僕と人形と私

東川善通

第1話

 最初にあったのは強い衝撃。ふわりと浮きあがる躰。

 そして、青い空に冷たい地面。私が感じたそれが全て。

 音は……拒絶した。何も聞きたくなかった。


 夢の中、赤い着物におかっぱ頭の女の子はいつも、何かするわけでもなく、雨も降っていないのに紺の番傘をくるくる回しながら歩いている。カランコロンと足駄を鳴らしながら歩く。たとえ、夢がビルに囲まれた世界であったとしても、彼女は気にすることもなく、歩いているんだ。

「君は誰?」

「あたいは○○だよ。アンタ、忘れたのかい?」

 勇気を出して話しかけた僕に当たり前のように答える彼女。だけど、僕には名前がわからなかった。名前のところだけが綺麗に雑音になっていたから聞き取ることができなかった。しかし、彼女はまるで僕を知っているようだったし、僕も彼女を知っているというような言い方だった。

 彼女は黙ってしまった僕をジッと見ていたけど、すぐに興味をなくしたのか、またカランコロンと足駄を鳴らしながら、去っていく。彼女が何者なのかは分からない。でも、なんだか、彼女のことを知っているようなそんな感じがした。遠い昔に見た何かだったような、そんな感じだ。懐かしいそんな雰囲気を持っていた。

「♪君は誰? あたいは○○さ。アンタも知ってるはずだよ。だって、アンタがつけた名前なんだから♪」

 カランコロンと足駄を鳴らし、クルクルと番傘を回し、彼女はそう歌いながら、僕の前から消えた。彼女の歌の内容はさっき僕が聞いたことだった。その歌には不思議な歌詞があった。「アンタがつけた名前」、僕は誰かに名前をつけたことなんてない。だからこそ、余計に彼女のことが不思議でしかたなくなった。

 でも、夢はいつもそこで終わる。同じ夢を何度見たことか。必ず、彼女のことを追求する前に目が覚めて、ぼんやりとしか内容は覚えていない。そして、いつもと変わらない日常が始まる。

勇生ゆう、いつまで寝てるの!?」

「……起きてるって」

 夢のことなんて忘れて、起き上がる。母さんの声で僕の一日がいつも始まるから、めんどくさくて敵わない。ずっと、寝ていたくても、無理矢理にでも起こされるんだから、休日だったら堪ったもんじゃない。

「いい加減に降りてこないと怒るわよ!」

「起きてるって言ってんじゃん」

 全く、毎回毎回同じ会話をやるって、よほど飽きないんだろうな。僕はもう飽きてるっていうのに……。まあ、それも仕方ないことなのかもしれないけど。

 僕はだるい体に鞭打って、制服に着替える。水色のYシャツに深緑と黒の縞々模様のネクタイを締め、紺のブレザーを着る。ズボンは緑系の格子状のものを履く。デザインはどうでもいいのだが、着心地がいいから案外気に入っていたりする。

 着替えを済ませるとさっさとリビングに向かう。のんびりやっていたら、また母さんから声がかかるだろうし、な。僕はそれを何としても避けたい。母さんの声ほど何度も同じことを聞きたいとは思わないんだよな。父さんと話しているときは、そんなことはないんだけど、母さんとはさっさと話を終わらせたいと思ってしまう。

「おはよう。ご飯、何にするの?」

「う~ん、昨日の晩のコロッケ、余ってたよね。僕、それでいい」

「そう、わかった」

 母さんは僕に台所からそう尋ねて、僕の答えを聞くとさっさと昨日の晩のコロッケを温め始めた。そして、僕の目の前には先にご飯と箸、お茶が置かれる。ピピピッとレンジがなると中からコロッケを出して、僕の前に置く。僕はそれを何もいうことなく食べる。その間に母さんは弟たちを起こしに二階に行ってしまった。僕のときとだいぶ、対応が違うじゃないか。

定志のぶたか真砂まさ、早く起きなさい。学校に遅れるわよ」

「まだ、大丈夫だって」

「もう少し、寝たいよぉ」

「今日の朝飯、何?」

 母さんの声と寝惚けた弟たちの声が聞こえてくる。まあ、一人は食欲旺盛だから、睡眠よりもご飯なんだろうけどさ。だとしても、やっぱり対応が違いすぎる。僕の場合は下から苛立った声をかけてくるだけだというのに、弟たちのところにはわざわざ起こしに行くとか。プライバシーとかを考えてくれる親というわけではないから、どういう意図があるのかは全く分からない。コロッケを少し口に含んで、ご飯をプラスで入れる。ハムスターが餌を頬袋に入れている状態みたいな感じだ。そんなことをやりながら、僕は弟たちが来るまでにさっさと朝食を済ませてしまう。あんまり、会いたいと思わないから特にそういうことになるんだろうな。

「いってきます」

「あれぇ、勇生、もう行くんだ」

「いってらっさい」

「気をつけてね」

「忘れものないんでしょうね」

「はいはい、ありませんよ。んじゃ」

 僕はそう言って鞄を手に取るとさっさと靴を履いて、家から出た。すると、僕の目の前には丁度歩いていた幼馴染である菅田すがた輝喜こうきと目があった。

 輝喜は体格がいいとは言わないけど、身長はある方だ。そして、男のくせに茶髪がかった髪はさらさら。恰好いいか、よくないかで聞かれると、限りなく前者に入る。女子にもモテモテで羨ましい限りだ。

