武士の食卓
文久三年 三月三十一日 晴天
壬生村 前川邸にて
開け放たれた襖の奥から、朝の慌ただしさを感じさせる人々の足音が女の目先を通過していた。
どの人間も一瞬だけ足を止めれば、誰かにその存在を問うわけでもなく、また足裏を擦って畳の上を歩んでいく。
何とも言えない空気感に女は顔を上げられず、騒つく胸懐を堪えるように自分の拳を見つめ続けるのみ。
少しの距離を置いて興味深げに投げられる視線は辛いもので、今直ぐにでも消え去りたい衝動に苛まれていき。
(……早く……時間よ過ぎて……。)
更紗は男たちに連れられるまま、八木邸の向かいに建つ町家の大広間に通され、膳の並ぶ末席へ座らされていた。
「そんなに緊張しなくていいよ。皆、意外と良い人だし、もっとこう、気を楽にしてなよ」
不意に軽やかな声が鼓膜を揺らすため、恐る恐る斜向かいを見やれば、ニコリと微笑む沖田がこちらを見据えている。
特に稽古着から着替えはしなかったようだが、乱れていた月代は知らぬ間にきちんと整えられていた。
木刀らしき太い木の棒は見当たらず、手持ち無沙汰な様子を見せていたが、無邪気な子供のように、嬉しげに目下を眺め始めて。
「今朝はお漬物が二種だなんて吉日ですね」
「かぶらの千枚漬けと、壬生菜に塩を揉み込んだやつやな。朝から二種出てきたんは当番で自炊するようになってから初めてとちゃうか」
「そうですよね。もしかして、左之さんがお嬢さんの為にない気を利かせたのかな」
「その割には、進歩の見えへん朝餉やけどなぁ」
相槌を打ちながら隣で袴を捌いて正座する山崎を視界の端に映した更紗は、目の前に置かれた黒膳へと目線を落としていく。
小振りの器に少しずつ盛られているのは、薄く銀杏切りされた真っ白なかぶら漬けと青々とした壬生菜の浅漬けを細かく刻んだもの。
湯気の上る味噌汁には青葱がまぶされ、茶碗目一杯に盛られた白米がキラキラと輝いているのを見るだけで、空腹に耐えかねたお腹がグルルと鳴りそうになるが。
(……漬け物と味噌汁だけなの…?おかず少な……)
男の料理であるがゆえ、青、茶、白しか色味がないことを差し引いても、大人が満足できる朝食でないことは火を見るよりも明らかである。
まして京の町に蔓延る反幕勢力を取り締まり、時にはその身を挺して戦う屈強な武士の集団であるはずなのに、食べているものが余りにも粗末で。
「……あの……この食事で、皆さん足りてるんですか?」
「あれ、お嬢さんお腹減ってるの?白飯と汁物のお代わりはありますよ」
「……いや、そうじゃなくて………そうなんですけど……」
「俺らと違うて生粋のお武家さんとこでも、朝はこれに煮豆が付いてくる位や。でも、これからあんたが作ってくれるんやったら、少しは…」
「お、いたいた!別嬪の姉ちゃんよ!俺らと同じ釜の飯を食うっつうのは、真なのかい?!」
突如、山崎の柔らかな声を掻き消す大声が辺りへと響けば、ドスドスと畳を踏む容赦のない足音が近づいてくる。
「……え、……何……?!」
獲物を狩る虎のように躍動感のある動きを見せる美丈夫の姿を捉えた更紗は、咄嗟に腰を浮かせるもどうしていいか分からず硬直するばかりで。
「……は……原田さん……?」
「おお!もう俺の名を覚えてくれてたか!いやぁ、存外悪い気はしねぇもんだな、なぁ、ぱっつぁん!」
「お前は朝から声がうるせぇんだよ。飯時は一言も喋べんじゃねぇぞ」
「……あ、ぱっつぁん、そこ俺の席……」
「偶にはいいじゃねぇか。ほら、土方さんの席の隣が空いてるぜ」
ふらりと、気怠そうに隣に腰下ろしたその男は、山崎と同じように袴を捌きながらあぐらを掻いていく。
近藤や沖田のように月代を入れてはいないものの、時代劇で見るように丁髷を結わえ、風格は侍そのものであった。
「へぇ……確かに、左之の言う通り、浮世離れしたもんだな。そこいらにいる女とは違うか…」
自分を見据えながら鋭い一重の双眸を上下に這わせた侍は、平坦な声色で何かをぶつぶつと唱えている。
更紗はそれを上手く聞き取ることができず、こちらの出方を伺うような男の仕草に微かな焦燥に似た動揺が胸の中で渦を巻いていき。
「……あの……」
「いや、戯言ゆえ気になさらず。平助、悪りぃが土間から味噌持ってこい。こりゃあ汁物の色じゃねぇ…」
目線を外し顔を伏せた男は、手元の朝食を見るや否や、その表情を歪め芯のある低い声を張り上げる。
その声に反応したのは、狼狽を隠せない更紗と広間へ足を踏み入れたばかりのうら若き青年であり。
「了解!
