その未来は今
柴駱 親澄(しばらくおやすみ)
第1話
○
奇跡なんて本当にあるのだろうか。あるとしてもそう頻繁には訪れるものではない。だから大抵の一般人は信じていないだろう。奇跡とやらを経験した人もその記憶が薄れるにつれて実感がなくなり信じなくなるのではないか。
しかし少年は奇跡を信じている。いや、奇跡に取り付かれているというべきか。彼は日常的には滅多に起こりえない非日常的な事件に遭遇してしまったため、その奇跡を忘れられずにいた。
少年はごく平凡な家庭に生まれごく平凡に教育を受けごく平凡な親からごく平凡に生きることを教えられた。少年はそれを当たり前のものだと思い込みごく平凡な小学生として暮らしていた。
それは夏休みの終わりごろに起こった。少年は学校が夏休み恒例として開放してるプールに友達と遊びに行った。
最初は勢いよく泳いだり友達と水をかけあってふざけたりもしていたが、数時間も遊び続けていれば腹は減るし体も疲れたので帰ることにしたのだ。
友達とは帰り道が別方向にあるので途中で別れ、少年は帰路を歩いた。夏の午後の日差しはうだるような暑さで、少年は早く家に帰って冷凍庫に入っているアイスを食べながら夕方に放送されるテレビアニメを見たいと考えていた。
住宅街の狭い路地を歩き曲がり角に近づいたとき何やら騒がしい物音に気づいた。
バタバタと激しい足音や切れ切れに聞こえる甲高い叫び声。平凡な少年はきっと近所の子供が騒ぎながら遊んでいるのだろうと予測して角を曲がった。
するとそこには大きく黒いワゴン車と複数の男が一人の少女を車に押し込めている光景が目に飛び込んだ。
少年は立ち尽くした。
少女は必死に抵抗しながら男たちの手から逃れようとするが、一人の男に口を手でふさがれ腹を軽く殴られた。少女がひるんだ瞬間もう一人の男が素早い動作で手足に紐をきつく結んだ。そのまま段取りのいい手つきでガムテープを取り出しあっという間に少女の口に貼られる。少女はもごもごと声にならない叫び声をあげ拘束された手足をバタバタしながらまだ抵抗していたが殴られたほうの男に抱えられ米俵のようにひょいと車の中に投げ込まれた。
少女が視界から消える一瞬、少年は少女と目が合った。涙をぼろぼろと零して泣きはらすような目でもなく、怒りに身を震わせ眉間に皺が寄りきつく細くなった目でもなく、ただ目の前の現実を当たり前のように受け止めている落ち着いていて関心のないような目だった。
ほんの数十秒の出来事で少年は何が起こっているのかすぐに理解できなかった。しかし似たような光景をテレビドラマや映画で見たことがあった。
「誘拐だ」
思わず声に出してしまったことを少年は後悔した。紐を持った男がこちらに気づいたのだ。もう一人の男もこちらに顔を向けた。
「どうする?」
「捕らえる」
即答即応だった。
子供に対して大人の一歩というのは大きすぎる。すぐに男たちと少年の距離は縮まった。少年はそのとき初めて知ったのだ。人間は恐怖や危機を感じた瞬間、冷静に思考ができない。
少年は一歩も動けないまま男たちに拘束され少女と同じように車の中へ詰め込まれた。
車内は座席が畳まれてなく、少女はシートの上に、少年は床へ置かれた。ドアの閉まる音が二回して車にエンジンがかけられる。小刻みに車が振動し始めた。
少年は横向けの状態で必死に首を動かして車内の様子を確認しようとした。運転席と助手席には男たちがそれぞれ座っていた。窓ガラスは前座席以外は全て遮光シートが貼られており外の景色は見えなかった。
やがて助手席の男が大きめな毛布を取り出し少女の上にかけた。少年にも同じように毛布がかけられ完全に視界がふさがれてしまった。
それから何時間たったのかはわからない。
車は走り出したが男の運転は荒っぽいようでスピードが変わらないままカーブを走行したりするせいか少年は何度も転がり体を椅子や壁にぶつけた。それに加えプール帰りで疲労した体と車内のききすぎた冷房、そして謎の男たちに誘拐されているという緊張感により少年の体調は悪化していた。嘔吐感が何度も襲い、ついに少年は吐瀉した。
しかし口はテープでふさがれたままなので口外には吐き出されず口の中にたまったままの状態だ。あまりの気持ち悪さに少年はまた吐いた。悪循環だ。さらに吐瀉物がのど元に戻りかけることもあったので咳き込んで涙が出来てきた。
少年はこれから自分がどうなるかよりただこの苦しい状況から解放されることばかりを願った。
やがて車が停止した。信号待ちとは違いかなり長い。しばらくしてドアが開いた音がした。
そして毛布に包まれたまま少年と少女は男に抱き上げられて運ばれていく。数分もしないうちに男は立ち止まり少年たちを床に落とした。
一瞬の浮遊感と固く冷たい感触に少年の心臓は縮み上がった。しばらくして鼓動の激しさが収まり、少年はもぞもぞと体をくねらせて毛布から頭を出した。そこは薄暗く窓もないような部屋だった。気温は夏だというのに冷たく感じた。床も壁もコンクリートで出来ており男の手から落下した瞬間の衝撃で少年の背中には後から鈍痛が走り始めた。
男は少年と少女の手足を結んでいた紐をナイフで切り外し口のテープを剥がした。少年のテープを取った際に口から吐瀉物が零れ落ちた。男は無言でそれを見つめてから水の入ったペットボトルとクッキーを一箱落として立ち去った。
重そうな扉がしまり部屋には少年と少女だけが取り残される。少女はペットボトルの蓋を開けて少年に差し出した。
「口の中綺麗にしな?」
少年は口を濯いで汚物を口内から取り除いた。少女はクッキーの箱を開けて少年の前に差し出すが食べ物を見た瞬間再び吐き気をもよおしたので首を横に振った。
「そう、私はお腹減ったから食べるわね」
少女はクッキーを一枚手に取りかじった。
少年はもう一度室内を見回した。ザラザラとしたコンクリートの感触。少し湿っぽい。部屋の隅には黒い苔が生えていた。天井は学校の教室よりも低めだった。大人なら手が届きそうだ。小さな電灯が一つぶら下がっていてほんの少し明るく点いていた。壁はどこを見てもコンクリートに四角い凹凸が並んでいるだけで窓や電灯のスイッチは見当たらず、もちろん隙間などない。唯一の出口である出口は木製の扉で内側には何の仕掛けもなく外側から占める仕組みであろう。取っ手は金属でできていたが錆だらけである。少年は取っ手を掴みガチャガチャと動かしてみた。
「無理よ、閉じ込められているんだから」
たしかに少女の言うとおりで扉はガタガタと揺れはするものの開く気配はなかった。鍵穴や開錠できる仕組みはやはりこちら側にはないようだ。
出せる限りの大きな声を振り絞ってみた。助けを求める内容で何度も繰り返すがただただ室内にこだまし耳をつんざく。やがてその声の語尾も力なく弱いものなってきた。
少年は諦めて振り返った。改めて見回すがやはりこの部屋には少女と僅かな食料と自分しかなかった。道具はおろか石ころも何もない。自分の考えられる範囲で脱出方法を試算するが情報もモノもない状態では何も答えはでなかった。
「たぶんこのままじゃ脱出は無理よ」
少女は相変わらずクッキーをもしゃりもしゃりと食べながら呟く。少年は諦めを悟って少女の近くに座った。クッキーは綺麗に半分残されていた。
「今、気分悪くても後でちゃんと食べてね」
少女はそう言うと毛布に包まり横になった。
少女は見た目だけで判断すると少年と同い年か少し上の学年か。背丈なら少女のほうが大きかった。少年は少女の冷静すぎる行動に違和感を覚える。少女は黙ったまま身動き一つとらないままだった。助かるのがわかっていて余裕なのか、助からないことがわかっていて諦めきっているのか。どちらともとれる素振りであった。
少年は先ほどより気分が落ち着き飲食が可能な状態となった。プールで遊び疲れ空腹状態だったことを思い出す。さらに昼ごはんは大体外へ戻してしまった。脳で理解すると急激に食欲がわいてきた。今は腹を満たそうと少年はクッキーを頬張り出した。
味のあまりないクッキーだった。
