3・澄佳は俺が必ず助けるから、安心しろ

 血のにおいがした。

 事務所のあるビル内。三十年以上前の昭和時代に建てられた五階建てのオンボロだ。

 狭い通路を通っていき、階段を一歩踏もうとして、異臭に足を止めた。

 昼間だろうと闇に覆われたコンクリートの階段。あちこちが欠けていて、中の鉄筋が見えていた。照明のスイッチを入れてみるが、反応がない。何度も繰り返しても同じだ。停電のようだ。

 事務所にいるはずの兄貴分に電話を入れてみる。上からスターウォーズのテーマが聞こえてきた。アニキの着信音だ。出る気配はない。三十秒経ってもスターウォーズが鳴り続けている。


「アニキ、いるんですか?」


 返事はなかった。

 電話を切ると音楽が止んだ。人の声も物音もしない。シーンとするなか、建物の向こうの車の走行音が別世界のように聞こえてくる。

 妹が行方不明になったのと関連があるのかは分からないが、嫌な予感しかしなかった。

 警戒心を強めながら階段を慎重に登っていく。上がるにつれ、臭いが強まっていった。踊り場を踏むと、ぬめっとした何かが足に付着した。

 どす黒い赤。血だった。血の水たまりができていた。

 その上の階段で、人が眠っていた。体中が、血でべっとりと濡れている。頭が割られ、中の脳みそが空っぽになっていて、その一部が下に落ちていた。右足がなかった。体のあちこちに、かじられた跡があった。ネズミかなんかの小動物じゃない。トラかハイエナのような猛獣に食われたかのようだ。

 血と肉でミキサーされたように顔がグジャグジャになっているので、死体が誰なのか分からない。体格から男だと分かるぐらいだ。髪の毛があるので、組長でないのは確かだ。

 右足を失いながらも、逃げるべく階段を駆け下りようとした最中に殺されたのだろう。片方の手が前に延びていた。その手に小指がなかった。小指を切っているのは一人しかいない。

 桜井さんだ。

 だが、右足と同じく、犯人がやったものかもしれない。

 スプラッター映画の殺され役のようなムゴい死体だ。じっくりと調べて、桜井さんだと確認する度胸は、俺にはなかった。

 耐えきれずに、胃の中に入っていたのを吐き出した。

 入り口前でこれだ。事務所の中がどうなっているのか、想像したくない。先に警察を呼んだほうが良さそうだ。外に出て、新鮮な空気を吸いながら電話をかけるとしよう。

 一発の銃声が響いた。

 事務所からだ。生きている奴がいる。逡巡したが、階段を上がることにした。死体を踏まないようにしながら、ゆっくりと上がっていく。

 二階。事務所のドアはなかった。ミサイルで飛ばされたかのように、二メートル先に落ちている。その上には観葉植物が倒れ、中の土が散乱している。

 テーブル、ソファー、額縁、その他色々、ぶっ倒れてないものはないと言ってもいい。それらに、人間の肉が飛び散り、血の赤で染まっている。

 地獄絵図だ。

 バラバラになった死体がそこら中に落ちている。何人だ? 三人、四人。あるいはそれ以上。事務所の仲間全員なのか。散らばっていて、正確の数を確認できない。詳しく調べようとしたら、また嘔吐してしまいそうだ。

 殺されたのは組の仲間、兄弟分だということは分かる。

 組長のおやっさんもいるのだろうか?

 ハゲ頭を探せばいいのだから、そういう意味ではあの頭は目印になってありがたい。

 逆向きになった机の脚に、男の顔が刺さっていた。恐怖の表情。頭に穴ができていた。階段にいた死体と同じく、脳みそは空だ。

 弟分。俺を「兄貴」と呼んでいた秀造だ。

 就職難だからと、半年前にヤクザの世界に入ってきたばかりの新米。いつもヘラヘラと笑っていた。


「おまえ、俺の事を尊敬していると言いながら、内心では見下しているだろ?」


 そのことを指摘したら、


「そんなことないっスよ。そういう風に見えるだけっス。オレ、人から小馬鹿にしているように見えるらしくて、それで嫌われちゃうんです。損な顔してるだけで、本当に裏なんてないんスよ」


 そうは見えないヘラヘラした顔で言っていた。


「おまえみたいなやつが、裏であれこれ糸を引いて、出世するんだよ」


 そう言ったものだが、死体から、


「やっぱオレ、ザコ止まりです。兄貴のようになれなかったっス」


 との声が聞こえてきそうだった。


「すまなかった」


 見開いたままの秀造の目を閉ざした。


 最悪だ。

 うちの組になにが起きた。誰が殺した。そもそも、どうやって? どうすればこのような惨劇が起きるんだ。

 そして、あの銃声はどこから聞こえてきた?

