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カスミは昔からぬいぐるみを集めるのが趣味だった。
かわいいものが好きだからというのが本人が述べる理由だったが、ぬいぐるみなんてそうそう手に入れられるものでもない。聞けば誕生日やクリスマスには必ず買ってもらっていたのだそうだ。羨むべきか呆れるべきか、その話を聞いたときの私の心境はどうでもいいくらいに複雑だった。
カスミが持っているぬいぐるみは大きいサイズのものが多かったが、その中で手のひらに乗っかる程の小さいぬいぐるみが一つだけあった。
それが、イルカ――もとい、シャチのぬいぐるみである。
それは特にカスミのお気に入りで、タンスの上に飾られていた他のものとは違って、いつも机の上に置かれていた。いつも彼女の傍にいて、どのぬいぐるみよりも彼女の近くにいられる存在だった。
シャチのぬいぐるみは買ってもらったものではなく、懸賞で当てた物だという。限定生産のレア物で、カスミにとっては特別な思い入れがあるようだった。
少し、気に入らなかった。
カスミは一時期、そのシャチにかなりご執心で、遊びに行ったときもずっとそのぬいぐるみを傍に置いていた。
私にはそのぬいぐるみにどれほどの価値があるのか、まるでわからなかった。後で調べたところ、マニアにはかなり人気がある一品らしく、オークションで10万以上の値がついていた。当時はそんなことなんてまるで知らなかったから、たかがぬいぐるみのことでカスミが浮かれているのがひたすら気に入らなかった。
いや、価値を知っていたとしても、あのときの私の感情は抑えられなかったかもしれない。
私はカスミのことが大好きで、一番の親友だと思っていた。私だけじゃなく、それはカスミも同じ想いを抱いていると思っていた。
しかし、カスミの最も近い場所にいるのは、私ではなくあのぬいぐるみだった。
それが気に入らなかった。
今思えばずいぶんと恥ずかしい。ぬいぐるみに嫉妬するなんて。
それでも、そのときの私にはその気持ちがすべてだった。
だから、あるとき私は留守中のカスミの家に忍び込んで、あのぬいぐるみを盗んだのだ。
田舎の家における鍵管理の甘さはザルもいいところだ。すぐに庭の植木鉢の下に隠してある鍵を見つけて、私は無人の家に侵入した。
誰もいないことはわかっていたが、だからといって大胆な気持ちにはなれなかった。音を立てないように、ましてや侵入の痕跡など微塵も残さないように、慎重な足取りでもって私はカスミの部屋に入った。
ぬいぐるみは何の変哲もなく、机の上に鎮座ましていた。
それを見た途端、悔しさが胸の内に渦巻いた。
どうしてこんなもののために私が苛立たなければならないのだろう。悲しくなった。どうしてこんなにも胸が苦しくなってしまうのだろう。
悪いことをしているのは最初からわかっていた。それでも、とめられなかった。
私はぬいぐるみを持ってきたポーチの中に仕舞うと、来たときと同じく細心の注意を払って外に出た。ドアを閉めたら鍵を元のところに戻して、人がいないか周囲を確認して、足早に自宅に戻った。
次の日、学校で会ったカスミの目は、少し赤くなっていた。
ぬいぐるみがなくなって泣いたのだろうか。私は知らぬふりをした。私がカスミを泣かした。そんなこと、今まで一度もなかったのに。
ところがカスミは、ぬいぐるみの話をまるでしなかった。あれだけ大事にしていた、いわば宝物だ。いつも机に置いているのだから、自分がなくしたとは考えないだろう。盗まれたのだということにすぐ気づくはずだ。そして、そのことを私に言うはずだ。
なのに、カスミはそんな話はまったく持ち出さなかった。何もなかったかのように、カスミは普段どおりの一日を過ごした。
それを見て、私は胸が焼け付くような思いだった。
目を腫らすほど悲しかったはずだ。なのにどうしてそのことを私に言わないのだろう。私は悩みを打ち明けるほどの価値もない相手なのだろうか。
悔しいのか、さびしいのか、自分でもよくわからなかった。
その後、私は真実を打ち明けることのないまま、父の転勤に伴う形で、両親とともに田舎を離れることになった。
急な引越しだったため、あまり綺麗な別れ方はできなかった。連絡先も伝えなかったので、それきり私たちは疎遠になった。もちろんぬいぐるみのことも話せずじまいだった。
単に、私に勇気がなかっただけだ。
私から連絡を取る方法はいくらでもあった。それなのに電話も手紙も出さなかったのは、怖かったからだ。
カスミはたぶん、私がぬいぐるみを盗んだことに気づいていたのではないかと思う。カスミの家のことはクラスメイトの中では私が一番よく知っていたし、カスミがどんなぬいぐるみを持っているか、何を大事にしているか、すべてを知っていたのも私だけだった。部屋が荒らされてもいなければ、ぬいぐるみ以外は何一つ盗られてもいないわけで、それはどう考えても顔見知りの犯行にしか思えないだろう。カスミは賢い。私が犯人であることに気づかないわけがない。
なのにカスミは、私を追求するどころか、話題さえ持ち出さなかった。
それが逆に怖かった。
疑う素振りをまるで見せないことが、恐怖と焦燥と罪悪感をどんどん強めていった。どんなににこやかに笑っていても、カスミの中では私という人間がどんどん否定され、軽蔑されているのかもしれない。情なんてとっくに失われていて、心の中では嫌悪のまなざしを向けられているのかもしれない。そう思うと、怖くて仕方がなかった。
しかし、素直に罪を告白し、謝ることもできなかった。そんなことをしてしまえば終わりは決定的で、表面上の関係さえ保てなくなる。この期に及んでも、私はカスミと友人でいたかったのだ。
田舎を離れても、その臆病な気持ちはずっと続いていて、8年過ぎてもいまだに吹っ切れずにいる。
カスミはまだあのことを覚えているだろう。彼女の目に、大人になった私はどのように映っているだろうか。
久しぶりに再会したカスミは、成長した姿の中にも昔と変わらない魅力を内包しているように感じた。
彼女が魅力的に見えるほど、私の後ろめたい気持ちは強まるばかりだった。
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