


 しかしながら、蝋燭と行灯の火だけが不安定に揺らめく八木邸の室内には、月明かりはおろか数多の星の煌めきも決して届くことはなく。



「──では、貴女の言い分として、御母堂ごぼどうの墓参りの後、一人でこの屯所に来たところで気を失い、気づけば桜の木の下に倒れていたと……」


「…はい、そうです。市村の家は京都の祇園にお墓があって……江戸からその為に京都に来て、その墓地で母の納骨を済ませた後、私は一人でここへ訪れたんです……」


「そうでしたか。では、市村殿は何故一人で屯所に参ったのですか?此処はね、貴女のようなうら若き乙女が気軽に足を踏み入れる場所ではないのだよ」


「…ここは……私の時代にはもう誰も住んでなくて……文化財になっているので、見学料を払えば誰でも入れるんです。気軽に……と言われたらその通りかもしれないけど……悪意があって見学に来た訳じゃないし…」



 女がぽつり、ぽつりと角が立たないように言葉を選んで説明したところで、長い年月をかけて積み重なった石のような沈黙が和らぐことはない。


 その重苦しい静寂に水を差すかの如く、遠く彼方で鳥とも獣ともつかぬ鳴き声が、暗闇に潜む人々の鼓膜を惑わせていく。


「……こんな事になるなら……無理して来るんじゃなかった……」



 そろりと顔だけを動かして仄暗い続き間へ視線を這わせた更紗は、締められた障子のその先を乞うように一人じっと見つめていた。


 

 手の内から消えてしまった何かを見つける為に、不確かな自分のルーツを知ろうとここまでやって来たが、まさか時空を超えて自分の目で見る事になるとは、神様は情け容赦ないものである。


 幾らこの時代の人間に正直に話そうとも、浮かべる反応は皆同じ、常識ではあり得ない事を口走る正体不明の女の扱いに困っている様子で。



「……仮に、ですが。貴女の言う事が偽りでなく誠だとしましょう。それを示す証はありますか?」


「……証………私が別の時代から来た証拠って事ですよね……何か……」



 ほんの数時間前まで、母を亡くした喪失感を埋める為に何らかの証を繋げようと躍起になっていた筈なのに、気づけば身の潔白を示す為の証を探す自分の情けない姿に落胆しか覚えない。



「……着ている服が違う事は…証拠になりませんか?」


「それだけでは、何とも」



 山南の返答にがくりと項垂れるように視線を落とした更紗は、縄の這わされた制服を纏う自身の身体を見つめ、その場にうずくまるような耐え難い焦燥を感じていく。


「……どうしよう…」



 スマホや財布、化粧ポーチなどがあれば未来人である事を証明できそうだが、今日に限って荷物は全て鞄の中に入れていた。


 その大切な鞄は不運にも現代へ置き去ってしまったようで、この時代に存在しない制服すら認めて貰えないのであれば、未来から来た事など手持ちのもので証明できる訳もなく。


「……そっか。物じゃなくて……知識で証明すればいいじゃん」



 刹那、胸の奥底に沈んでいた心がふわりと浮遊したかと思えば、水を得た魚のように体内でドクドクと波打ち滑らかに泳ぎ出す。


 

 何も目に見える形で証明しなければならない決まりがある訳ではない。


 今、自分の持てる知識の全てを掘り起こして、彼らしか知り得ない情報を持ち出せば信頼を勝ち取る事が出来るかもしれないと、胸懐に微かな光が灯り始め。


 

「……私の時代に伝わってる新撰組の話しはどうですか?」


「……しんせんぐみというのは、何かな?」


「皆さんがこれから名乗ることになる名前です。どういう感じで付けるかは分からないけど…」


「……これから名乗る事になる名前…ですか…」



 曖昧な顔つきで小首を傾げる山南の仕草を目にした更紗は、これから行う自身の行為にある種の罪悪感と不安を感じずにはいられなかったが。


(……生きる為だもん。大丈夫、伝える情報をちゃんと選べばいい。)



 それは例え時勢に詳しくなくとも歴をかたどる上のおおむねの行く末を理解している存在ゆえ、自分の発言が歴史を変えるような予言となってはならない事。


 

 嘉永六年(1853年)アメリカの軍人ペリーが4隻の黒船で来航し突如、鎖国真っ只中の日本へ開国を要求する大事件が起こる。


 当時の政治権力者であった徳川幕府がやむを得ず受け入れた事で民衆の不満が爆発し、そう遠くない未来に幕府は終焉を迎えるが、その幕府に仕える新撰組は現時点で己の運命を知ることはない。


 