誘拐されなければ今頃は普通に家に帰って冷凍庫のアイスキャンディを舐めながらテレビアニメを見て、母の用意した美味しい夕飯を食べていただろう。また今日も昨日と同じく素麺だろうか。それとも今日は豪華で肉料理が出たりしているのだろうか。そしたらきっと祖母が自分の分をわけてくれることだろう。それを見て母親はブツブツと小言を言い、父親はアルコールで顔を赤くしながらその光景を見て笑っているのだろう。
母親の小言が懐かしい。朝のラジオ体操に間に合うように早く寝なさい。宿題は夏休み最終日になって困らないように計画的にやりなさい。祖母は暖かく自分を応援してくれた。父親は毎日汗だくで働きながらも休日には家族を連れて旅行に連れて行ってくれた。母親は文句をたくさん言いつつも最終的に困った自分を助けてくれた。
そんなごく平凡な家庭。当たり前だった現実が今はもう遠い場所に感じられた。
少年は今食べているクッキーが最後の一枚だと気づく。しかし腹は満たされない。
少年はついにこらえきれずに涙を零した。
このまま自分は一生家族と会えないのではないか。ラジオ体操もプールも友達と遊んだことももう二度と味わえないのではないか。このままずっとこの狭く寂しい部屋に閉じ込められたままか、あの男たちに自分は殺されてしまうのではないか。
最悪な考えばかりが浮かび少年は耐えられず嗚咽をもらしながら泣き崩れた。
少女は異変に気づいて起き上がった。少年が泣いている。女子の前だから冷静なフリをしていたのだろうがやはり不安でいっぱいだったのだろう。
少女は細い腕で後ろから少年を抱きしめた。この少し冷たい室内で背中に触れるそれは、体温と肉感。それらが少年の腹の底をさらに震わせ、心細さを全て吐き出す勢いで泣き出した。少年の泣き声だけがコンクリートの室内にむなしく響いた。
精神的に落ち着き体力的にに限界がきて少年は泣き止んだ。少女に介抱されていたのが恥ずかしかったのか少し距離を置いてうつむいている。少女はそんなことおかまいなしに喋りだした。
「あなたは関係ないのに巻き込んじゃってゴメンね。あの男たちの狙いは私なの。あなたでもなく私を人質にして得られる身代金でもなく私自身なの」
一般的なニュースや創作作品の誘拐とは少し違うこと、少女はある程度事情を理解しているからこそ冷静なのだと少年はわかった。
「たぶんあの男たちも組織に雇われた下っ端よ。しばらく待っていれば男たちがまた私を運び出して組織に渡されるわ。たぶん必要のないあなたは……、始末されるわね」
始末。少女はショックを和らげるために言葉を選んでくれたのだろう。しかし少年にもその言葉の裏は十分に読み取れた。そして自分がいかに危険な立場に置かれているかも。
「誘拐なんて初めてじゃないからこれくらいの事態なら慣れているんだけど。いつもならある程度したら仲間が助けに来てくれる。しかし予想外にも関係ない人物が巻き込まれてるとなると話は別よ。助けが来るまでにあなたが生かされている保障はない」
仲間とやらが現れるタイミングは少女でも予測できないらしい。そして助けにきたとしても少女が組織とやらに受け渡された後ではおそらく少年は始末されていることだろう。
「つまり私たち二人とも生き残るには早めにここを脱出すること。それも助けを待っていれば確立は減るから自分たちの力だけで道を開かなきゃいけない」
しかしそんな手段はどこにあるのだろう。さっき部屋を調べてみても脱出策に繋がるものは一つもなかったのだ。少年は結局助からないのかと絶望した。
「あなた秘密は守れる?」
突然少女が質問してきた。少年は何のことかわからず唖然とした。
「答えて。今から起こることは誰にも言わない?」
少年はとりあえず肯定の意を示した。少女は黙り込みうつむいて何かを考えているようだった。しばらくして顔を上げた。
「見てて」
そう言うと少女は何やら険しい表情になった。力んでいるようにも見えた。見てとは言われたが少年はどこを見たらいいのかわからず呆然としていた。
少年は視界の片隅で何かが動いてるに気づいた。
それは空になったペットボトルだった。不思議なことに宙にふわふわと浮いていた。少年は床とペットボトルの間に何かあるのではないかと思いその空間へ手をかざすがどこにもペットボトルを浮かせている要因になりそうなものはなかった。
やがてペットボトルはメコメコと表面が潰れていった。完全に押し潰された状態まで至るとそれまで宙に浮かせていた力が抜けたかのようにペットボトルは地面へと落下した。
ふっ、と息が漏れる音がした。少女はさっきまでとは違い表情が緩み気張っていた肩が下がった。
ほんの数秒の出来事だった。
少年はペットボトルを拾って注意深く観察したが仕掛けなど異変は見当たらなかった。普段ペットボトルを捨てる際こうやって潰してから袋に詰めるようと母に言われたのを関係なく思い出す。
「超能力、って大抵の人はそう呼んでるわね」
少年はまさかと思った。ごく平凡な環境で生きてきた少年にとってそんなものはテレビの向こう側か紙面にしか存在しえないものだと思っていた。
しかし実際に目の前で不可解な事が起こったのも事実である。
「すぐには信じられないとは思うわ。だけど何であれモノを遠隔的に操作できる能力が私に備わっているのは事実。この力があれば子供二人でも脱出できる確立が上がるわ」
確かにこれは突き詰めていけばトリックがわかり単なる手品だとわかるかもしれない。
しかし今はそれが重要ではない。脱出策が一つでも見いだせそうということだ。
少年は扉のほうを指差した。しかし少女は首を首を横に振る。
「条件があるのよ。一つは私の視界で認識できるものしかコントロールできない。扉には鍵穴があるだろうけども内部構造を知るための透視能力が私にはない。二つ目は対象物を移動や変形できる力量の限界は私の筋力と同等ってこと。鍵穴や扉そのものを壊す握力や腕力は私にはないわ」
少年はうなだれた。それでは結局少女に不思議な力があろうとも脱出方法に関しては子供二人という条件が大して変わらないではないか。
「諦めるのはまだ早いわ。扉はこちらから開けなくても時間がたてば向こうから勝手に開いてくれる。チャンスはそこよ」
確かに男たちの目的は少女を組織とやらに受け渡すことらしい。そのために少なくとももう一度この部屋を訪れるはずだ。
「私の考えは単純よ。あいつらがこの部屋にやってくる。隙を突いて私たちは走って逃げる。追ってきたり捕らえられそうになったら私の力であいつらをひるませる」
こっそりと逃げ出すより遥かにリスクが高い。しかしこの現状ではその方法しかないようだ。距離を置いて相手に攻撃ができるというのが一番の利点だ。
少年は一つの希望が見つかって喜んだ。
「じゃああいつらが戻ってくるまで体を休めておきましょう。一時間毎に交代で寝ましょ」
そう言って少女は自分の腕時計を少年に渡し毛布に包まって横になった。クッキーのときといいこの少女はやりたいことには忠実で自分優先なのだと感じた。きっと成績表の担任の先生からのコメントは自分に正直で素直な子と保護者向け好印象な言葉で評価されているのだろう。
少女の腕時計を見るともう日付が変わる手前の時間だった。
「捕まる前に力を使えば助かったんじゃないかって思ってるでしょ。私はまだ子供だしうまく力を使えないし、本当に命の危機だと判断できない限り行使することを禁止されているの。だからあいつらも私が一人きりのときを狙ったんだわ」
少女は少年と反対方向を見つめながら呟きだした。
「もっと力の訓練をすれば力量も大きくなるし他の種類の能力だって使えるようになるの。一般人に対する隠蔽方法だって学べば力を使える場所や時間範囲も増えるの。私が未熟なばかりにあなたを危険な目にあわせてしまったわ」
詫びられたが悪いのは自分ではなくあの男たちではないのかと少年は納得ができなかった。
「本当は私一人が生き残ることを考えていたわ。私はただ仲間が来るのを待っていれば生き残れるんだもの。……でも、関係のない人たちが巻き込まれるのはやっぱりごめんだわ。ねえ、命の危機って何も自分限定の話じゃないから力を使っても大丈夫よね? 怒られないわよね? うん、よし!」