「おう、すまねぇな」
男からの返答にニコリ、と両八重歯を見せ笑う若者は、一見、その顔立ちや小柄な体格から女の子に見間違うほど愛嬌のあるものであった。
しかしながら、他の男たちと同じように高い位置で髪を結わえている上に、即座に踵を翻し歩んでいく姿が雄々しくも見える。
更紗はその背中を見送りながら、入室してから感じていた違和感を探り当てるように、賑やかに繰り広げられる男たちの日常をこっそり観察していた。
昨夜、出逢った沖田や原田、土方が割と長身であったため気づかなかったが、今の若者のように自分より背の低い男が広間にもちらほらいるようで。
(……確かに私、160センチ以上あるけど……侍ってもっと大きいと思ってた……。)
現代でも女性の平均身長よりは少し高い分類には入るのだが、如何せん剣術を嗜む幼馴染が大柄であったため、そのイメージとのギャップに驚かされていた。
それでも、どの男性も武士を生業としているだけあり、体軸がしっかりして見え、軟弱と思しき人物は一人も見つかるものではなく。
(……あ、あっちの人、食べ始めた。皆が揃うの待たないんだ……)
自分を囲む男たちが歓談しながら食事に手をつけない中、少し離れた位置に着座していた初見の男たちはこちらに声を掛けることなく、料理を口へ運んでいた。
大広間の中にいる男たちを数えると十二、三名ほど、それを大きく分ければ二つのグループに分類できる。
お世辞にも纏まりがあるようには見受けられないばかりか、互いの間を漂う空気感が妙に白々しいもので。
(……意外と良い人って言ってたけど……それってどういう意味だろ……)
眉を潜めて思案を巡らせてみるものの、話し声がピタリと止まったため、更紗も慌てて意識を戻し姿勢を正すが。
「皆、揃っているか。冷めぬうちに頂こう」
擦る足音を幾重にも響かせ現れたのは、先ほどまで井戸で水浴びをしていた男二名と、昨夜見かけた穏やかな顔をしていた男二名。
その背後から急ぎ足で歩いてきた愛らしい青年は、両手に器と瓶を抱えている。
それぞれ定位置があるのか、慣れた様子で膳前へと着座をすれば、右斜め向かいからカタリ、と何かを置く小さな音が聞こえてきて。
「あ、土方さん一人分だけ沢庵持ってきたんですか?」
「だったら、何だ」
「今朝は奮発してお漬物が二種あるんだから、その沢庵の出番はないですよ」
「そうかい、そりゃあ何よりだな」
真正面に腰を下ろした近藤を挟んで交わされる沖田と土方の味気ない会話は、端から見て決して仲良く見えるものではなかった。
寧ろ、妙にちくはぐな会話が何とも馴染みづらいもので、女はせめて憎き土方に関わらないようにと、出来るだけ息を潜めてみるが。
「何、そんなに畏まる事はない。更紗も遠慮なく食べなさい」
笑みを浮かべながら箸を手に取った近藤が、椀を持ち上げ汁物へ口を付ければ、周りの男たちが一斉に箸へと手を伸ばしていく。
まるで師が一番に食すのを全員で待っていたかのように錯覚した更紗は、この時代特有のしきたりを垣間見たような、不思議な心地を胸に感じていた。
(……やっぱり、近藤さんが一番偉いのか。でも、確か他にも局長いたよね……もう暗殺されたのかな……。)
消えてしまったパンフレットの内容で覚えていたもの、それは何度も印字されていた初代局長 芹沢鴨の名と、彼が内部粛清された時にできた鴨居の刀傷痕の写真。
粛清に至るまでの説明書きからも分かるように筆頭局長として近藤より上格に書かれていたその男は、間違いなくこの場にいれば目を引く圧倒的な存在になる。
しかしながら、大広間にいる男たち一人一人を注意深く眺めたところで、目前にいる近藤以上の風格を持つ人間は見つからないのだが。