「よっ、おはよ」

「おはよう。輝喜も今から?」

「制服で歩いてんだから、そうに決まってんだろ。ついでに一緒に行くか?」

「ついでだから、行く」

 門を開けて、輝喜の隣を歩く。歩きながら、部活の事や今日の授業の宿題について話す。他愛もない話だけど、僕にとってはすごくその時間が一日で一番楽しい。

「あ~、今日の英語の宿題、やってねぇや」

「どうせ、ゲームでもやってたんでしょ。全く、輝喜ってば、バカだよな」

「うっせーよ。よし、勇生、お前のを見せろ」

「えー、やだよ」

 僕の肩に手を置いて、そう言ってきたけど、僕は断る。だけど、輝喜は諦めずに何度もそういって頼んできた。でも、僕は折れるわけにはいかない。なぜかというと簡単なことだ。輝喜が余計にバカになりそうで嫌だからだ。

「相変わらず気持ち悪いくらいに二人は仲いいね」

「あ、和音! おはよう」

「よっス」

 声がする方を見れば、友人である雨森あまもり和音かずねが呆れ顔で僕と輝喜を見ていた。うん、その気持ち、わからないでもない。

ちなみに和音の制服は僕ら男子と大してあまり変わらない。ただ、ネクタイがリボンに、ズボンがスカートだというくらいしか、違いはない。だけど、女子の方が男子よりも校則は厳しい。襟元まで髪が伸びてたら、括るか切らないといけないとか、スカートの丈は膝下でないといけないからな。まあ、和音は髪を括ってる上に眼鏡がある分、いくらかごまかしが効くらしい。男もまぁ、めんどくさいっていったらめんどくさいんだけど。髭が生えてるとか、後ろ髪が襟にかかってるとか、横髪が耳にかかってるとか、言いだしたらきりがない。

「おはよう。で、今日はどうしたの?」

「輝喜が英語の宿題をしてないから、僕に見せてってしつこいくらい頼んでくるんだよ」

「あぁ、そういえば、そんな宿題も出てたわね。確か、英語の粕谷かしわや先生って宿題やってこなかった人には授業が終わったら、かなりの量の宿題を出すって聞いたことあるけど」

 僕と輝喜の仲がいいということを知っている和音は僕の答えに嫌な情報を輝喜にもたらした。うん、お願いだから、そんなことを今、輝喜に言わないでほしかったよ。どうなるか、長い付き合いなんだから、わかってると思うんだけどな。

 輝喜はその情報を得て、僕の肩をしっかり掴んだ。顔は若干引き攣っているように見えるのは気のせいじゃないだろうな。

「勇生、頼む。見せてくれ」

「輝喜には丁度、いいんじゃない? そのくらいがさ」

「お前も少しは俺のことを助けないといけないなぁ、みたいなことを思ってるんだろ? だからさ、俺を助けると思って」

 そこから無駄な攻防が始まる。情報提供者である和音はそれを楽しそうに見ているから、助けてほしいと正直、何度思うことか。まあ、助けてと言ったところで和音が助けてくれるとは思えないんだけど……。そうだとしても、人間、身近な人に頼りたくなるんだよな。

 そんなことをやっていると学校に到着する。だけど、学校に到着しても攻防は終わらない。それは、僕と輝喜、和音はクラスメイトだから。教室に到着しても、終わることはない。ちなみに僕の席は後ろの方で僕の席の前には和音の席があって、目が悪いとか言って前の方に輝喜の席がある。うん、眼鏡かコンタクトをすればいいと思う。

「なあ、勇生。一生のお願いだからさ」

「輝喜の一生は何回あるんだよ! もう何回も一生のお願いだからって宿題とか見せてたよ」

「英語だけ、英語だけ助けてくれよ。今度からは英語以外は頼んねぇからさ」

「英語は頼るのね」

 僕の席まで来て、まだまだ諦めない輝喜の言葉に密かに和音がツッコむ。僕もそこはツッコミを入れたかったから分かるんだけどな。それでも、そう言われて一度はたじろいだけど、まだ諦めない。諦めて欲しいんだけどな。

「てか、僕がダメなら和音にでもお願いしたらいいのに」

「勇生、お前はわかってねぇな。雨森になんて頼んだら、一蹴されるに決まってるだろ」

「……そう。でも、僕は貸さないからね」

「そう言わずに貸してくれって。俺の生命がかかってんだって」

 土下座でもするかのような勢いで言ってくるけど、決して土下座はしない輝喜。だから、土下座でもしたら、貨さなくもないと思っていたりもする。とはいっても、そんなことに気づく様子もない輝喜はただただ必死に僕にお願いをするだけ。つーか、英語の宿題ごときで生命の危機に瀕するなんてどんだけなんだ。

「僕以外にでも、借りたらいいじゃないか」

「お前、バカか。他の奴の頭なんて信頼できるか! だから、信頼のできる勇生に頼んでんだぞ」

「ただ単に間違えたくないだけでしょ。人に借りておきながら、成績優秀でいたいって、協力できないね。いっそ、順位を落とせばいいよ」

「お前なぁ、幼馴染にそんな酷いことを言うのか。よし、お前も道づれで順位を落としてやる」

「はあ? ふざけんなよ。僕は順位を落としたくないんだから、落ちるなら輝喜だけ落ちとけ」

 偉そうに言う輝喜の順位はクラスで十位内に入ってる。なのに、宿題をやらないだなんて……。てか、クラスメイトの頭が信頼できないって、和音みたいに輝喜よりも頭がいい人だっているのに、輝喜よりも順位が下の僕に頼るなんてそっちの方がバカって言いたくなるよ。