少女は独り言をぶつぶつと呟き自分を奮い立たせているようだ。
「あ、これはあくまで独り言だから。私はあなたに何もこちら側のことなんか教えてないから。知りすぎるともう元の生活には戻れないから絶対に他人に喋っちゃダメよ。おやすみ」
それを最後に少女はパタリと静かになり、やがて寝息が聞こえてきた。少女はこれまでに相当な経験をしてきたのだろうと少年は悟った。
超能力、組織、仲間、命の危機に瀕しないと力を行使できない。日常会話では漫画でしか聞いたことがない言葉ばかりだ。
もしかしたら全部少女のハッタリかもしれない。手品に都合のいい設定で誤魔化す。騙される方が愚かだと思っていた悪徳商法の被害者の気分がここにきてなんとなくわかる気がした。
生き延びるためならなんでもいいからすがりたいものなのだ。
尿意がしたが部屋にはトイレなどない。少年はこっそりと部屋の隅で用を足した。
見張りと睡眠の交代を続け、少年が四回目の見張りをしているときに部屋に近づいてくる足音が聞こえてきた。少年は急いで少女を起こす。
「来たわね。とにかく走るわよ。走れなくなった死ぬと思いなさい」
まるで昔の白黒映画に登場した侍のような発言をすると少女は入り口近くに身を寄せた。少年もそれに倣った。足音は徐々に大きくなっていった。
鈍い金属音がして扉が開かれた。男が二人入ってきた。室内に子供たちの姿が見えなかった。
「どこだ?」
その直後後ろで床を蹴る音がした。男たちの死角、扉のすぐ後ろ側に隠れていた子供たちは一目散に駆け出していた。
男たちはすぐに追いかけた。すると少女が立ち止まりくるりと体を反転させ男たちを睨んだ。
かすかに水風船が破裂するような音が四回ほど鳴った。男たちは目を押さえながらうずくまった。少年にはそれがこの前金曜日にテレビで再放送されていた天空の城をめぐるアニメ映画の悪役の最後にに酷似して見えた。悪者というのはどこの世界でも同じような末路を辿るのだろうか。
「眼球の感触って気持ち悪いわね」
少女はそう呟き再び走りだした。少年も急いで後を追った。走りながら少女の言葉を反芻しその感触を想像してみたが確かに気持ち悪いものだ。
「他にも仲間がいるかもしれない。とにかくこの建物から出て安全が確保できそうな場所まで走るわよ」
通路の照明が薄暗く少年は何度も転びそうになったがとにかく少女に置いていかれないように走った。
狭い通路はやがて階段に変わり、登りきると玄関らしき扉が見えた。内側からかけられた鍵を外し、扉を開けた。
外に出ると朝焼け前の紺色の空が見えた。
少年は一度振り返り自分たちが閉じ込められていた場所が古く使わなくなったであろう廃墟であることに気づいた。周りにそれ以外の建物はなく木々に囲まれていた。すぐ近くに男たちが乗っていた黒いワゴン車が停めてあった。
「映画だったら車を奪って乗り逃げするところでしょうね」
アクション映画の逃走劇ならお決まりのシーンだろう。しかし少年も少女にも車を運転できる技量はなく、二人は再び走り出した。追っ手の気配はなかったがいつ不測な事態が起こってもおかしくはない。
子供たちはあまり舗装されていない道路を転げるように突き進んだ。
どれだけ走ったかはわからない。ただ紺色の空にやや赤みが差してきたころだった。子供たちはようやく店や家がちらほらとある場所までたどり着いた。二人ともその場所はどこかわからなかった。まだ朝早いので開いてる店はなくコンビニも見当たらなかった。
「とりあえずそこの公園で一旦休みましょう」
遊具の少ない公園に入り子供たちはベンチに腰掛けた。ずっと走っていたので足の筋肉は硬直し息が上がりきった状態なので体を落ち着けるまでに時間がかかった。
「人が活動を始める時間までここで待機しましょう。それまでになにかあればまた走って逃げるわ。だから見張りと睡眠を続けるわよ」
先ほどは少年が見張っていたので今度は少女が見張る番だ。少年は疲労しきっていたのですぐに目を閉じ意識を失ってしまった。
○
「君、大丈夫か?」
声をかけられ少年は目を覚ました。目の前には警察官がいた。空にはすっかり太陽が昇っており視界は明るかった。ラジオ体操をしに来たであろう小学生たちとその親が遠くからこちらを見ていた。
「自分の名前は言えるかい?」
警察官に尋ねられたので答えた。警察官は手帳を取り出しそのメモを確認し始めた。少年は助かったのだと安堵した。自分は逃げ切れただと隣にいる少女に呼びかけた。
しかし隣には誰もいなかった。周辺を見回すが少女はどこに見当たらなかった。警察官に少女を見なかったかと問おうとしたとき警察官は無線機を取り出しどこかへ連絡し始めた。
「昨日夕方から行方不明だった小学生、松田ゴロウ君。無事見つかりました。はい、見たところ異常はありません。すぐに署のほうへ連れて行きます」
そして少年はパトカーに乗せられて、警察署で両親と再会した。
警察の人間に幾度となく質問され少年は見てきたこと全てをありのままに伝えた。
しかし少女に秘密にするよう言われた事柄はうまく伏せて話した。どうせ信じてもらえないことは少年にもわかりきっていた。
少年は解放されていつもどおりの生活に戻っていった。
目的不明・犯人不明の誘拐事件として世間では一時話題になったもののすぐに忘れ去られた。少年たちが閉じ込められていた廃墟も調べられたが犯人も車も幽閉された痕跡も残されていなかった。
事件の中心核を担うであろう少女の存在は警察でも学校でも近所の人からも確認できなかった。少年は神隠しにでもあったのだろうとからかい半分噂にもされた。両親は少年を気の毒に思ったか翌年引越しと転校を決めた。
月日がたって誰もがそんな事件のことなど忘れていた。
しかし少年は少女の持っていた腕時計と鮮明な記憶が残っていた。「超能力」と少女は言った。
少年は調べた。しかし少女のことはおろかあの事件の真相や組織とやらの存在には一向に近づけなかった。やがて少年は多角的な面から調べることにし「超常現象」という枠組みで調査に乗り出した。
超常現象とは何か。簡単に言えば現在の科学では到底説明できそうにない事象のことを言う。超能力や幽霊、地球外生命体やタイム・スリップなどその分野に当てはまるものは多い。
少女への探究心から始まったものだが少年は超常現象そのものの魅力に取り付かれていった。自分と同じように信じられないようなことに立ち会った人が他にもたくさんいるのだと知ると嬉しかった。
奇跡は確かに存在するのだ。平凡なまま終わると信じていた人生に一筋の光が差したような気分だった。両親はあの事件以来少年が生き生きとし始めたことに気づくのは遅くはなかった。
やがて少年は青年となった。彼は大学に進学し超常現象研究サークルに所属し日々調査に励んでいるのであった。
○
「さあ、今日も楽しいサークルの時間だ。みんなで超常現象について語り合おうぜ!」
松田ゴロウは狭い部室で叫んだ。室内には学校の備品であろうパイプ椅子や長机、本棚が拝借されており超常現象関連であろう物品が散りばめられていた。壁にも宇宙人や未確認生物の類であろう画像が印刷されたものがところ狭しと貼られている。壁にかけられた時計は午後の講義と講義の間であることを示していた。
部屋には松田の他に松田と同回生である竹崎カオルと一つ上の回生である梅沢ユリがいたが、二人とも松田の叫びなど聞かず二人して机の上にトランプタワーを建設していた。
松田は顔を引きつらせつつ、楽しい話をすれば二人も興味を示すだろうと喋りだした。
「じゃあまず僕からだな。よくテレビで紹介される超能力者は外国人が多いがもちろん日本人にも超能力者はいるんだ。古い記録によれば明治時代、長南年恵という女性の超能力者がいた。彼女は手を触れずに物を動かす能力を持っており、中でも空気中の水分を集めて空瓶の中を水で満タンにするのが得意だった。その水は霊水と呼ばれ病気が治ると人々の間に広まり、多くの人がそれを求めた。しかしこれをインチキという人もいて、ついには裁判沙汰になってしまった。裁判所で彼女は五十本の空瓶を全て満水にすることを要請されたが……。さあ、続きはどうなったと思う?」
