花散る都
文久三年 三月三十日 春霞み
壬生村 八木邸にて
ズキズキと激しく痛む頭を庇うように、横たわる女は必死に上体を起こそうとしていた。
「……っ…」
薄ら目を開けても視界がぼやけて見えず、声を出そうとしたところで口が開かない。
地面についた手の平から、ひんやりとした土の感触と合わせて湿る苔の冷たさを感じ。
「……い……た…ぁ…」
一体、何が起こったのかは理解できないが、それは一瞬の出来事のように思えた。
大きな幕が掛かった門を潜った瞬間、頭上から足下へと閃光が突き抜ける衝撃的な感覚に襲われ。
(……わ…た……し……生き……て…?)
目の前が光で満ちる直前、ぐらりと空間が歪んだ錯覚は妙に生々しいものであった。
ただ言えることは、強大な力に弾き飛ばされたかの如く、気付けば地上に寝転がっていた不自然な現実で。
「女が一人で何してんだ」
意識が
徐々に開けてきた視界に映るのは、桜の花びらが舞い散る景色に溶け込む、着流し姿の男性とその後ろに佇む剣道着を纏った少年。
まるで映画のワンシーンを切り取ったような非現実的な情景を前に、気の抜けた恍惚の溜息が小さく溢れる。
「女だてらに間者とはやるじゃねぇか」
こちらを見下ろす切れ長の双眸がやけに冷たいもので、更紗は意味の分からない単語を放つ男性を
(……カン…ジャ?……何のことを…言ってるんだろう…?)
二人の間を隔てるように、はらり、はらりと薄紅色の花弁が落ちていくが、視界の端に映る樹木には既に緑が芽吹き、花は何故か殆ど地面で朽ちていた。
(……あれ……桜……散ってる……)
満開まであと僅かだった春真っ盛りの風景が、いつの間にか葉桜が目につく、新緑の季節に変わっている。
女は妙な違和感を覚え、男からパッと目を逸らすと四方八方を見渡していき。
(……何か……さっきと…違う……?)
春特有の、どこか不安定に感じる天候のせいで、頭上で渦を巻いていた暗雲は千切れ、山の端へと消えていた。
ぼんやりと霞みがかっていた夕空も、いつの間にか綺麗な茜色が射し、日の暮れを匂わせており。
「土方さん怖いから!怯えてるじゃないですか。きっと異人ですよ。髪も下ろして変だし、言葉も分かんないみたいだし」
刹那、男性の背後に立っていた青年が、のんびり歩み寄ったかと思えば、目の前にしゃがみ込んでいき。
「硝子玉みたいな目……変わった着物だなぁ」
初対面にも拘らず、手の届く距離からまじまじと自分を眺める無邪気さに、更紗は慌てて座ったまま後退っていく。
額から綺麗に剃り上げられた頭の後ろには結わえ垂らされた髪が見え、
どう見ても地毛であることに戸惑いを覚えるも、不意に見せた鋭い眼差しが背筋をぞくりと冷え上がらせる。
(……この人……多分、強い……)
手に持つ使い古された木の棒は、竹刀や木刀とは比べ物にならないほど太く、その痛み具合から何に使用しているか想像するのも恐怖である。
「総司、油断すんじゃねぇぞ。いきなり斬りかかってきたらどうすんだ」
「その時はこれを振り下ろすまでですよ。でも、震えてるし間者ではなさそうな……それにしても別嬪さんだなぁ、言葉が通じれば良かったのに…」
「ほう、女に興味を示さねぇおめえが気にかけるとは、面白ぇ事もあるもんだ」
「別に気にかけてなんか……土方さんと違ってどうこうしようなんか一寸も考えませんからね」
むすりと不貞腐れた顔つきになる少年を一瞥した男は、ふ、と口元を緩めこれまで見せなかった微笑を浮かべる。
「そうかい、そりゃあ悪かったな」
柔らかな陽射しを背に受けた男の表情が一転して優しいものに見えた更紗は、固まっていた唇を少しずつ動かしていき。
「…あ…の……私、日本語、話せます……」
刹那、着流しの男がカチャリと妙な音を立て腰に差す刀へ手をかける。
「言葉は通じるようだな」
「……え、?」
光の中から現れたのは豊かな黒髪を一つに結わえた、誰もが見惚れる顔立ちをした男だったが、その眼差しは冷ややかに細められ。
「此処で何をしてやがった」
「……見学に…来たんですけど…」
「何処か分かって言ってんのか」
「……八木邸ですよね?…新撰組の屯所の」
問われたまま答えただけだったが、男の顔が険しいものに変わっていく。
間違ったことは何一つ伝えてないのに、相手の殺気が収まるどころか急激に増すため、否応なしに冷や汗が滲み出てくる。
「……あの……私…何か悪いこと……」
緊迫した空気に思わず怯んだ更紗は、ばくばく打つ胸に手を添え、自分の置かれた状況を把握しようとして。
(……これは……撮影だ…)
異様な光景ではあるが時代劇に立ち入ってしまい、迷惑を掛けている可能性はある。
凝視すれば二人ともなかなかのイケメンであり、纏う雰囲気から時代劇専属の俳優なのだろうと結論付け。
「……大事な撮影を邪魔してしまい、すみませんでした。すぐ帰りますので許して下さい…」
更紗は申し訳なさそうに、手の平に付いた土を払って立ち上がれば、待ち構えていた一人の男が間合いを詰めてくる。
「……あの、…まだ何か……」
視界の端に見切れる何かが首元へスッと当てられたため、ゆっくりと視線を這わせた刹那。
「……っ!!」
少しでも動こうものなら、その光がどのような弧を描くのかは女でも容易に判断できるものであった。
当てられた刀の光輝が顔へ反射し、奇しくも長物の中に恐怖に引きつる自分の顔が細く映り込んでいた。
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