「……これ以上、勇生を困らされるのは嫌だから、信・頼・が・で・き・な・い・かもしれないけど私が貸してあげる」

輝喜に見せるようにパシッと僕の机に置かれたのは今回の英語の宿題だった。輝喜は非常に渋い顔をしてそれを受け取る。

「……おい、雨森」

「なに? 貸してあげるのに菅田は礼もないんだ」

「これ、全部間違えてるじゃねぇか。これだったら、礼なんて言えるか」

「へぇ、気づくんだ。人に借りる程度だから、気づかないと思ってたのにな」

「このヤロー」

 うわぁ、ここから今すぐ逃げたいよ、僕。どうしてこの二人はいつもいがみ合うんだろうか。それが、不思議でならないよ。

「ちなみに本物はこっち♪」

「このためだけにコピーしてやがったな」

「当たり前じゃない。菅田にはコピーの方が丁度いいのよ」

「うわっ、うわっ、お前、人間としてどうなんだよ。最悪だな」

「人のモノを借りようとしているアンタに言われたくないわね」

 僕は輝喜に退路を塞がれてるから逃げることができない。早く輝喜と和音がどっかに行ってくれることを祈ってよう。だって、僕が言っても輝喜らはどっかに行かないだろうしね。てか、簡単なことがあったよ。すっかり、忘れてた。

「輝喜、先生が来たよ」

「何!! さっさと戻らねェと」

 そういって、輝喜は自分の席に戻って行った。だが、戻る際に見せつけていた和音の本物のプリントをサッと盗っていっていた。和音はそれにすぐ気付くことがなかったが、一拍置いて輝喜に向かって叫んだ。

「人のとってんじゃないわよ!!」

「うっせー、成績のためだから、お前ので我慢してやるんだ。ありがたく思え」

「誰が思うもんですか」

 席が離れているから余計に二人の会話は教室中に響く。ただ、先生が来てないおかげで二人が怒られることはない。僕はそんな二人の会話をBGMに窓の外を眺めた。

『……勇生』

 ふと、僕を呼ぶ声が聞こえた。しかも、その声は輝喜の声だったけど、輝喜は今、和音と言い合っている。空耳かなと思いながら、前を見ると、先生が来たらしく、輝喜は出席簿で頭を叩かれていた。まあ、あれだけ騒がしくしてたら、当たり前か。しかし、あの声ってなんだったんだろう。やっぱり、空耳かな。

「今日は転校生を紹介するぞ」

「「おぉ」」

 先生の声に教室がざわめき立つ。そりゃそうだ。転校生が来るっていう噂とかも流れていなかったのに突然、やってくるとなると。だけど、転校生というのは男であろうと女であろうとどうしても気になるものだよな。

 先生の声を合図に戸の向こうから、紺のセーラー服を着た女子が入ってきた。その子は凄く不思議な雰囲気を纏っていた。神々しいというわけでもないけど、なぜか彼女を見つめてしまう。歩くたびに長い黒い髪は揺れて、可愛らしい。

「さ、自己紹介を」

「はい、あたいは日本はるなり千代ちよと言います。どうぞ、よろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げた日本さんは人形のようで可愛らしかった。皆もそう思っているのか教室内の雰囲気がぽやんと柔らかかった。

――千代ちゃん、千代ちゃん、本当に可愛いね。

 僕の頭の中に何やら声が響く。今度は輝喜の声ではなく、女の子の声。だけど、その声には全く心当たりなんてない。なのになんで、僕の頭の中に響くんだよ。

 ふとした瞬間、目の前が暗くなり、女の子が声をかけているものが僕の脳内に映った。女の子の顔は見えず、おかっぱの女の子の人形だけが見えた。

「勇生!!」

 僕のことを強く呼ぶ声がして、目の前が明るくなった。

「え、何?」

 突然のことだったから、何がどうなっているのか僕にはわからなかったが、和音は凄く心配そうな表情をしていた。

「勇生、途中からおかしかったわよ。どうしたの?」

「ん~、どうもないよ」

「気分とか悪かったら、保健室に行ってきなさい。そう言うのは先生に言っておいてあげるから」

「うん、ありがと。でも、大丈夫だって」

 どうやら、僕が白昼夢を見ている間にSHRは終わっていたみたいで、転校生の日本さんは僕の席の後ろに作られた席に座っていた。なんで、和音に声をかけられるまで気付けなかったんだろう、そんなことを思いながら、後ろを振り返って日本さんに挨拶をした。

「僕、大湊おおなみ勇生、よろしくね」

「あたいはアンタと慣れ合うつもりはない」

 握手でもしようと思って差しだした手をパンッと叩くと、そんなことを言って日本さんは教室を出て行った。それに驚いていたのは僕だけでなく、クラスメイトもそうだった。

「勇生、転校生になんかしたの?」

「なんも、してないはずなんだけど……」

 もしかして、変な夢を見ているときにでも、日本さんに嫌われることをしたんだろうか。でも、そんな感じじゃない気がする。

「でも、あの子、ずっとアンタのこと見てたよね」

「え、そうなの?」

「そうなの。まあ、自己紹介が終わった後くらいからだったけど……」

 ずっと見ていたといっても、警戒というものだったのかもしれない。だけど、日本さんの名前は何かに凄く引っかかる。何なんだろう。

「慣れ合う気がないって言ってるんだから、関わらない方がいいかもしれないわね」

「うん……。でも、やっぱり席が近いし、何かを誤解してるんだったら解いておいた方がいい気がする」

「もう、あんたの好きにしなさいよ」

 僕は授業の始まる前にでも、話す機会を作ろうと思った。だって、何か誤解されてるんだったら、後々困るだろうし。一応、友達にもなりたいし。

 そう、僕は考えていた。でも、人生ってそうは上手くいかないもんなんだな。僕は授業の前に目の前が真っ暗になり、床に急接近することになった。




 学校の帰りなのだろう、和音と同じ制服を来た生徒と輝喜が一緒に歩いて帰っている。彼女は振り返ると輝喜に怒る。

――もう、輝喜の嘘吐き!