さあ食いついてこいと松田は二人のほうを見るが、彼女らは相変わらずトランプタワーの建設に忙しそうだった。竹崎は二段目に取り掛かっており、梅沢はそれをうらやましそうに見つめている。
やや社会的すぎる内容で興味を惹かれなかったのかもしれない。もう少しドリーミーなエピソードなら目をランランと輝かせるに違いないと松田はふんだ。
「……そうか。ちょっとつまらなかったかな。もっと面白い話をしようか! UFOって聞くと宇宙人の乗り物というイメージが一般化されつつあるけど、UFOの正式名称は未確認飛行物体。つまり宇宙人とは直接的な関係はないはずなんだ。実際に第二次世界大戦中に目撃されたUFOはドイツで人間によって作られたという説もある。当時兵器開発のおかげで科学の最先端技術をもっていたドイツは円盤型航空機の開発に成功。しかし実用化される前に戦争は終結。試作機はすべて破壊されてしまったという。宇宙ロケット開発で有名なソ連やアメリカも円盤型航空機を開発していたらしい。驚くべきことに実はどの国も墜落したUFOをもとに研究していたんだ。そのUFOは地球上には存在しない物質で作られており。本当に宇宙人のものなのかもしれない」
ロマンある話に松田は酔いしれていた。こんなにも探究心をくすぐられるエピソードを聞かされたら誰もがその真相に興味を持つに違いない。
しかし振り返ると二人は相変わらずトランプタワーの建設に熱心だった。竹崎は神経を集中させて三段目に取り掛かり、梅沢はひとつもできずにいじけていた。
「君たち!」
松田は思わず机を叩いた。梅沢が小さな悲鳴をあげ、竹崎のトランプタワーは一瞬にして崩れた。
「何?」
竹崎はうまくいっていたのにと憤慨の意をこめて松田を睨んだ。
「ここは超常現象研究サークルの部室だ。竹崎も梅沢先輩も、いったいここに何しに来ているんだ」
「えーっと、次の授業までの暇つぶしかな」
梅沢は悪びれた様子もなく答えた。
「別になんでもいいでしょ。部室に来る理由なんて」
竹崎は怒りながら散らばったトランプを片付けている。
「食堂は人が多くて騒がしいし、逆に図書館は静か過ぎて好きなことできないし。この部室ってちょうどいいのよね」
「先輩たちがいい感じに暇つぶしになるものを残していったから全然飽きないしね」
確かにこの部室、超常現象関連のもので溢れているが所々に漫画やゲーム機などが見え隠れしていた。
「ここは都合のいい休憩所じゃないんだ。日夜超常現象を研究し、志を共にする同士とロマンを語り合う神聖な場所なんだ。去年までは真面目に活動する先輩たちがいたのに。それに今年の新入部員はゼロだったし。もうまともに活動しているのは僕くらいだ。このダメ人間め!」
「はあ? なんでダメ人間にダメ人間呼ばわりされなくちゃなんないのさ」
「なんだと」
竹崎は松田の言葉が気に入らず詰め寄った。
「サークルに没頭してまともに授業に行ってないあんたよりはマシってこと」
「そ、それは言わない約束だろ」
「知るか!」
不意を突かれて松田は弱った。呆れたような表情をして梅沢は尋ねた。
「あら、ゴロウ君。やっぱり授業行ってないの?」
「そうですよ。だってこいつ、いつ部室に来てもいるじゃないですか。私と同じ講義いくつかとってるはずなのに一回も出席してるの見たことないし。教授にも松田は生きているのかって聞かれましたよ」
うつむく松田の代わりに竹崎が答えた。
「一応聞くけど、なんで授業に行かないの?」
「それはホラ、僕には授業なんかよりも大事なものがあるじゃないですか」
「で、サークルを理由にするわけ。このダメ人間め。よく進級できたもんだ」
竹崎が軽く松田を小突いた。梅沢はため息を吐いて喋り出した。
「この学校、単位がとれなくても進級できるシステムなの。もちろん、あまりにも単位が足りなかったら卒業できないんだけど」
「そうだったのか! てっきりこのまま卒業できるかと」
驚愕の事実に松田は驚きを隠せなかった。憎き父親の敵を追い詰めたところその敵が、実は私こそが本当のお前の父親だと告白する某SF映画のエピソードと同等の衝撃であった。
「四回生になって泣いてる先輩も多いわよ」
「僕は他の人とは違うんです。未来の自分がどうにかしてくれます。きっと大丈夫ですよ」
それは松田が中学生のときインターネットの電子掲示板に書かれていた言葉を拝借した信念であった。どんなにつらい境遇や試練にもその言葉で乗り越えられてきたのだ。
「そうね、このままだと立派な大学八回生になれるわ」
「八回生って」
竹崎は突飛な発言に苦笑いした。
「冗談きついですよ」
松田も軽く笑い飛ばそうとした。
「ごめんなさい、私嘘はつけないの。八回生ともなればその分の学費で何が買えるかしらね? ざっと計算してみましょうか。あ、それともそれだけのお金を稼ぐのにどれだけの時間と労力が必要かを知りたい?」
梅沢は口元が笑っていても目は笑っていなかった。
「せ、先輩のそういうとこ嫌いじゃないですよ。ていうか竹崎は単位とか大丈夫なのかよ」
松田はこれ以上自分の精神をえぐられる前に話題をそらそうと竹崎に標的を移した。すると竹崎は自信満々といった表情で反論しだした。
「あんたと一緒にするな。私は単位はもちろん資格も取っていて、成績優秀者にしかもらえない返却不要の奨学金だって受け取っているんだ。就職活動の準備ももう始めてるし。松田、なんとなく過ごしていれば人生どうにかなるだろうとか考えが甘すぎるんだよ。ダメ人間め」
竹崎はたっぷりと松田を見下すように意気揚々と喋り最後には松田を軽く蹴った。松田は反論の余地がなく小さくなるばかりである。
「ダメ人間ダメ人間うるさいんだよ。僕はただ好きなものに夢中になっているだけだ。それの何が悪い」
「好きなことだけで人生やっていけると思うなよ!」
「いいこと言うわね~」
竹崎の正論であり真理な叱責に梅沢は感心した。
「それとも何? あんたのいう超常現象ってやつがあれば楽して生きていけるの?」
竹崎は追撃した。そして松田はある違和感に気づいた。
「もしかしてお前、超常現象信じてないの?」
「当たり前でしょ」
「なんでこのサークルに入ったんだよ?」
松田にとってこのサークルは超常現象を信じている者しかいないという定義があったのだがあっさりと崩れた。
「何でもいいでしょ! サークルに入る理由なんて。それに超常現象なんて誰かが作ったホラ話なんだから信じられるわけないじゃん」
自分のアイディンティティを傷つけられ松田は怒鳴った。
「そんなことはない! 超常現象のような信じられない不思議なことは世の中で確かに起こっているんだ」
「例えばどんな?」
さすがに自分の過去の事件を話すわけにはいかない。それよりも竹崎が少しでも超常現象に興味を持ってくれたみたいで松田は嬉しくなりノリノリで喋りだした。
「よし、じゃあ今度は呪いのワラ人形の話をしてやろう」
「あ、やっぱいいです。うさんくさい」
いきなり出鼻をくじかれたが松田は諦めなかった。
「何だよ。そっちから聞いといて。それじゃあ未確認生物で有名なネッシーなら」
「あれっておもちゃの船におもちゃの恐竜の首をくっつけただけのインチキ写真だったことで有名なんでしょ」
竹崎も無知ではないらしい。松田は次の事象を語りだす。
「それじゃあ一夜にして広大な麦畑に刻まれた謎の模様、かの有名なミステリーサークルについて」
「それも実は人がやったことで有名なんだよね。しばらく話題になったけど騒ぎが大きくなったら犯人が名乗り出て、不可能じゃないって実際に証明してくれたり」
竹崎の反論には全くの隙がなく松田は当惑した。しかし松田にも切り札があった。精神的なダメージが大きかったがこれで竹崎を負かせると松田は燃えた。
「ならばこれでギャフンと言わせてやる。中国で発見された人魚のミイラについてなんだが」
「上半身が猿で下半身が魚っていうやっつけミイラだったんでしょ」
