一か八か
太陽を失った空は刻々とその紫陽花色の表情を濃く暗いものへと変えていく。
ぱちくりと碧色の瞳を瞬いた更紗は、遠くに響く
(……え……今、沖田総司…って……?)
余りに堂々と歴史上の人物の名を
(……何でそんな……分かりきった嘘言うんだろう…)
掴めない
命拾いした安堵から放心状態でその男を見つめるが、色白で整いすぎる位の顔立ちであるがゆえ、無表情を決め込まれると何を考えているのか読み取ることもできず。
「壬生浪士組副長、土方歳三」
淡々とした低い声が視線の先に落とされれば、それを攫うかの如くびゅう、と冷たい春風が傍を通り過ぎてゆく。
下ろしたままの栗色の髪が揺らぐや否や、樹木から散る桜の花弁がその素肌を滑り、地面へと音もなく着地するのであり。
「……えっと……それって…どういうつもりで言って…」
狐に化かされるとはこの事ばかり、冗談など絶対に口にしそうにない無愛想な美丈夫から紡がれた言葉は、耳を疑うものであった。
手に付着していた泥のことなどすっかり忘れてしまっていた更紗は、額に指先を添えるとそのまま無造作に頭を掻いていき。
「……私、……八木邸に来たんだよね…」
首を傾げながら周囲を見渡してみるが、高揚収まらぬ気分のせいで目に映る光景全てに拭いきれない違和感を感じてしまう。
「土方さん、違いますよ。芹沢先生が誠忠浪士組って命名してたじゃないですか。忘れたんですか?」
「忘れちゃいねぇが、あの野郎が人の意見も聞かず勝手に付けただけだろう。無効だ」
「そんな無効だなんて……あれは水戸学の教えに基づいた武士の目指すべき姿だとか云々言ってたじゃないですか。勝手なことしたらまた近藤先生が怒られちゃいますよ…」
「そりゃあ上等じゃねぇか。今度こそ売られた喧嘩は俺が買ってやる。手始めに庭に火でも点けてやるか」
「……まだ本庄宿のこと根に持ってるんですか。いい加減、許してあげたら…」
話し込む男たちの背後に立つ旧八木邸の玄関に散乱するのは、男物の下駄や藁で編んだような小汚い草履ばかりで、靴の一足すら見つけることはできない。
使われていないはずの井戸からは息を吹き返したかの如く水が滴っており、縄を巻きつけた板張りの丸桶が青竹で作られた井戸蓋の上に乗せられており。
「…すみません。今って、何年ですか?」
消え入りそうな声で唐突に呟いた更紗は、脳裏を過ぎったとんでもない思案に体内を巡る血液が凍るような不気味さを感じていた。
「…何?」
「答えて下さい。今日は西暦何年何月何日ですか?平成でもいいですからお願い…」
「……てめえ、何言ってんだ?総司、女の言ってる意味分かるか」
「いや…分かんない…けど。へいせい、って何だか柔らかそうな甘味の名みたいですね」
少なくとも現代を生きる人間とは思えない返答に、女の漠然としていた不安は段々と色濃いものへ変わっていく。
同じ日本にいるはずなのに、まるで透明な鉄壁が立ちはだかっているように錯覚するほど、持ち合わせる知識や価値観が全くと言っていいほど一致しないもので。
「…平成が分からないとか……じゃあ、昭和は?大正は?明治は?!」
「お嬢さん、何を焦ってるか知らないけど。今は弥生の終わりだよ」
「……弥生って……何で3月って言わないんですか?冗談はもういいから……」
混乱する頭を左右に振って嘆いてみるが、真正面にいる男たちが嘘を吐いていないことは、少し前から薄々気づいてはいた。
それでも、
(……ちゃんと考えて……私に何が起こってる……?)
全身に響き渡る早鐘の鼓動に神経を集中させれば、先ほどまで聞こえていた声が遠くなっていき、自然の織り成す音さえも鼓膜には届かなくなっていく。
この地に足を踏み入れた瞬間に感じた落雷のような衝撃を受けてから、目に見える世界の全てが古めかしいものへと変わり果てていて───
「……タイムスリップとか……本気なの……」
懸命に導き出した結論、それは映画の世界だけだと思っていたタイムトラベルという名の時空超えの現象であった。
しかしながら、どうにも騙されている疑念を捨てきれず、一点の希望を胸に背後を振り返っていき。
(………早く……帰らなきゃ……)
後方に立ちはだかる長屋門を抜ければ、元いた平成の時代へ戻ることができ、全てをなかったことに出来るかもしれない。
いや、そもそも時代劇の撮影に紛れ込んでしまっただけで、外に出れば観光客で溢れた和菓子屋が目に入り、あっという間に四条通りへと出られるはずで。
(……門を……出なきゃ……!)
緩々と立ち上がった更紗は、気付けば地面を蹴り上げ、躊躇いなく後方へと駆け出していた。
門を潜ったところで人の気配はなかったが、助けを求めて目的の道へとがむしゃらに走っていく。
「てめえ、逃げる気か!手向かえば斬り捨てるぞ!!」
後ろから響き渡る怒声に気を置く暇もないほど焦っていた更紗は、足が
刹那、町家が立ち並んでいた道を曲がり、こちらへ身体を向ける体格の良い男性が、視界に飛び込んできて。
「左之!!その女を力尽くで止めろ!!!」
「えっ!?お、俺ぇっ!?」
放たれた声が遠くに聞こえる代わりにどんどん距離が近づく大柄の男は、訳のわからない顔つきのまま手に握る長い棒を真横に持ち変えて。
「……な…何で女が屯所にいんだァ?!」
まるで鳩が豆鉄砲を食ったような、驚きに満ちた顔を一切見ることなく、更紗は反射的に身を屈めその棒の下を潜り抜けていく。
勢いそのままに路地を駆け抜けようと八木邸の前を曲がった瞬間、碧色の瞳に映し出された光景に、動いていた足がゆっくり止まり。
「……う…そ…でしょ……」
そこには、賑わいを見せていた和菓子店や一方通行であった細い道はなく、古い木造の建物がぽつり、ぽつりと点在する田園地帯が広がっていた。
視界を遮る大きな建物は一切なく、群青色へと変貌を遂げる空はいつもより広く、輝き始めた星はより明るく感じるものである。
既に暗くなりつつある足元はコンクリート舗装でないばかりか、革靴を擦る度に土埃が舞う畦道に成り果てていて。
「……やだ……何で……」
慌てて後ろを振り返り、八木邸の門に視線を這わせるが、誠の文字が書かれた旗も白と水色の垂れ幕も掲げられておらず。
「……ど……どうしよう……私……」
性急に襲われる激しい動悸に気が動転して言葉が見つからない女は、真っ白になった頭を小刻みに振りながら、声を張り上げていた。
「……ここは……どこ…?!どうやったら…帰れるの…?!」
今現在置かれた状況下で唯一、確実に言えることは、ここは自分の生まれ育った平成の日本ではないこと。
全身の力がふわりと抜けた更紗は、打ち震え始めた足で身体を支えることが出来ず、絶望に背中を押されたように、その場へと崩れ落ちた。
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