 万が一にでも未来人の発した言葉で歴史が様変わりし、未来で繋がる筈だった人の縁さえ消えて無くなる事でもあれば、己の命を投げ出したとて償いきれるものではなく。



「……えっと……新撰組の局長である近藤勇は……拳骨げんこつが口に入るとか……。あ、沖田さんは甘いものが好きですよね?後、子供も好きだったとか……言ってたはず…」



 咄嗟に口からついで出た言葉の程度の低さに、更紗は我ながら酷いものだと無意識に苦笑いを浮かべてしまう。


 幼馴染である央太が幕末史好きであるが故、時勢に触れない知識となるとどうしても折に話してくれた取るに足らないエピソードばかり思い出すのだが。



「……ご明察。俺が甘味好きだなんて何で分かったんだろう。子供も好きだよ。近藤先生も酔っ払って機嫌が良いと口を開けて拳骨を丸ごと入れるし……」


「悪りいな、総司。次は俺様の番よォ」



 目を丸くし驚きを隠せない表情を浮かべる青年の隣に膝を立て座り込んだ男は、すそから出たすねを露わにしたまま、ニヤリと歯を見せ微笑んでくる。


「別嬪の姉ちゃんよ。天下の左之助様の武勇伝、何か伝わってねぇかい?」



 その名前にピンと来ずとも、至近距離から熱い眼差しで伊達男に見つめられれば、女は必然と目線は定まらず、見る見るうちに身構えてしまうものであり。



「………貴方は……誰ですか…?」


「何だよ…あの世では原田左之助の名は知れ渡ってねぇのか。面白くねぇな…」


「……原田左之助………確か……切腹傷の人…?違ったっけ…」


「……よく知ってんじゃねぇか。ひょっとして…俺の腹を撫で回してたこの間の夜鷹よたかじゃねぇだろうな…?」


「……夜鷹…って、どういう意味ですか…?」


「いや、分かんねぇならいいんだ。こんな上玉に相手して貰ったんなら……こちとら暗がりでも忘れはしねぇからな」



 ガシガシと頭を撫で始める男の馴れ馴れしさに更紗は思わず身を引くが、伸びてきた手に抗うことも出来ず、顔をしかめて不快を現すのが精一杯であった。


「…ちょっ……触らないで…」



 助けを乞うように目先に座る丁髷姿の男性に歪んだ視線を送れば、ふっくらとした白い頬を緩め取り繕った笑顔で小さく頷いてくれ。



「原田君。市村殿は色里の女子おなごではない故、誠忠浪士組の士としてあるまじき行いは慎むように」


「……相変わらず、山南さんは堅えなァ。ちょっとからかっただけじゃねぇかよ。…姉ちゃんよ。次はこの御仁の秘密の一つや二つ、暴いてやろうぜ」



 ゆっくりと頭から手を離し立ち上がったその男は、スタスタと続き間の方へ軽快に歩むと締め切っていた障子に手を掛け、勢いよく開け放つ。


 暗晦あんかいに慣れてきた所為で思いの外、明るい夜空を目に捉えることができた女は、早鐘のように打つ鼓動を抑えながら、懸命に次の思案を巡らせていた。



「……あの……山南さん、」


「はい、何でしょう」


「……違ったらすみません。明里あけさとさんには……?」



 ぽつりと、一人の女性の名を呟けば、男の顔に張り付いていた笑顔が僅かに崩れる。


 縁側から室内へと流れ込む微風が更紗の下ろし髪をさらさらと揺らせば、消え入りそうになる蝋燭の火に手を添えた山南が小さく苦笑を零した。



「……成る程。そう来ますか。良いでしょう。土方君、君はどうしますか?」


「無論、偽りだろう…が。未だ俺の事は聞いちゃいねぇからなァ」



 吹き抜ける夜風を受けるように佇む男は、ゆらりと柱に預けていた身を起こすと、悠然とした足取りで此方へ歩みを進めてくる。


 漆のように黒い長髪が背後で左右に動く度に、月明かりが反射しては絹糸のような美しい艶を見せ、端正な顔立ちをより際立たせていき。



「さて、おめえさんは俺の何を知ってんだ」


「……女性関係が派手だったとか…」


「話しにならねぇな」


「……豪商に生まれたとか何とか…」


「調べりゃ分かる事だ」



 出る杭を打つかの如く端的に落とされる味気ない言葉は、女の胸の内を照らし始めた灯火を即座に消し去る威力を持っていた。


 チラリと見上げた淡褐色の瞳に映るのは、片眉を上げて挑発的に見下ろす冷たい眼差しであり、その闇に打ち勝てなければ、生涯この目に光を宿す事さえ叶わないかもしれない。



「……梅の花…一輪咲いても……何だっけ…」



 過去の記憶を遡る事で思い出したのは、歴史上、冷徹と言われていたある人物の意外な一面を面白可笑しく語る、幼馴染の子供のような笑顔だった。


 脳裏に浮かぶその表情に誘われるように、寂しさを伴って目頭が熱くなってくるが、滲む視界に映る男の顔は、炎に照らされほのかに赤く見えるもので。



「……てめえ、いつ見やがった」


「え、土方さん。もしかしてアレ持ってきたの?」


「総司、てめえは黙ってろ」


「だって、…武士になる俺には俳人の心はいらねぇな、欲しがる女にくれてやるか、なんて偉そうに言って…」



 シュッと空を切る音が頭上を掠めるや否や、目前に座っていた青年が素早く木刀を手に取り、横に構える。


 鞘から抜かれる事なく振り下ろされた刀は木刀へ当たり的外れな音を出すが、その風圧で女の傍にあった蝋燭の火がフッと消えてしまい。



「……俺を斬ろうなんて、三年は早いですよ」


「三年なんざ、直ぐに超してやるさ」


 

 静まり返った部屋に響き渡る男たちの声色は、僅かな殺気を含みつつも武道を嗜む者だけが分かる本気でない遊び心を匂わせるものであった。


 それでも縛られた両の手に汗が滴るような緊張を感じた更紗は、今すぐにでも闇と化した炎のように、この場から消え去りたいと願って止まなかった。

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