「ギャフン」
松田は倒れた。真っ白な灰になった。
「カオルちゃん詳しいのね」
超常現象に無関心かと思えば意外と知っていることに梅沢は驚いた。
「物事は理屈がないと成立しません。ないものは信じられませんから」
松田はボロボロの体をなんとか起き上がらせた。
「だからって超常現象はないとも言い切れないだろ。遥か昔から世界中で同じような現象を体験してきた人たちだってたくさんいるんだ。時や国を超えてまで超常現象はその存在を知らしめているんだ」
「私だって自分で体験できたら少しは信じたかもね。そうだなあ、未知の侵略者がこの世界にやってきて侵略戦争が起こるとかいうとんでもないことになったら認めてあげる」
「お、そういう映画みたいな話嫌いじゃないぞ。侵略者は異星人か? それとも別の時間軸からやってきた――」
「ああもう、うるさい! そんなことは絶対にないんだから」
貶めようとしたら逆に調子に乗ってきた松田に竹崎は苛立った。
「まあまあ、そう熱くならないで。お茶でも飲む?」
場を落ち着かせようと梅沢は紙コップを取り出した。
「またそうやって部室を」
「男なら細かいことは気にしないの」
「そーだそーだ!」
梅沢と竹崎が仲良くお茶を準備しているのを見て松田は不条理さを感じた。
「このサークルは平和にほのぼの過ごすのが目的じゃないはずです。超常現象の研究の果てにはとある秘密結社によるテロリズムの影に気づきそして某大国の陰謀論から世界大戦、はたまたガイア説による地球滅亡の予言。その事実たちを見つけ出し告げるときみんなが叫ぶ。な、なんだってぇー!、と。そしてどういうことだ松田と聞かれて――」
「あら、何事も平和が一番よ。平和な世界じゃなかなかそれに気づけないけど」
松田の脳裏に誘拐事件の光景がフラッシュバックした。
「それはそうですけど」
「さあ、座ってお茶でも飲みましょ」
松田は緑茶の入った紙コップを受け取った。竹崎と梅沢は何か雑談をしていた。
松田も平和がいいのは身をもって知っている。しかし自分が経験したあの出来事や超能力の少女の存在がなかったかのようにされるは釈然としなかった。
「でも、もしかしたら今日は敵が来るかもしれないわねえ」
通り雨がくるかのようにさらっと梅沢が呟いた言葉を松田は聞き逃さなかった。
「未知の侵略者ですか?」
「またまた変なこと言わないでくださいよ。松田が反応しちゃうから」
竹崎は身を乗り出した松田を遠ざけるようにあっち行けの仕草をした。まるで蝿を扱うようだった。
「ごめんなさい、私嘘はつけないの」
そう言って梅沢はお茶をすすった。
○
超常現象研究サークルに襲来者が現れたのはその直後だった。荒々しい足音が聞こえてきたかと思うといきなり激しくドアが開かれた。
「失礼するでござるよ!」
松田は過去の事件の男たちを一瞬思い出して冷や汗をかいたが奇怪な叫び声と時代錯誤な語尾で何かが違うと気づいた。振り返ればドロップ型のレンズの大きな眼鏡にピンクの鉢巻きをした謎の男たちがいた。三人ともきょろきょろと室内を見渡していた。
「ふむ、あまり広くはないようでござるな」
「近藤会長、ものが多いだけで片付けたらきっといいスペースになりますぞ」
「おほ、さすが土方殿。それでは今あるCDやDVDも全部こちらに移せますな」
「我らがアイドル研究会では発売されたCDを一人十枚以上購入するのが規則ですからな」
近藤という中心にいる男に対して二人の男はへこへこしながら喋りだした。
「我々の努力が世間のランキングを動かしていると考えると胸が熱くなりますな」
「もしかして彼女らが直々に我らアイドル研究会にやってきて感謝してくれるイベントなんかあったりして」
「うは! 夢が広がりんぐ」
アイドル研究会と思われる男たちはクネクネと体を動かしながらカツゼツが悪いのかぼそぼそと話しこんでいた。
「沖田殿はCD発売の前日から店頭に並び、まさかの百枚購入を成し遂げた勇者でござるからな」
「彼女たちと握手できる権利が得られるのならばそれくらい容易いでござるよ」
「さすが我らのエース! 切り込み隊長でござるな」
「それでは勝利の証をこれからここに貯めていくでござるよ」
そして三人の男たちは顔中を皺皺にしながらニヤニヤと笑い出した。
竹崎はああいうタイプの人間が苦手なのか鳥肌を抑えるように腕をさすっていた。梅沢は珍しい動物でみ見るかのように何あれと指差しながら目を輝かせていた。松田はただただわけもわからず驚いているばかりであった。
そして竹崎は勇気を出し、おそるおそるアイドル研究会の面々に近づいた。
「あの、すみません。何なんですか、あなたたちは?」
声をかけられアイドル研究会は一斉に竹崎のほうに顔を向けた。
「おおっと失礼失礼! ついつい名乗るのを忘れてしまっていたでござる」
「失敬、ついつい我々新しい部室に興奮してしまいまして」
「副会長殿、興奮だなんていやらしいでござるよ」
「沖田殿こそ、昼間から何を考えているでござるか」
「今日も隊長殿の脳内にはお花畑が咲き乱れているでござるな」
「お花畑とはまたキザな言い方をなさるでござるな、会長殿」
「何なんですか! あなたたちは!」
自分の質問を無視されていることに竹崎は苛立った。
「そ、そんなに怒鳴らないでほしいでござるよ。そう、我々は見ての通りアイドル研究会のものである!」
近藤が勢いよく叫ぶと三人は背筋をピンと伸ばし土方と沖田は近藤の前に並び見事なデルタフォーメーションを陣取った。
「拙者は一番隊隊長、沖田シノブ!」
「拙者は副会長、土方ツカサ!」
「そして拙者は会長、近藤アツヨシでござる!」
まるで三人は舞台の上でスポットライトにでも照らされているかのようだった。
「これはなかなかキマりましたな。さすが会長殿の掛け声はシメてくれますなあ」
「さすが我らの代表でござる」
「そんな、褒められると拙者照れるでござるよ~」
また三人はワイワイとはしゃぎだした。竹崎は壁を殴った。相当キているようだ。
「いちいち内輪の話にならないでください。それでアイドル研究会がうちに何の用ですか? さっき新しい部室がどうのこうの言ってましたけど」
「そうそう、実はこのアイドル研究会の部室を譲り受けにきたでござるよ」
近藤はさも当然のように答えた。
「最近のアイドルブームはもちろんご存知でござるな?」
土方もさも当然のように聞くが竹崎は首を横に振った。土方は信じられないと驚くが話を続けた。
「諸味リョウコちゃんなどのスーパーアイドルのデビューやヒットは拙者たちにとって嬉しい限り。しかしその影響でアイドル研究会の人数も増えて、同時に保存用のコレクションも増えていき、ついには今のアイドル研究会の部室では収まりきらなくなったでござる」
沖田も前に出てきて語りだした。
「好きなものを語れる同士たちと共に汗を流し青春を謳歌したいだけなのにその活動を制限されるのは悲しい限り。そこで学校側に相談してみたでござるよ」
竹崎は呆れながらも聞いてたが松田はその気持ちがよくわかり同情していた。
「するとちゃんと活動してるかよくわからないサークルに部室を譲ってもらうよう助言を受けたでござる! と、言うわけでここにきたわけでござる」
「と、言うわけでこの部室を譲ってもらうでござるよ」
「と、言うわけで今日からここはアイドル研究会の部室になるでござるよ」
リズムよく台詞をつなげる三人。このままでは勢いに飲まれてしまいそうで、すかさず竹崎は反論した。
「ちょっと待ってください! なんで真っ先にこのサークルを選んだんですか?」
「だって何をしているかよくわからないことで有名でござるよ、ここ」
沖田の馬鹿にしたような発言に竹崎は苛立ちながらも内容は事実なので認めざるを得なかった。松田はこのサークルの認知度がそんなものだったのかと唖然としていた。梅沢はそれすら知らなかった松田を哀れんだ。
「だからってそれだけの理由でここを譲るわけにはいきません」
竹崎は超常現象こそ興味はないもののいい感じの暇つぶしスペースであるこの部室がなくなるのは惜しい。まして相手はあまり頭の良さそうではないアイドル研究会の連中である。竹崎は簡単に追い返せると思った。