 耳を澄ます。吐き気が込み上げてくる異臭がするぐらいで、物音は聞こえない。コト。いや、した。何かが置かれる音だ。

 事務所の奥の、組長室からだ。物が落ちただけかもしれない。兄弟分を殺した犯人が中に潜んでいるのかもしれない。

 それとも生存者が……。

 武器として、床に落ちていた、血で濡れたナイフを取った。

 忍び足で組長室へと歩いていった。

 自慢の頭が光っていた。おやっさんは、アンティークな焦げ茶の両袖デスクに、上半身を寄りかかり、両足を伸ばして床に座っている。

 荒い呼吸。目が動いている。

 生きていた。

 俺が入るなり、猟銃をこちらに向ける。反対側の手にはリボルバーがあった。


「なんだ……おめぇか。帰ってきたなら、声かけろや」


 ほっとするが、猟銃は向けたままだ。


「おやっさん」

「近寄る……んじゃねぇ」


 銃口を上げ、俺の顔に狙いを定める。


「俺の前に来るな」

「怪我してるじゃないですか」


 右足が血で濡れていた。


「手遅れな……んだ」

「治療をします」

「無理だ……俺に近付くんじゃねぇ、絶対に……絶対に来るな!」


 叫ぶと同時に咳をする。血を吐き出した。呼吸を繰り返し、落ち着いたら、後頭部を机に寄りかかる。


「そろそろ…だな」


 天井をむいてそう呟くと、目がこちらを向いた。


「おまえはどうだ? 怪我はしてないか?」

「いえ、俺が来たときは……」

「動いている奴は……いたか?」

「いませんでした」

「そうか……おまえだけでも無事で……良かったと言うべきか」

「いいわけありません。かたきを討ちます。誰がやったんです?」

「俺だ」

「え?」

「俺が殺したんだ」

「なにを言っているんです?」


 答えずに、目をつぶる。思い出したくない光景が浮かんでくるのか、苦悶の表情をする。


「篠崎のやろう」

「篠崎? 篠崎組がやったんですか?」

「奴からの……プレゼントだ」

「プレゼント? 一体なにが?」

「隣を……見ろ」


 俺の隣。おやっさんの真っ正面に、死体があった。身体のパーツはくっついていたが、頭の半分は吹き飛んでいる。俺が聞いた銃声は、奴を撃った時のものだろう。


「おやっさんが犯人をやっつけたんですね。こいつは一体?」

「よしむ……らだ」

「吉村さん?」


 俺の兄貴分。たしかに、細長いアゴに無精髭は吉村さんだ。


「まさか、彼が襲ったとでもいうんですか?」

「半分正解だ」

「半分?」

「赤沢、向こうにある、し……死体を見たか?」

「ええ、食われたようにバラバラになっていて」

「その通りだ。俺の可愛い、ガキどもをな……バラバラにちぎって……食った。それを……人間がやったと思うか?」

「思えません」

「そういうことだ。人間じゃ……ねぇ」

「モンスター?」

「そうだな。友好の証として、うちの組にモンスターを……プレゼントしてきた。金と一緒にな。おかしいと思ったぜ。だが……金に……目がくらんだ。バカだった……あれは科学じゃねぇ、悪魔が作るものだ」

「吉村さんは、篠崎組がプレゼントしたモンスターに取り憑かれたのですか?」

「そうじゃねぇ……奴に噛まれた奴は、同じようになっちまうんだよ」

「同じ?」

「そうだ。モンスターになって、仲間を襲う……。俺も……なりかけている、噛まれたからな……もう、そろそろだ……俺は人間じゃなくなっちまう……」


 おやっさんはリボルバーを、自分のこめかみに当てる。


「おやっさん、なにを!」

「アドバ……イスだ……奴を殺すときは、の…脳みそを……狙え。そ……そこが……奴の弱点……迷わず……撃て」

「いけない!」


 駆け寄る。

 銃声。銃弾が俺の横をスレスレに通っていき、壁に穴をあけた。

 足を止めると、おやっさんは再び自分に銃を向ける。


「篠崎黒龍の屋敷だ。そうだ……おめぇの妹をくろさ……」

「妹? 澄佳ですか? 澄佳がなんですっ!」


 銃口が光った。

 おやっさんはこめかみに穴を開け、ゆっくりと床に倒れていった。



「姉貴。澄佳の居所が分かった。俺のせいだ。澄佳は俺が必ず助けるから、安心しろ」

「ちょっと、あんたどういうわけ!」

「すまない」


 携帯電話を切った。直ぐに電話が鳴った。俺は電源を切った。

 なぜ、おやっさんは自殺したのか?

 なぜ、澄佳が篠崎組の組長の家にいるのか?

 なぜ、そのことをおやっさんが知っていたのか?

 なぜ、篠崎組はうちの組を虐殺したのか。

 それをした、モンスターとはなんなのか?

 謎だらけだ。

 だからと悩んだり、推理して結論を見付ける暇なぞなかった。

 当たって砕けろだ。

 この俺の行動が、どっかの黒幕の駒として動かされているとしてもだ。


――鏡明はあたしが守る!


 あいにくだがな、姉貴。あんたの出番はないぜ。

 俺はヤクザだ。守られる必要なんてない。ひとりでやりぬいてみせる。

 必ずや、組の仲間を殺された復讐を果たし、妹の澄佳を助けてみせる。


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