救いの光

「お待たせしてしまい、申し訳ない」


 先ほどよりも慎ましく下駄の鳴る音が聞こえたかと思えば、柔らかい橙色の明かりが新たに室内を照らしていく。


 暗がりにいた更紗は瞬時に目を細め、その見えない光の先を注視するが、初めて見る丁髷姿の男性が提灯越しに穏やかな表情を浮かべていて。



「……そうですか、この婦人が」


「呼びつけて悪かったな」


「いや、土方君から声を掛けてくれるとは…光栄なものだよ」


「件について、あんたの意見が聞きたい」


「そうだね。沖田君から大方の経緯いきさつは聞いたけれど……私も少し話してみようか」



 ピンと張り詰めた静寂の水面に波紋を幾重にも作るように、畳を擦る足音がひたひたと近づいてくる。


 更紗は再びどきんどきんと、動悸が打ち始めるのを感じながら、新たな人間の登場に後ろ手にされた指先をぎゅっと握り締め。



「源さん、こっちこっち。俺の隣どうぞ」


「ああ、総司。すまないね、俺は後ろの方でいいよ」



 優しい声と共に現れたのは年長者に見える落ち着いた顔立ちをした男性で、最初に見た穏やかな顔つきの男と同じように月代さかやきを剃り、時代劇で見るような丁髷を結わえていた。


 堂々と目前に座り込んだ少年とは違って控えめにこちらをチラリと見たその後、会釈するように頭を下げるとそのまま部屋の隅へ行き腰を据えていく。



 代わりに更紗の目の前で立ち止まったのは、丸い提灯を手に持つ袴姿の男性であり。


「少し私と語らいませんか?立ったままも何ですからお座りなさい」



 まるで侍のように綺麗な所作でその場に着座するや否や、男はパタパタと障子紙を張った骨組みの部分を押し畳み、その芯に立てられていた蝋燭台ろうそくだいを二人の間へ静かに置く。


 ゆらゆらと女の足下で揺れ出した赤い炎は、どんどんその形を変えては燃え続け、佇んでいた人々の影を壁に映し出していた。



「私は山南敬助やまなみけいすけと申します。故郷ふるさとは陸奥国、仙台藩士の三男坊として生を受けましたので、山南さんなんと、呼んで貰っても構いません。貴女のお好きなように呼びなさい」


 こちらを見つめてニッコリと微笑む山南と名乗る男は、この世界に来てから散々な思いをさせられた男たちとは一線を引く品の良さがあった。



 自分に日本刀を突き付ける狂人、人の命の危機を見ても笑っている変人、別の意味で身の危険を感じさせた変態。


 三者三様に人としての印象は最悪であるが、部屋の隅から此方を眺める男性とたった今、目先で腰に差した刀を抜き取る武士のような男は醸す雰囲気が柔らかいもので。



「私は貴女に危害を加えるつもりはありません。少しばかり素性を教えて貰えませんか。貴女の名や故郷の事を」


 カタリ、と揺らめく蝋燭の横に置かれたのは、鞘に納められたテニスラケットほどの長さのある日本刀。



 顔だけ抜群に良い男と違ってそれを引き抜くことなく手離した意図は、彼が紡いだ言葉通り、自分を敵とみなしていない確固たる証明となった。


 それは更紗にとって見知らぬ時代に飛ばされ、絶体絶命に陥った中で見つけた唯一の救いの手であり。



「……あの……私は……市村更紗…です。生まれたのは未来の京都なんですが……住んでいるのは東京で…」



 全てを信用できる訳でなくとも現状打破の糸口になればと、女が恐る恐る声を出し始めれば、背後に立つ高身長の男が縄を引き座るようにと促してくる。


 肩を押されるままに緩々とその場に腰を落とし前を見据えるが、柔和な笑みを浮かべながら此方をじっと見つめるつぶらな瞳に視線を絡め取られ。



「……そうですか。市村殿、一つ伺いたいのだけれども、貴女の云う京都は今、私たちの居る京の都のことだね。では、とうきょうは一体、何方どちらの国の名ですか?失礼ながら私は存じ上げなくてね…」



 その男は、あたかもこの場にいる人々全員を諭すように懇切丁寧な語り口で言葉を返してくるも、穏やかに微笑むその目の奥が笑っていない事に気づいてしまう。


(……ど……どうしよう……この人も怖いかもしれない……)



 頭から氷水を浴びせられたかの如く全身から血の気がサーっと引いていくが、この場を何とか切り抜けないと明日の命も危ぶまれるものであり。


(…東京で分かって貰えないなら……ほ…他の言い方……その前は……)



 更紗は目の前に置かれた茶鞘の日本刀を見つめながら懸命に思案を巡らせると、間もなく震えそうになる桃色の唇を動かしていた。



「……え…江戸です……。私のいた時代では東京と呼びますが…江戸の事です……。」


「そうですか……江戸の事でしたか。では、江戸の何方に住まいを?」


「……どちらに……えっと……どういう風に言えば…」



 刹那、もの静かに交わされていた二人の会話を割くように投げられた低い声が室内へと響き渡り。


「浅草の辺りか、それとも赤坂門か、牛込門、日本橋……別に品川宿近くや武州寄りの地であっても構わねぇが」



 更紗はおもむろに声のした方へ顔を向けるが、其処には唯一の逃げ道となる玄関への通路をとざすように佇む男が腕組みをして此方を見据えていて。



「……あの……多分、日本橋が一番近いです……」


「奉公か」


「…奉公って…あの……どういう事を聞いて…?」



 歴史の教科書でしか目にしたことのない単語の指す意味を問うたところで、返ってきたのはあからさまな溜め息と、闇より深い漆黒の双眸を細める仕草。


「……良い御身分なこった」



 もっぱら、威圧感しか与えてこない着流し男の切れ長の眼差しは、どんな鋭利な刃物より鋭く、捕らえた獲物を決して逃さぬ美しき獣のようであった。

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