しかし土方は怪しげに笑みを浮かべ目を光らせた。
「ほう、譲れない理由があるのでござるね」
その挑発的な態度に竹崎は一瞬戸惑った。
「では質問させていただくでござる。このサークルはズバリどんな活動をしているでござるか?」
沖田が一気に竹崎まで詰め寄った。真面目に活動していない竹崎は返答の言葉に迷った。
「何を目的とし、結果何を得られるでござるか?」
間髪入れずに土方も追い討ちをかけた。
「そして何より、活動のために部室が必要不可欠でござるか?」
そして近藤に一番痛いところを突かれた。
「おや、答えられないのには理由でもあるのでござるか?」
近藤は困惑している竹崎にいやらしく言葉を投げた。
「ちゃんと活動してるなら答えられるはずでござる」
「部室が本当に必要なら答えられるはずでござる」
「よっぽどの理由がない限り答えられるはずでござる」
「さあ、答えるでござるよ」
「さあ、答えるでござるよ」
「さあ、答えるでござるよ!」
アイドル研究会三人は竹崎を取り囲み、手をつないで竹崎を逃げられない状態にした。そしてそのまま対象物の周りをぐるぐる回り始めるというイヤガラセに出た。
「うざい!」
竹崎にとって見下していた相手に勝てないというのは屈辱であった。バミューダトライアングルを横暴に手で払うが、彼らは余裕綽々の態度で竹崎に視線を向けていた。
「暴力に出るとはイカンですなあ。拙者、遺憾でござる」
「会長、ウケるでござる」
「ほら松田、さっきまでの威勢で反論しろよ!」
竹崎は敵を振り払い助け舟を松田に求めた。悔しいが自分では太刀打ちできないと判断したのだ。
「えええええっと、そのですね。このサークルはつまりそのえーっと」
「なんでテンパってるんだよ。もう、しっかりしろよ。ねえ、ユリ先輩」
松田は超常現象のことならペラペラと舌が動くようだがそれ以外の場合言葉がうまくまとまらず焦燥してしまっていた。内弁慶でただのヘタレなのだ。竹崎は年長者の梅沢に大人の意見を求めた。
「まあまあ、カオルちゃん落ち着いて。あ、みなさんお茶でもいかが?」
「ちょっと助けてくださいよ」
「ごめんなさい、私嘘はつけないの。だから反論できない。だってこのサークル本当に何もしてないじゃない」
梅沢は椅子に座ったまま優雅にお茶を飲んでいた。竹崎は完全に反撃のカードをがこちらにないことに絶望した。
土方は自分たちの勝利を確信した。
「近藤会長、やはりここは名ばかりのサークルでござるな。室内の雑貨は超常現象という感じのもので溢れていますが、その中には大学生らしい暇つぶしグッズが紛れ込んでいるでござる。外見をカモフラージュして部室を都合のいい休憩所にでもしているのでござろう」
土方は近くにあったトランプを手に取り眺め、沖田に渡した。
「世の中には部室に恵まれないサークルたちさえあるというのに。部室をこんな無駄遣いされてはたまったもんじゃないでござる」
「おい、勝手に触るなよ!」
竹崎は沖田の手からトランプを取り返した。竹崎と沖田は睨みあうがそれを制するように近藤が前に出てきた。
「ふむ、それではアイドル研究会の正当なる活動のためにこの部室をいただくでござるよ」
「ま、ま、待てよ! この部室は譲らないぞ。ぼ、僕はちゃんと超常現象を研究しているんだ」
松田はようやく頭の中の言葉が整理できたのか間に入ってきた。竹崎も松田のように真面目に活動している人間がいることを知ればアイドル研究会も退くだろうと考えた。
松田の発言を受けアイドル研究会の面々は互いの顔を見合わせ、驚きながら松田に質疑を投げかけた。
「本当でござるか?」
松田は肯定した。
「本気で超常現象なんか研究しているのでござるか?」
「ああそうさ!」
松田は自信満々に答えてみせた。竹崎もどうだと言わんばかりの表情を見せた。
アイドル研究会は再び顔を見合わせた。そしてしばしの間沈黙した。
やがて静寂の中からかすかな笑い声が聞こえ始めた。笑い声は段々と大きくなり、ついにはアイドル研究会は腹を押さえたり口に手をあてながら爆笑しだしたのだった。
「まさか本当に超常現象を信じてる者がいるとは思わなかったでござるよ」
「大学生にもなって超能力とかUFOとか真面目に研究しているのでござるか。うけるでござる。そんなもの許されるのは小学生まででござるよ」
「ちょっとそれは言いすぎよ」
完全に馬鹿にされていた。穏便な梅沢も思わず立ち上がった。
「もしかして怪しい宗教団体に入ってるか過激な政治思想を抱いてたりするでござるか? だとしたらこの大学には危険人物がいることになりますぞ」
「おい、あんたら!」
「キャー、怖いでござる」
「お前らなあ……」
松田はうつむいて拳を握った。
「では我々アイドル研究会が正義となり、彼らを追い出すでござるよ!」
近藤、及び土方と沖田は勝利宣言のごとく再びポーズを決めた。
「うるせえっ!」
松田の渾身の叫びにアイドル研究会はたじろいだ。竹崎も梅沢も普段の松田からは想像できない迫力に驚いた。
「お前ら黙れよ。なんで人の好きなもので笑うんだよ。アイドルはちゃんと存在するからえらいのか? 超常現象は存在するかわからないから馬鹿にされるのか? 好きなものは好き。それでいいだろ。人の好きにさせろよ。好きなもの比べたり、否定することがおまえらにはできるのかよ!」
松田は息継ぎもせずに言いたいことを全部吐き出した。怒りに任せて咆哮したためか、松田の体力は持たず言い終わると顔を赤くして肩で息をしていた。
「し、しかしですな……」
近藤は気まずそうにも話を再開させた。それに乗じて沖田が発言した。
「せ、拙者は超常現象というものを体験したことがないでござるよ。他人の噂なんて信じられないでござる!」
「超常現象はある! あることは証明されてはいないが、ないことも証明されていないんだ。信じる人がいる限りあるんだよ。信じられないようなことは確かにこの世界で起こっているんだ」
松田のはっきりとした物言いはさっきまでとはまるで別人だった。予想外の返しに沖田は困ったが代わりに土方が応答した。
「そんなの言い訳でござるよ。それなら今すぐここで起こしてみせるでござるよ」
無茶苦茶な要求だ。しかし竹崎が文句を言う前に近藤が喋りだした。
「拙者たちは目の前で起きたことしか信じられませんからな。超常現象研究サークルというのは名ばかりでござるか? ここで起こすことくらい簡単でござろう」
近藤はニマニマと松田を見た。しかし意外にも松田はそれに応えた。
「今ここで、お前たちの目の前で起きれば納得できるんだな?」
「も、もちろんでござるよ」
「いくらなんでもそれは」
見栄を張りたいのはわかるができないことはできないのだ。竹崎は松田を心配した。
「大丈夫だ!」
「ゴロウ君?」
松田の言動がただの見栄っ張りではなく妙な自信があることに梅沢は気づいた。
「僕が何のために長年、超常現象を研究してきたと思っている」
竹崎はすぐに松田の言ってる意味が理解できなかった。
「こういうときのためだよ!」
すると松田は力を貯めるかのような仕草とうなり声をあげ、「はっ」と息を吐き出し両手を高く天井に向けて突き上げた。
いきなり大きな物音がした。松田のすぐ後ろにあった壁掛け時計が突然床に落下したのだ。前触れのない出来事に竹崎は目を丸くした。アイドル研究会は近藤が短い悲鳴を上げ他二人も軽くパニックになっていた。
「ど、どうだ!」
松田は胸を張ると近藤は幽霊にでも対面しかたのように慌てだした。焦りながらも沖田は近藤を落ち着けようと必死だった。
「ちょっと、落ち着くでござるよ会長殿」
「でも、何もしていないのに時計が落ちたでござるよ!」
近藤は尻餅をつき足をガクガクと震わせていた。さっきまでの堂々とした態度はどこへやら、本来の小心者らしい性格が綻び、このまま泡を吹いて失禁して気絶してしまいそうな勢いだった。
「と、時計が落ちただけではないかー!」
そこで土方が突破口を開いた。
「落ちた……だけ……?」