――しょうがないだろ。急に粕谷から呼び出し食らったんだから。

――コレ、明日までなのに!!

 輝喜の肩をバカバカと叩く手には遊園地の無料チケットがしっかりと握られている。輝喜は叩く少女に苦笑いを浮かべている。

――今度、俺の奢りで行こうぜ。それなら、お前は無料だろ。

――そうだけど、明日じゃないといけないのに……。

 輝喜にそう言われ、しゅんと項垂れてしまう。どうやら、明日までだったら、特別なことがあるようだ。

――じゃあ、常規つねのりと行けばいいじゃん。

――輝喜じゃないとヤダ。てか、なんで常規と行かなきゃいけないの。

 輝喜は友達を提案するが、少女は頬を膨らませて拗ねる。それに輝喜は訳が分からず、苦笑いをする。

――じゃあ、雨森。

――……そだね、和音と十分楽しんできてやる。

――楽しんできてやるっていうのになんで、俺を睨むんだよ。

 和音の名を出され、少女は輝喜を睨みながら、頷く。ただ、どことなく輝喜へ敵意を向けていると言ってもいいような、そんな感じだ。

――睨む? なんで? 睨んでなんかないよ。

――いや、睨んでただろ、確実に。

――睨んでない、睨んでないって。

 少女はスイッと輝喜の前に出て、輝喜を振り返りながら、そう言った。それに納得いかない輝喜は眉を顰める。

――じゃあ、輝喜。また学校で。

――ああ、月曜な。

 少女は門の内に入ると、輝喜と柵の上で拳を突き合わせて、笑ってから家に入っていった。




 ガバッと僕は身体を起こした。だけど、今の状況がわからないようでまだ頭がぼんやりとしている。状況としては真っ白のカーテンに囲まれたベッドに寝ていたということか。

「おや、大湊君。気がつきましたか」

「あ、矢野ちゃん。僕なんでここに」

「授業前に急に倒れたみたいですよ。菅田君が慌ててここに運んできたみたいですけど。お姫様抱っこして連れてきてたから、女の子たちがきゃあきゃあ騒いでたね」

 白いカーテンが開かれ、保健医の矢野ちゃんが顔を覗かせた。ああ、保健室ね。僕、倒れたのか。てか、輝喜、運んでもらったのはあり難いけど、もう少し、運び方を考えてほしかった。これじゃあ、教室に行くとき、恥ずかしいじゃないか。

「うん、熱とかはないみたいですけど、気分が悪いようでしたら――」

「大丈夫。ちょっと、疲れてただけだと思うし」

 あははと頭に手をやりながら笑うと矢野ちゃんはそうですかと言って、柔らかく笑った。

 矢野ちゃんにお礼を言って、時計を見て、時間的には授業の途中になるけど、出席しておこうと思った。本当は途中から入るのは人目が集まるから嫌いなんだけど。こうなっては仕方ないよね。

そんなことを考えながら、僕は授業中の廊下を歩いていた。授業中ということもあって、静かな廊下を歩いていることに僕は少なからず違和感を拭いきれなかった。でも、新鮮でもあるような……。

「あれ? 日本さん?」

 授業中にも関わらず、日本さんは腕を組んで立っている。なんか、怒っているようなそんな雰囲気だ。

「アンタ、いつまで現実から逃げてるつもりだい」

「え、日本さん、何を言って――」

「アンタのいるべき現実ってどこだい」

 僕を見つけた日本さんはカツカツと靴を鳴らし、僕に近づいてそう言ってきた。よくわからなくて、質問しようとしたら、僕の言葉を遮って、そんなことを言う。意味がわからない。

 僕がいるこここそが現実だし、これが夢だなんて思わない。それにこれが夢だというなら、不思議すぎる。あまりにも僕にしっくりときているわけだし。

「時間はないんだ。さっさと思い出すべきだよ。アンタが居たいのはどこかを」

 日本さんの目は本気で、僕は訳がわからない。僕が居るのはここだけだから、ここに居たいと思うのは当たり前なはず。だけど、日本さんにそう言われて、僕は頭を悩ませる。

「大湊!! 授業を受けにきたなら、さっさと教室に入らんか!」

 急に教室の戸を開けて、粕谷が叫んできた。

僕は僕だけがお叱りを受けるのは変だと思って、抗議した。

「日本さんも廊下にいるのに僕だけ怒るなんて理不尽です」

「お前は何を言ってるんだ。転校生なら教室に居るだろ」

「え?」

 粕谷に呆れたようにそう言ってきて、僕は慌てて教室の中を覗いた。そしたら、粕谷の言う通り、日本さんは指定された席に着席していた。

 じゃあ、僕が話していた日本さんは誰?