(……薄………美味しくない……。)
口に含んだ汁物の味のせいで瞬時に現実へと引き戻された更紗は、出汁の味が一切しない味噌汁を一旦、膳へと戻していく。
流れ込んできた青葱の苦い風味だけがやたらと広がりを見せる中、それを消す為に壬生菜の浅漬けを口に放り込んでみるのだが。
「……しょっぱ………」
塩の塊かと思うほどの辛味に慌てて白米を掻き込み、口元を手で覆いながら小さな咳を漏らしていく。
茹でられることなく生のまま塩漬けにされた壬生菜は、辛いだけでなく、青葱を上回る独特の苦味を存分に発揮してくれていて。
「左之、まさか湯掻きもしなかったのか」
「え、湯掻くって何をでい、ぱっつぁんよ」
「えぇ!?左之さん、壬生菜はそのままだと青臭いから茹でる方がいいって、一昨日に話した……」
「…平助もういい。馬鹿を信じて目を離した俺が
「何だよ!てめぇらだってまともなもん作れねぇじゃねぇかよ!!文句ある奴は今直ぐ表に出やがれ!」
呆れ声を掻き消す怒声が人々の鼓膜を叩けば、間もなく男たちの醸す雰囲気にそぐわない静けさが辺りを包み込んでいた。
それぞれの織りなす、器に箸を滑らす音や汁物を啜る音、咀嚼の音などが、耳につくくらい変な緊張感が女を支配すれば、箸の動きが段々と鈍いものに変わっていくが。
「何だ、歳。漬物を食わないのか。かぶら漬けの方は美味いぞ」
「どうにも、淑やかな味に飽きちまってな」
「え、じゃあそのお漬物、俺が貰ってもいい?」
「別に欲しいならくれてやる」
「本当?!やったぁ……土方さんが優しいなんて今日は正真正銘の吉日だなぁ」
敢えて空気を読まないように立ち上がった沖田は、土方の背後から手を出し漬物の小鉢を掴むと、嬉しそうな顔つきで席へと戻っていく。
「だから、きっと天女が降ってきたんですよ」
「俺の所為か」
「そうです、此処に来てから貴方は人が変わったようにむくれてるから」
「生憎、この面は生まれつきだ」
仲が悪そうに見えて実はそうでもないようにも見受けられる絶妙な二人の関係性を発見した更紗は、柔らかに笑ってこちらを見下ろす沖田に微笑み返してみる。
「件のお嬢さんもお代わりしたいんだよね?土方さんのだけどお漬物あるよ」
が、完全に大食いだと勘違いされていると気付いたところで時すでに遅し、上手い弁解も思い付かず、その恥ずかしさからみるみる顔に熱が集まっていき。
「…………大丈夫……大丈夫です…」
確かに昨夜から飲まず食わずできているため、朝食などペロリと平らげられるのだが、大の男を差し置いてお代わりまで望むなど厚かましいのにも程がある。
ましてや男所帯に呼ばれもしない紅一点、厄介者の分際が初日から穀潰しだと認識されるのは、死活問題に直結するのであり。
「俺、朝からあんたほど沢山は食べへんから、千枚漬け欲しいんやったら分けてあげるで」
はんなりと紡がれる言葉に誘われるように隣へと顔を向ければ、滑稽だと言いたげに口の端を持ち上げる山崎の姿が目に映る。
更紗は辛うじて掲げていた女子という名のプライドが、ガラガラと大きな音を立てて崩れ落ちていくのを感じ。
「……ありがとうございます。じゃあ……いただきます…」
垂れた頭を持ち上げ見つめた碧色の瞳の先では、ふっくらと光り輝く白米の粒が、茶碗の中で艶やかに手を
全てを諦めるかの如く女が白ご飯を頬張った時、何処からともなく鳴らされた重厚な鐘の音がゴーンと京の町に響き渡っていた。
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