近藤は散々叱られた幼児が最後に許されたときの反応のような安堵あある表情で土方を見上げた。
「そ、そう。そうでござるよ! ものが落ちるのは当たり前のこと。地球には重力がありますからな。偶然タイミングがよかっただけでござるよ」
なんて無理やりな誤魔化し方だと竹崎は呆れたが沖田はこれは反撃のチャンスだと確信し、それに乗った。
「そそ、その通りでござるよ! うちの実家では玄関のドアを開けるたびに時計が落ちていたでござるよ」
「そうそう。うちの実家も水道の蛇口をひねるたびに時計が落ちるもんだから困ったもので。だから時計が落ちるだなんて日常茶飯事でござるよ」
二人に励まされ近藤も調子を戻し始めた。
「おお! それもそうでござるな。そういえばうちの実家も祖母が寝返りをうつたびに時計が落ちていた気がするでござるよ」
「あんたら! それこそ言い訳じゃないか。ていうかあんたらの実家はどんだけ時計落ちやすいんだよ」
三人は竹崎の言葉には耳も貸さずに時計が落ちるのは天気予報が当たるのと同じくらいの確立かそれ以上だとわいわいと盛り上がっていた。
「こんなことでは驚かないでござる。もっと信じられないようなことをやってみせるでござるよ」
「ああ、やってやるよ」
土方の挑発に松田はまた乗った。物怖じしない松田の態度、いつもならただうざいと思うだけなのに今はとても頼もしく竹崎は感じられた。そして松田は先ほどと同じように気を貯めるようなポーズをし、一気にそれを解き放った。
全員が身を固めた。しかし今度はすぐに異変らしいことが起こらず静寂が続いた。全員が何か起こったのではないかと室内をきょろきょろと見回したが、結局何も発見できなかった。
「何も起こらないでござるな」
近藤は少しビクビクしながらも口を開いた。
「確かに何も異常がないでござる」
沖田も不安そうに土方を見るが、土方は口元を緩ませながら松田に近づいて行った。
「やはりさっきのことはただの偶然。信じられないようなことが起こる、だってお。プッ」
嫌味を松田に吐き捨て土方は二人の元へ戻っていった。竹崎はどういうことなのか問い詰めようと松田のほうへ歩んだ。
「どうなってるんだよ」
「いや……」
松田は言葉を濁し、険しい表情のままうつむいた。うまく力を発揮できなかったのか、もう一度やれば結果が出るのか。竹崎は松田に詰め寄りたかったが松田の悔しそうな顔を見て言葉を飲んだ。下唇をかみ、拳が震えていた。
私は何もできなかった。いくら授業成績が優秀で単位をとっていようとこんなところでは何も役に立たない。それどころかダメ人間と卑下していた松田に途中まで救われ完全に頼りにして――。竹崎にはアイドル研究会たちのはしゃぐ声がゲームオーバーのBGMのごとく聞こえた。
そのときである。携帯電話の着信音が室内に鳴り響いた。全員が自分の携帯電話を確認した。やがて沖田が自分の携帯電話を開き耳に当てた。近藤と土方は勝利に酔いしれているのか楽しそうに部室の改造計画について話しあっていた。
「な、なんだってぇー!」
沖田の素っ頓狂な叫びが耳に飛び込んできた。
「どういうことでござるか! そんなあ! うむ、すぐそちらに向かうでござる。では……」
沖田は通話終了ボタンを押しヘナヘナと床に座りこんだ。様子がおかしいと全員がすぐに察した。土方はそっと沖田の肩を叩いた。
「どうしたでござるか?」
沖田は力なく土方に耳打ちした。
「な、なんだってぇー!」
土方もまた顔を歪めて座りこみ、急いで携帯電話を取りだし何かの確認作業を始めた。その異常な様子に近藤も焦った。
「いったいどうしたでござるか?」
沖田は息も絶え絶え、まるで過呼吸のように苦悶していた。それでも近藤に事を伝えようと必死に腹から声を出した。
「会長殿、驚かないでくださいよ。実はその、我らの諸味リョウコちゃんに熱愛報道があったと報告を受けたでござる」
「な、なんだってぇー!」
近藤は目を見開いた。
「確かにネットの芸能ニュースにも取り上げられているでござる」
近藤は土方の携帯電話の画面を覗き込みその事実を受け止めると、目を回し倒れこんだ。
「フハハハハハ! どうだ、信じられないようなことが起こっただろう!」
さきほどまでの姿勢はどこへやら、松田はアイドル研究会の前に仁王立ちした。正義のヒーローというよりかはやられる前の中ボスのような台詞である。
「……くっ、くそう。しかしここは一旦退散するしかない状況でござる。覚えてろ超常現象研究サークルめ」
土方は唇を噛み締め松田の肩を突き、倒れている近藤のもとへ駆け寄った。
「諸味……リョウコちゃんが! そんな……」
近藤は頭を抱えて我を忘れている様子であった。まるでリストラ、離婚、借金を抱えたサラリーマンのように人生の生きる意味全てを奪われた光景である。
「行きますぞ会長殿!」
ヒステリックになり暴れる近藤をずるずると引っ張りながら土方と沖田は室外へと去ったが、近藤の叫び声はしばらく扉の向こうから聞こえた。
こうしてアイドル研究会は姿を消したのだった。
「バイバイキーン」
梅沢は手を振ると椅子に座った。松田は力が抜けたのかその場に座りこみ呟いた。
「ぐ、偶然に助けられた」
「えっ。あんたの力じゃなかったの?」
竹崎は驚きを隠せなかった。全部松田が起こしたものだと信じきっていたからだ。
「そんなものあったら今頃僕は世界を支配する大魔王か世界を救うヒーローにでもなってるはずだ」
「あら、カオルちゃん。その発言、もしかしてさっきのこと超常現象じゃないかって信じてたの?」
「マジで?」
梅沢と松田はにんまりと竹崎を見た。アイドル研究会が来るまでは超常現象を全否定していたのだ。竹崎は顔を赤くした。
「そんなわけないじゃないですか! じゃあなんでアイドル研究会の前であんな見栄張ったのさ?」
「いやあ、怒ったらテンション上がって自分でも何やってるかわかんなくなちゃって」
竹崎は呆れた。自信たっぷりに見えた松田だが実は何も考えていなかったのだ。
「でもまあ、さっき言ったとおり信じる人がいなきゃ超常現象は存在しないんだ。きっと僕だけじゃなくて竹崎や梅沢先輩も信じたからこそあんなことが起こったんじゃないかな」
松田は勝利宣言とも言わんばかりに口角を上げ白い歯を見せつける表情をした。
「かっこつけんなよ、ダメ人間。ていうか私もユリ先輩も信じてないからね」
「あら、私は信じてるわよ」
「ええっ! 嘘でしょ」
竹崎はてっきり梅沢も自分と同じで超常現象など信じず一緒に部室で遊んでいるものだと思っていた。
「ごめんなさい、私嘘はつけないの。だってあったほうが世の中面白そうじゃない」
「ですよね!」
松田は仲間がいたと目を輝かせて喜んだ。
「それにさっき、本当に信じられないようなことが起きたのも事実だしね」
「ドヤァ」
「調子に乗りやがって」
松田は天狗になっていた。自分のほうが優勢だと思っていた竹崎はショックだったが、そこまで気に食わないわけではなかった。
「まあまあ二人とも、お茶でも飲む?」
「じゃあいただきます」
三人は再び座りお茶を飲み直した。騒動しいものは過ぎ去り、部室は静かになった。
「やっぱり平和が一番ね」
梅沢がしみじみと呟いた。松田は落ちた時計を見ながら先ほどの事象をもう一度起こせないか力をこめたり放ったりしたが何も異変は起きなかった。竹崎をしばらく無言で考え事をしており、やがて何か閃いたのか表情が明るくなり松田のほうに顔を向けた。
「その、信じられないことって本当に起こるの?」
「もちろんだとも」
竹崎は何かを確信したかのように笑みを浮かべて立ち上がった。
「信じられないことって本当に起こる?」
「なんで二回言うんだよ」
「私にとって、ダメ人間な松田が真面目に授業に行くのが信じられないんだけど」
松田は竹崎が何を言っているのか全くわからなかった。
「さらに単位をしっかり取ってちゃんと卒業するだなんて想像できない。そんなことがあったら超常現象なんかあっても全然不思議じゃないなー。ていうかまだ超常現象のほうが信じられるよ」