「ほら、さっさと入れ」

「……はい」

 粕谷に促され、僕は素直に教室へ入った。


 それからは不思議なことの連続だった。白昼夢のように、女の子が人形に話しかけるシーンや輝喜や和音と仲良く話しているシーンが目の前に広がる。僕の存在はそこにはなくて、そこにあったのは僕の知らない女の子。なんで、僕の代わりにその女の子がいるのか、わからなかったし、女の子自身はどこか、輝喜を慕っているようなそんな雰囲気だった。まぁ、輝喜だからそんなことに気づく様子も見られなかったけど。でも、他の女子よりはその子を大切にしているようにも思えた。そんなシーンなどを見ていたせいか、時折、それが現実とダブってしまって混乱することもしばしば。おかげで、輝喜や和音が心配させてしまうことになってしまった。大丈夫だといっても、ちょっと疑っているようで、本当に申し訳ない。

 ちなみに日本さんとはあまり仲良くなれていない。むしろ、クラスの皆もなぜか敬遠していて、日本さんはいつも一人だった。声をかけるものの無表情でつっかえさせるため、クラスの皆や輝喜たちは「何を考えてるかわからないから、もう関わらないほうがいい」などとらしくないことを言っていた。確かに、日本さんは無表情だし、何を考えてるかわからないけど、悪い子ではないと思う。そういっても、皆、理解できないといっていたけど。ただ、日本さんは知り合いが別のクラスにいるのか時々廊下で話している声を聞く。ちょっとだけ、会話を盗み聞きをしたことがあって、その時言っていたのは「そろそろ時間が」とか「アイツらが、周りをうろちょろし始めた」とかよくわからないようなことばかりだった。そのため、輝喜たちにはそのことを話せずにいた。

それから、僕はずっと考え事をしていた。考えることは色々あった。以前倒れた後、見た夢とか廊下に日本さんが居たはずなのに居なくなっていたこととか。そして、僕の居るべき現実とはどういうことなのか。

「勇生、どうしたの?」

「お前に考え事なんて珍しい」

「僕だって生きてるんだから、考えるって」

 まるで珍しいものを見たとばかりに声をかけてきた二人に僕は苦笑いをした。本当はここで夢のこととか話した方がいいんだと思うけど、どうも話せない。

『お前、生きてんの?』

『はは、おっかしー』

 変な声が僕の耳に聞こえてきた。金切声のように耳障りな声。その声から考えると僕はもう死んでるの? でもでも、僕はこうして生きてるし。金切声も時折、聞こえてたから気にも留めてなかったけど、こんなにはっきり聞こえるなんて。

「大湊勇生!」

「はい!」

 急に名前を呼ばれて、返事をしてしまう。ふと前を見ると和音や輝喜は居なくて、教室には日本さんだけだった。

「悪鬼の声がはっきり聞こえたんだろ。アンタ、早く現実を見極めな。悪鬼の声がはっきり聞こえたってことはもうあまり時間がないってことだよ」

「日本さん」

「あたいは千代だよ。アンタ、忘れたのかい?あんなにいっぱい呼んでくれたじゃないか」

 夢の中で言われた声と日本さん……千代ちゃんの声が重なる。無表情だった千代ちゃんには笑みが浮かんでいる。

「僕は……私だよね」

「アンタの夢はこれで終わりさ。さっさと現実に帰りな」

 ああ、思い出した。僕は僕じゃなくて、私だ。男じゃなくて、女だ。千代ちゃんは輝喜が初めてくれたプレゼント。




――ねぇ、輝喜。

――あ? 何だ?

――もし、私が好きって言ったらどうする?

 私は輝喜に好きって言ったんだ。だけど、すぐにそれが怖くなって。

――なんて、冗談ですよ。期待しちゃった?

 そう言って笑った。幼馴染っていう好条件を離したくなくて。でも、ずっと輝喜を見て、歩いていたから、信号を見れてなかった。

――勇生、危ねェ!!

 輝喜の声で横を向いたら、目の前に迫ってきた車。もう、避けられなかった。ぶつかった衝撃で私の体は吹っ飛ばされたんだ。その時思ったんだ。男だったら、恋なんてせずに輝喜とずっと一緒にいられるって。苦しまずにいられるって。



 ふと、思い出して、目を開けると暗い世界だった。私の周りには物はない。上にも、下にも、左右にも。ただ、自分の周りはほんのりと暖かな光に包まれている。

「光が見えるかい」

 千代ちゃんの声が聞こえて、その方向を見れば、千代ちゃんと背の高い人がいた。反対側には私を呼ぶように光る明かりがある。

「うん、見える」

「そっちに行くんだよ。あたいの方はもれなく、あの世行きだ」

「千代ちゃん」

「あたいはアンタが好きだよ。アンタだから、ここまでするんだ。今度は人形じゃなくて、アンタの子として生まれたいな」

「うん、また会えるよ」

「さ、行きな」

 千代ちゃんは私を抱きしめてくれてた。そして、身体を離して行き先を示す。

「輝喜と仲良くやるんだよ」

「うん」

 きっと、あの背の高い人はあの世の門番なんだろうか。千代ちゃんはその人の方に歩きだした。だから、私は光の方に歩いていく。

 そして、暗闇はなくなり、光で周りが見えなくなった。

「あれでよかったのか。連れて行くことも」

「ああ、よかったんだよ。何のために自分の身を犠牲にしたと思ってるんだい。あぁ、そうだ、あの悪鬼どもどうにかしてくれよ、うるさくてしょうがない」

「仕方ない。あれはあれでそれが存在意義なんだから」

「しょうがないねぇ」




 手が温かい。誰かが手を握ってくれてるのかな。

「勇生、頼む。起きてくれ」

 ああ、輝喜の声だ。

「……おはよ、輝喜」

 目を開けて、声を出した。ただ、ずっと声を出していなかったのか、結構かすれてしまった。そっと自分の手のほうを見れば、泣きそうな顔の輝喜が映った。

「勇生!!」

ガバッと抱きしめられて、ちょっと身体が痛かった。だけど、なんとなく払いのけたくなかった。

「心配した?」

「当たり前だろ! もし、勇生が死んだら、俺」

「大丈夫だよ。死んでないよ」

 不謹慎だけど、輝喜に心配されたことが嬉しかった。だから、私は輝喜の頭に手をのせた。ここにいるよって。

「そうだ、先生に知らせてくるな。絶対動くなよ」

「動くなと言われても、動けないからね」

 輝喜は思い出したように病室を出て行った。一人部屋なのか、私のベッドしかない。綺麗な花が飾ってある白い部屋。てか、花、多いよ。部屋中にあるもん。一体、誰がこんなにも持って来たんだろ。

