老馬と共に海岸を駆ける
かつての家族をひっそりと葬ると、まみちがねは何事もなかったかのように屋敷に入らねばならなかった。かつて自分の住んだ家で、いずれは自分のものになるかもしれなかった場所である。まみちがねにはこの屋敷について権利があった。彼はもう、釜炊きの灰坊主ではなくなったのである。
だが、居心地は悪かった。怖い思いをした後に主人が急に変わり、やってきたのはかつて追い出された女の息子である。使用人たちの表情には、怯えと不信の色がありありと見えた。
いたたまれない理由はそれだけではない。背中にしがみついたまま、意気揚々としている母親のせいである。かつて石持て追われた身である母親は、知った顔の使用人が来るといやらしい声でケタケタ笑った。もちろん姿は見えないが、まみちがねの声には聞こえない。主とすれ違うたびにあの女の嘲笑がどこからともなく聞こえるというので、使用人たちは誰もがまみちがねを気味悪がった。
やがて姫からの使いが、二つ目の難題を持ってやってきた。馬比べに勝てと言うのである。この馬比べというのがひどい。国中の馬という馬を集めて、この島の山や川を何日もかけて残らず越えさせるのである。こんなことをさせたら、いかなる駿馬でもその日のうちに死んでしまう。まみちがねとしては、幼い頃から可愛がってきた屋敷の馬にそんな思いをさせるのはためらわれた。それでも、招きに応じて馬比べをしなければ首を斬られてしまう。まみちがねは一日の間に何度も厩に足を運んではつぶやいた。
「黒い馬にしようか、栗毛の馬にしようか。黒い馬は夜道に強かろうが昼は暑さに弱い。栗毛の馬は暑さに強かろうが夜目が利くまい」
白馬がぶるると声を立てた。まみちがねはなおもつぶやく。
「葦毛にしようか斑の馬にしようか。葦毛の馬は山をよく駆けようが川は渡れまい。斑の馬は川をよく渡ろうが山は越えられまい」
白馬はひひんといなないた。まみちがねはその綱を解いて厩を出るなり、蔵もおかずにその背にひらりと飛び乗った。
「白馬にしようぞ、白馬にしよう。老いたりとはいえ、幼かりし私の苦しみも悲しみも、この馬がいちばん良く知っている」
それっと叫ぶと白馬は再び高くいななき、屋敷の門を飛び出した。
城に駆け込んだまみちがねの白い老馬を、皆が笑った。姫の立つ楼の前に集った者は、老いも若きも、富める者も貧しい者も、ある者はとっておきの、ある者はなけなしの財産をはたいて手に入れた駿馬を牽いていた。
姫も笑った。
「何じゃ、そなたの馬には鞍もないのか」
まみちがねも、背を曲げて馬のたてがみにしがみついた姿勢のまま、顔を上げて笑った。
「何だ、こやつ等は鞍が無ければ馬にも乗れんのか」
姫の命令で、美しく刺繍された鞍が下された。姫は言う。
「鞍のせいで負けた者の首を斬っても寝覚めが悪いものじゃからな」
そういったわけで、突如として公正公平に目覚めた姫のこだわりにより、その晩は老いも若きも、富める者も貧しい者も、共に自らの馬を繋いだ厩に寝ることになった。誰もが仰向けに寝るのに、まみちがねは母が苦しがるのでうつ伏せになって寝なければならない。鼻や口に当たる麦藁の匂いがちくちく痛い。眠れないでいると、背中の母親が囁いた。
「起きよ。起きて馬酔木の葉を取って来い」
まみちがねは答えた。
「私は寝る。寝て明日の朝は誰よりも早く馬に飼葉をやる」
母親は愚痴った。
「行く末を案じることがなくなったら、冥土へ行ってやると言うたろうが」
麦藁の匂いは痛かったが、まみちがねは深い眠りについた。目覚めると、体の下には莚がひいてあった。
白馬に飼葉をやっていると、外が騒がしくなった。厩に忍び込んで飼葉に馬酔木を混ぜようとした者がいるという。慌てて飼い葉桶の中を改めたが、そんなものは無かった。白馬も平然としていた。背中の母に、何かしたかと尋ねたが、何も知らぬと答えてそれきりだった。
さて、馬比べに挑むものは再び姫の前に集められ、銅鑼の音と共に城を飛び出した。駿馬たちは速かった。まみちがねはあっという間にしんがりについた。まみちがねは馬に囁く。
「慌てず駆けよ。やがて誰もがまみちがねが白馬を見よう」
しばらく駆けると、まみちがねは先を行く馬の群れに追いついた。どの馬も足踏みしていて動かない。見れば浅い川のあちこちに、逆茂木がこれ見よがしに植えてある。主の鞭にそろそろと歩き出す馬もあったが、まみちがねはその人馬の背後から大音声を上げて一喝した。
「見よや見よや、これぞまみちがねが老いたる白馬ぞ!」
白馬は川に駆け込むなり、ひらりひらりと逆茂木を飛び越えて向こう岸に渡った。
またしばらく駆けると、道は山道となり、目の前には高く高く聳える岩場が現れた。背後からは何とか川を渡りきった馬の蹄の音が聞こえてくる。まみちがねは背後の人馬にも聞こえるよう、大音声を上げて吼えた。
「見よや見よや、これぞまみちがねが老いたる白馬ぞ!」
白馬は高らかにいななくや、若鹿のようにあちらの大岩、こちらの小岩にひらりひらりと舞い移り、今にも崩れそうな斜面を駆け上った。
さらに駆けて駆けて駆け続けると、岩の多い山道は深い谷で途切れた。谷間の向こう側にも道があるが、あちらとこちらを結ぶ吊橋は落とされて、目も眩むような谷底に向けて垂れ下がっていた。背後からは、やっとの思いで岩場を登ってきた馬の蹄の音が聞こえてくる。まみちがねは白馬を数歩下がらせ、馬の首にしがみついたままの姿勢で天にも届けとばかりに叫んだ。
「見よや見よや、これぞまみちがねが老いたる白馬ぞ!」
白馬は前足を高々と上げるなり、地面を蹴って疾走した。まみちがねの身体は馬身と共に天高く舞い上がり、谷間を越えた向こう側に舞い降りた。なおも白馬は走る。馬の背中にへばりついたまみちがねの横を、島の山河が飛びすぎていく。白馬は坂を駆け下り、草原を走り抜け、光る海辺を疾駆した。追ってくる蹄の音は、もうなかった。
日が沈む頃には、まみちがねは城の門をくぐって姫の前に立っていた。楼から見下ろす姫は言った。
「軽業師とそう変わらぬのう」
馬から下りたまみちがねは、背中を向けて楼の中に消える姫を、腰を曲げたまま上目遣いに睨んだ。
白馬を引いて厩へ行く途中で、地面に打ち込まれた杭に縛り付けられたぬちんだからを見た。服を引きむしられたあとから覗く肌には赤黒く乾いた血がへばりつき、青いあざが浮かんでいた。むき出しの足は傷だらけで、腿には股からの血が流れていた。城の使用人たちがひそひそ話すには、何のつもりか分からないが朝早く厩に忍び込み、飼葉に馬酔木を混ぜようとしたらしいということだった。
厩に繋いだ白馬の顔を、まみちがねは長いこと撫でていた。白馬も、嬉しげに目を閉じていた。背中で母親が面白くなさそうにつぶやいた。
「どこまで頼りになるかのう、その老いぼれ馬が」
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