「そうねえ。ゴロウ君が授業にちゃんと出席したら空から雨が降っても槍が降ってもUFОが振ってきてもおかしくないわね」
梅沢もノリノリである。この流れを誤魔化すために松田もわざと乗ることにした。
「ついでに単位も振ってきて欲しいですね。あ、それこそ新しいファフロツキーズだ! ちなみにファフロツキーズというのは普通空から降るはずのないものが降ってくる現象のことで、有名なのが魚や蛙が――」
「黙れ」
「はい」
竹崎の制止により松田は口を閉じた。
「で、信じられないようなことって起きるんでしょ」
「さっきから自分で胸張って言ってるもんね」
「それはだなあ……」
竹崎と梅沢は追い詰めるような視線で松田を凝視していた。松田は葛藤した。自分の愛する超常現象のために今まで授業を疎かにしてきた。信じられないようなことは確かにこの世界に存在するというのが松田の中の絶対的理念なのだ。しかし竹崎は松田が授業に行くことが信じられないことだと言う。超常現象とは違えどこれに反すれば絶対的理念を捻じ曲げることになる。まして自分が授業に行けば竹崎も超常現象を信じると言うのだ。しかし松田は授業よりも超常現象調査に時間を置きたいのだ。松田は悩んだ。悩んで悩んで、一つの答えを出した。
「わかったよ! 信じられないようなこと起こしてやるよ」
「ならさっさと教授のとこ行って誤ってこーい」
「いってらっしゃーい」
松田は激しく悩み決断したというのに軽くあしらわれて傷ついた。
「ちくしょう、覚えてろ! 超常現象のような信じられないことは絶対にあるんだからな!」
先ほどのアイドル研究会と同じような負け惜しみを吐き捨てると松田はダバダバと部室から駆け出した。
「バイバイキーン」
梅沢は明るく手を振った。竹崎は落ちた時計を拾い机の上に置いた。
「はあ、疲れた」
○
「ど、どうしたでござるか!」
アイドル研究会の部室に戻った三人を凝視して、その狼狽する会長及びにずるずると引きずりながら焦燥と驚愕と失望をモンタージュしたかのような表情をしている副会長と一番隊隊長は明らかに異質であった。メンバーたちは詰め寄る。
「ままままままままさか、部室争奪に失敗でござるか?」
「我らのトップ3にそんなはずは」
「今はそれどころではないでござる!」
土方の鬼気迫る物言いに全員が押し黙った。
「情報班、現状報告をば」
「現状報告、とは……?」
部室壁際にデスクトップパソコンが4台並んでおりその前に鎮座する男たちは顔を見合わせた。
「何を言っておる。お主たちが例の通達をしてきたではないか!」
能天気な対応に沖田は苛立った。
「口に出すのははばかられる。このことについてでござるよ」
土方は先ほどの携帯画面にブラウザを起動させ最終履歴のページを見せた。が、覗き込むメンバーの反応は穏やかな困惑程度であった。
「ほほう、新作アニメの話ですかな? 確かにアイドルソングが主題歌にタイアップされるのは嬉しいですが今ではそれほど珍しいことでは」
「いやいや、こちらの政治問題の記事についてでござるよ。僅かな増税であれ大量消費を日常とする我々には大きすぎる問題。しかしそれも愛の前には小石程度の障害でしかござらんがな」
どうにも鈍すぎる。土方と沖田は違和感を感じ画面を覗き込むがどこにも熱愛報道が記載されていなかった。スクロールをし様々なリンク先も表示しては見るが諸味リョウコちゃんの最新記事といえば来月に行われる大規模ライブに関しての準備活動や取材、メディアへの露出情報くらいであった。
沖田の携帯電話の着信画面は一昨日近藤からのものが一番上に並んでいた。
二人は唖然とし固まるしかなかった。通報の声の主は? 確かに見たニュースサイトの記事は?
「さては三人とも非常にお疲れでございまするな。我ら増長する同志たちのため日夜アイドル研究と団体運営を両立させるのは至難の技でございまするからな。よし、拙者たちが先ほどまで往復練習をし極めたヲタ芸を幹部殿たちに監督してもらいますぞ」
正確すぎるほど等間隔に陣形をとり汗を振りまきながら異様にキレのある動きをする十数人を近藤は焦点の合わない目で眺めていた。
○
超常現象研究サークルは数時間前の空気そのまま、まったりとした雰囲気に回復していた。
「よかったわね。ゴロウ君が授業行く気になって」
「それが当たり前ですよ。でも、ただのダメ人間だと思っていたのに自分の好きなものに信念みたいなものをちゃんと持っていたみたいで、少しは見直したかも。やるときはやるじゃん」
梅沢は竹崎の嬉しそうに語る声色や明るい表情から松田に対する好意を感じとった。
「あ、なるほどねえ。カオルちゃんが超常現象信じてないのにこのサークルにいる理由がなくとなくわかったかも」
「ちょっと、変な想像しないでくださいよ! 私はただこのサークルの空気が好きなだけですからね」
竹崎は顔を赤くしながら必死に否定した。
「ふーん。でも部室がなくなったらゴロウ君も居場所がなくなって授業に行くようになったんじゃないの?」
「そんなことになったら松田のやつ、今度は自宅から出なくなりますよ」
「それもそうね」
冗談にしろ実際松田ならそうなることが用意に想像できたので梅沢は笑った。
「あ、それにしてもどうしてユリ先輩は敵が来るってわかったんですか?」
梅沢は一瞬動きを止めて表情を硬くした。それからゆっくりと口を開いた。
「予知能力を使いました」
「またそんな松田みたいなこと。でもさっきのこと偶然にしては出来すぎですよね。普通壁に掛けてある時計ってすごい衝撃がないと落ちないし、電話がかかってくるタイミングも良すぎだったし。超常現象……、ねえ」
竹崎は梅沢の発言は軽く笑い飛ばしたもの、先ほどの奇怪な出来事はやはり引っかかっていた。時計と壁との接合部分はどちらも綺麗な状態で無理矢理外されたわけでもなさそうだ。
梅沢は静かに立ち上がりくるりと部室内を見回しながら語り出した。
「ねえ、カオルちゃん。木を隠すなら森の中って言うでしょ。じゃあもしこの世に超能力者がいたらどこに隠れていると思う?」
「えっ? いやいや、超能力者なんていないですよ。どうせみんなトリックを使った人たちで――」
「もし、いるとしたらの話よ」
やけに梅沢が積極的だと竹崎は違和感を感じたが、言われたとおり真剣に考えてみることにした。
「まあ、目立たないところでしょうね。でも意外性のあるところにもいたりして」
「そう、まさか誰も堂々と超常現象を研究するサークルにいるとは思わないよね」
「その言い方だとまるで先輩が」
「そうまるで私が」
梅沢の目は笑っていなかった。
「じゃあさっきの出来事は全部先輩がやったって言うんですか」
「そのまさか」
「またまた、冗談はやめてくださいよ」
竹崎は冗談だと思いたかった。ここはただの暇つぶしのために過ごす部室だ。そんな日常がどこかで崩壊を始めているようだった。
「ごめんなさい、私嘘はつけないの」
そう、梅沢は嘘も冗談も一度も言ったことはない。竹崎は自分の腕が震えていることに気づかなかった。
「……じゃあ、まさか本当に先輩って――」
梅沢の口が笑った。
○
松田は教授室を出た。教授からは散々文句や嫌味を言われたがとにかく頭を下げ続けた結果、なんとか今期の残りの講義に休まず真面目に取り組めば単位はどうにかなるそうだ。
松田は部室へと帰りながら先ほどの現象について検証していた。ラップ現象にしてはタイミングが良すぎであった。奇跡か何かか。故意的に誰かが起こしたのではないかという考えが松田の中では強かった。
そう言えばあの少女も使えるのは遠隔操作の力だった。訓練を積めば他の種類の能力や使用範囲も増えると少女は語っていた。きっと今頃その少女も成長し様々なピンチを救う超能力ヒーローにでもなっているのかもしれないなと松田は想像した。
廊下を曲がりいつもの部室の扉が見えた。松田は取っ手に手をかけ、扉を開けた。
その未来は今 柴駱 親澄(しばらくおやすみ) @anroku
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