「ああ、そのようですね」

 白衣を揺らして、先生が入ってきた。後ろには輝喜がいる。

「スピードの出た車に衝突されてこれだけ軽傷で済んだことが奇跡だね。まあ、目が覚めなかったから、心配していたけど」

「ありがとうございます」

「いやいや。しかし、君はいろんな人に大切にしてもらってるね。ここにある花は毎日弟君たちが持ってきてね。彼は毎日、君の手を握って呼びかけてたし」

「先生、変なこと言わんでいいからさ」

 私の具合を確認しながら、話をしてくれる先生に輝喜は真っ赤になっている。それに私はクスッと笑ってしまう。しかし、驚いたのは弟たちの行動だ。まさか、花を持ってきてくれてたなんて。まあ、中には野花も混ざってるから、確かなんだろうけど。

「じゃ、ご両親には私の方から連絡しておきます。まあ、退院は暫く様子を見るために何日か先になるでしょうが……」

 そう言って、先生は部屋を出て行った。先生が出て行ったのを見て、輝喜は私の隣に来る。

「あのさ、あの時のことなんだけどさ、俺もお前のこと、す、す――」

「勇生、意識が戻ったって聞いて来たわ」

 輝喜が何かを言おうとしたとき、和音が走りこんできた。てか、和音が走りこんでくるのがすごく珍しくて、そっちの方に集中しちゃった。だから、輝喜が何を言おうとしたのか聞きとれなかった。

「おまっ、わざとか」

「ええ、わざとよ。何か文句でもある?」

 ふっ、勝った、というように和音は輝喜を見下している。ああ、相変わらずだ、この感じ。

「言えないでしょ。言えないわよね。アンタ、そういうの駄目だもんね。やってみなさい」

「コノヤロー」

 本当に見てて楽しい二人だな。てか、何が言えないのかさっぱりなんだけどな。

「言ってやるさ、言って」

「ほら、やってみなさいって。私が見守ってあげるわ」

「……勇生、俺はお前のことがす、す――」

「「「姉ちゃん!」」」

 あ、輝喜がベッドに突っ伏した。和音はツボに入ってんだろうね、腹を抱えて笑っている。私はもう何が何だか。

 とりあえず、部屋に入ってきたのは弟たちだということだけは理解できた。

「姉ちゃん、よかったよぉ」

「もう、姉ちゃんのゲーム借りないから」

「姉ちゃん、ごめんなさい。あのゲームを壊したのは俺です」

 うん、一人は叱らなきゃ。私の大事なゲームを壊してたんだから。でも、心配してくれてたのは嬉しいかな。

「もう、姉ちゃんは大丈夫だよ。お前ら、心配し過ぎ」

 少しだけ身体を起こして、近寄ってきた真砂と王にコツンと軽く、定志には少し強めにコツンと拳骨をプレゼント。まあ、軽めだから、そんなに痛がることはない、一名を除いて。

「元気そうね」

「元気だよ、お母さん。心配かけてごめん」

「気にしてないから、いいわ」

 優しそうな表情を浮かべるお母さん。なんか、ちょっとだけ安心した。

「着替えは後から持ってくるから」

「うん」

「じゃあ、友達とゆっくり話したいと思うから、もう帰るわ。ほら、行くわよ」

「「「はーい」」」

 お母さんの掛け声で弟たちはとてとてとくっついていった。あーやってみたら、本当に可愛い弟だな。

「思わぬ伏兵が居たわね」

「ク、クソッ、全てのモノに見放されてるとしか思えねェ」

「でも、チャンスはまた来たわよ」

「お前が居なきゃ、そうだろうよ」

 何なんだろう、この二人。正直言って、面白いとしか言いようがないんだよな。

「でも、さっさと言わないと、また伏兵が来るかもよ?」

「うっ」

 なんだか、私は取り残されてる気がする。まあ、二人の話は聞いてたら楽しいから、別に気にしないよ。うん、気になんてしないんだから。

「……あ、あのさ、勇生」

「何?」

「私、終わったころに来るわ」

 輝喜が私に声をかけてきた。それに私が反応をすると和音は部屋を出て行った。

 そして、二人っきりに。

「えっとな」

「うん」

 輝喜はそう言いながら、私の手をしっかりと握る。なんかの、おまじないかな。

「……俺はお前のことがす、す……好きだ」

 尻すぼみに小さくなった声ははっきりと私の耳に届いていた。それを聞いて、私はきっと真っ赤になってると思う。まあ、告白した輝喜は私以上に真っ赤な気がするけど。

「わ、私も好きだよ。……小さいころから」

「お、俺だってそうだ。じゃなきゃ、ずっと傍にいねぇって」

「うん、そうだね」

 そう言って、私は輝喜に微笑みかけた。輝喜もそれに照れながらも返してくれた。

「話がまとまったということで、出て行ってあげた私に敬意を示して、何か寄越しなさい、菅田」

 タイミング良く入ってきた和音は輝喜に向かって手を差し出している。輝喜を見たら、肩が震えてる。

「お前、タイミング良すぎだろ、馬鹿」

「言ったじゃない。終わったら戻るわよって」

 にまにまと笑う和音は凄く楽しそう。輝喜は罰の悪そうな顔をしている。

「和音、お願いがあるんだけど。迷惑?」

「そんなことないわよ。勇生のお願いだったら見返りなしでいくらでも聞いてあげるわ」

「オイッ!」

「えっと、私の家から千代ちゃん持ってきてくれないかな。ちょっと、一緒に居たいから」

「わかった。待ってなさいよ」

「うん」

 和音の言葉に輝喜が叫ぶけど、あえて無視して話を進めた。和音は私のお願いを快く引き受けてくれて、私の家に向かった。

「……勇生」

「言葉で和音に勝てないでしょ」

「そりゃあ、そうだけど、勇生に庇われたのはちょっと……」

「まあ、そうだよね。えっとね、和音のは私が庇うから、他からは輝喜が庇ってくれたらいいんじゃない?」

「結局、お前に庇われるんじゃねェか」

 私なりに考えて言ってみたけど、確かに輝喜の言う通りだ。全く、変わってない。

 ただ、拗ねてる輝喜は可愛い。

「まあ、雨森には勝てねェから、仕方ねェか。どうにかして、勝ちたいとは思うけど……。いっつもアイツは一枚上手なんだよな」

 どうやら、和音に勝負をかけるのを諦めたみたい。すっごい、溜息を吐く輝喜に私はついつい笑ってしまう。

「なんで、笑ってんだ」

「和音、凄いなって思って。勝とうとする輝喜も凄いけど」

 そんなことを話して、学校の話になった。勉強がどこまで進んだとか、宿題のこととか、粕谷先生のこと。あの粕谷先生は私が事故に遭った後、意外にもテンパって授業にもならなかったらしい。そんな先生をちょっと見れなかったことは人生で絶対に悔いる。現に今、悔いてる最中だもん。

 そして、そこに千代ちゃんを持ってきてくれた和音が合流する。

 千代ちゃんはおかっぱ頭で赤い着物を来た可愛らしい人形だ。輝喜が家庭内でバイトをして、私の誕生日にくれたもの。その千代ちゃんはボロボロで惨めだった。

「お前、ストレス発散に投げたりしたのか?」

「違うよ。きっと、私の身代わりになってこんなにボロボロになったんだよ」

「ああ、そういうこと。そういう話って結構、あるわね」

 よく怪談話でも、ある話だけど、実際に体験するとより物を大事にしようと思う。それが、今の私にできる償いっていうか、感謝の方法だと思う。

 私はボロボロになってしまった千代ちゃんを枕元に座らせてあげる。ボロボロでも美女らしさがわかるから、いつも思うことではあるけど、作りはいいんだね。




 私が目覚めてから、一か月ほど和音に協力してもらって勉強にも何とか追いついて、普通に学校生活ができるようになっていた。とはいっても、後遺症とかはなかったから、勉強以外は普通にできてたんだけど……。輝喜ともいつも通りだし、周りは付き合っていることに気づかないし、ね。いつも通りだから、仲がいいとしか見られないだけなのかもしれない。

「残るような傷がなくてよかったよな」

「うん。でも、千代ちゃんが~」

「また、誕生日に買ってやるからさ」

 優しく微笑まれたら、頷かずにはいられないじゃない。う~ん、今度は千代ちゃんとは違う子にしてもらおう。

「約束だからね」

「ああ、わかってるって」

 どちらからともなく、手を握って、夕暮れの道を他愛もない話をして話す。それはいつもの帰り道であって、そうじゃない帰り道。幸せで幸せで堪らない。ずっと一緒に居たい。そんな風に考えてた。




 年月が経ち、私は再び病院のベッドにいた。とはいえ、病気とかそういうのじゃない。嬉しい入院なのだ。

「勇生! 子供が生まれたってホントか!?」

 病院だと言うのにバタバタと走りこんでくる輝喜。どれだけ、急いだのかな。髪はボサボサでネクタイを首にかけているだけで締めてはいない。

「輝喜、そこの引き出しから櫛とって」

「ん? ああ」

 ベッドの隣にある机の引き出しから私の櫛を取り出して、私に渡してくれる。そこで、私は輝喜の髪を整えてあげる。てか、輝喜って年月が経つと子供っぽくなった気がする。ん~、どうしてなんだろ。

「で、子供が生まれたって」

「はい、大人しくして。ネクタイ締めてあげるから」

「あ、ああ」

 ネクタイに手をかけると大人しくなる。まあ、下手したら首絞めちゃいそうだもんね。

「で、そんなに急いでどうしたの?」

「なんで、子供が生まれる時に言ってくれないんだ!! 生まれたって聞いて、俺、凄くショックだったんだから」

「だって、輝喜忙しそうだったじゃん。だから、仕事に集中してもらおうと」

「仕事も大事だけど、子供の方も大事! それに誕生の瞬間に立ち会いたかった」

 シュンと項垂れてしまう輝喜に教えなかったことを申し訳なく思った。

「赤ちゃん、抱く?」

「抱く! で、どこに居るんだ?」

「もう、私の隣をちゃんと見て」

「ワリィ、気づかなかった」

 私の言葉に輝喜は申し訳なさそうに頭を掻く。私はそんな輝喜に隣で寝ている赤ちゃんを渡してあげる。赤ちゃんは女の子でどっちかっていうと輝喜に似てるんじゃないかな。ボーイッシュになったら、女の子にモテるだろうな。普通に女の子として育っても、輝喜に似てるからモテるに決まってる。

「はじめまして、パパですよ」

 抱えられたことで目を覚ました赤ちゃんはジッと輝喜を見ている。輝喜はそんな赤ちゃんをぎこちないけど、落とさないようにしながらも自分のことを紹介している。そんな姿に私は幸せを感じる。

私と輝喜は事故の後、付き合い、結婚した。それで、今輝喜が抱いている子が初めての子。輝喜も幸せそうだな。

「なあ、コイツの名前どうすんだ?」

「ああ、それなら、義父さんが、ね」

「親父がなんかしたのか」

「これで役所に出しておいてやるからって」

 私が取り出した紙には『命名 菅田千世ちよ』と素晴らしく綺麗な字で書かれている。それを見た輝喜は硬直してしまう。うん、私も渡されたとき、驚いたよ。

「なあ、なんで親父が俺よりも先に来てんだよ」

「……コレね、生まれる前に渡されたの。ちゃんと男の子が生まれた時用もあるんだよ」

 ほらと見せたものには『命名 菅田幸威こうい』と千世と変わらず綺麗な字で書かれている。

「相変わらず、定年になってから親父も暇だな。つーか、用意周到になってるし」

「あー、そうだね。マンションだって、部屋を勝手に決めちゃってたしね」

 二人で苦笑いを浮かべる。どうにかしないといけないと思っちゃうらしく、義父さんは色々やってくれる。この病院だって、院長さんが知り合いだとかというので個室を取ってくれた。

「はぁ、親父のことだし、生まれたって言ったら、市役所にだしてるだろーな。ということは千世か」

「いいじゃない。今度は先手を取ったら」

「そ、そうだよな」

 ぼんやりと千世を見る輝喜。もしかして、嫌だったかな。でも、そんな不安は次の輝喜の言葉で吹き飛んだ。

「あのさ、勇生。俺、考えたんだけど、借家でもいいから、一軒家に引っ越さないか?」

「え?」

「勿論、俺が十分に金を貯めてからになるけど。俺としてはまだ家族増やしたいし、子供にのびのびと生活できる場所を提供してやりたいんだ」

 ずっと立ったままだった輝喜はベッドの隣の椅子に腰をかける。そんな輝喜はプロポーズしてくれた時と同じくらい真剣な顔つきだった。そんな顔にちょっとドキッとした。

「うん、反対しないよ。でも、焦らず、ゆっくりやっていこう?」

「ああ、それはわかってる。まだ給料とか少ないから無理なこと――」

「おぎゃー!」

 輝喜の言葉を遮り、千世が泣く。輝喜はギョッと千世を見て、無言で私に千世を渡してきた。半分、押しつける感じに。もう、これからは千世を宥めたりとかしないといけないっていうのに、大丈夫かな。ちょっと、心配になってきた。

「はいはい、千世ちゃんには難しい話ですね。よしよし、いい子」

 千世を宥めていると輝喜がジッと私を見ている。なんか、変なのかな。

「何?」

「いや、やっぱり、勇生でよかったなって。雨森とかだったら、絶対無理」

「あら、相変わらず菅田(男)は失礼な言動しかできないのね」

 嬉しいことを言ってくれるんだけど、丁度和音がお祝いに来てくれた。けど、相変わらずだ。私を含めないような言動をする感じが。

「雨森、なんでいやがんだ」

「あら、決まってるじゃない。誕生のお祝いよ。でも、アレよねぇ、菅田(男)の血も流れてるのよねぇ」

 いやだわ、というように溜息を吐く和音。大手企業に就職した和音はコンタクトに赤みがかった短髪の髪で、美人なのに男の影がないのが不思議だ。もしかしたら、興味がないとか?

「そうそう、聞いて、勇生」

「何?」

「彼氏ができたの。凄く可愛い子でね、からかい甲斐があるのよ。今度勇生に会わせてあげるわ」

「そう、よかったね」

 心配することなかったな。和音も幸せな日々を送ってるみたいだし、よかった。

 ふと、隣を見ると輝喜は拗ねて、千世と遊んでいる。全く、そういう子供っぽいところは治ってないんだから。

「じゃ、私は仕事もあるし、このぐらいで帰るわ。もうちょっと、菅田(男)をいびりたかったんだけど、残念だわ」

「おうおう、残念で結構だ」

「じゃあね、勇生」

「うん、またね」

 無愛想に言った輝喜にクスリと笑みを零して、和音は帰っていった。

「輝喜は仕事ないの?」

「あるけど、昼からにしてもらった。子が生まれたからって言ったら、『しょうがないなァ』って言いつつも許してくれた」

「いい上司さんだね」

「ああ」

 千世と遊びながら、和音が来る前に話していた一軒家の話に移ったけど、それはすぐに終わった。そして、三人の将来を語ったり、そんなことをして過ごした。昼が近付くと輝喜は謝りながら、仕事に行った。

「……どうしようもなく、幸せだね」

「あぅ」

 私の言葉に手を振りながら、千世は答えてくれる。それが何よりも嬉しくて、これからの生活が楽しみでしかたない。

「一姫二太郎ということで、次は男の子がいいかな」

 千世と手で遊びながら、私は晴れ渡る空を眺めた。

 これからの将来を空に描いて、いつか、千代ちゃんと再会できる日を望む。もしかしたら、今、私の指を力強く握っているのが千代ちゃんかもしれない、そんなことを思う。そして、千代ちゃんに生をくれたことを感謝する。




「おかーさん、おとーさん」

 私はいつの間にか眠ってしまって、そう呼んでくれる千世の夢を見た。それはそれはすごく幸せな夢。いつか、そうなればいい。




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僕と人形と私 東川善通 @yosiyuki_ktn130

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