第37話

 彼は床に座し、状況を再考する。

 殺すつもりならすぐにでも出来ただろう。捕らえて虜にするにも、もっと簡易な方法があった筈だ。

 計都ケートゥは恐らく、静かにこちらを観察し、値踏みしているのだと、上人は推察した。


(見苦しい処を見せてしまったか……)


 そして彼はそのまま、静かに瞑想へ入った。



*  *  *



「まあ、とりあえずはこんな物ですわね」


 屋敷へ戻り、八咫鏡で上人の様子を観察していた計都ケートゥが、傍らの和修吉ヴァースキに微笑む。


「修養を積んでいても、とっさの事では慌てる物ですな。しかし、落ち着くのも早かったですし、見限る事もなかろうかと」

「まだですわよ。これからが仕込みですもの。さし当たり、五昼夜程は放置しておきませんとね」


 空の室内に閉じ込め、一切の刺激を与えずに放置する。

 大抵の者は一刻も持たずに根をあげて刺激を欲し、二、三日も経てば「何でも良いから見聞きしたい」と渇望する様になる。

 心をそこまで追い込んだ後、刷り込みたい事を説いていくのだ。

 法術に依らずして人心を操る、現代では「洗脳」と呼ばれる技法の一つである。


「仮にも上人と呼ばれる程の仏法僧ですからな。屈せぬかも知れませぬぞ」

「勿論、それも見込んでいますわよ。この程度に耐えられないなら、使い物になりませんもの」

「屈したならば、道理を刷り込んだ上で傀儡として用いるのですな」

「そういう事ですわ。多分、大丈夫とは思いますけれどもね」


 責めに耐え強靱な精神を持つ事を示せば、厚く遇し、治世に対して物申す立場を与えても良い。

 それに値せぬなら、高野山を御する為の傀儡として使役する。

 計都ケートゥは、冷徹な方針を事も無げに語った。



*  *  *



 法術で灯りがついたままの部屋で、上人はずっと瞑想に浸っていた。

 昼も夜も解らず、何日経ったのかは見当も付かない。

 物音一つせず、風もそよがず、ただ静寂のみが支配する。

 上人は既に空腹も感じなくなっていた。

 突如、灯りが消され、室内が闇に包まれたのを瞼ごしに感じた上人が目を開けると、程なく、正面の壁一面に、農村で田畑を耕す百姓達の光景が映し出された。


(これは幻灯とやらか。今度は何を見せる気だ?)


 上人は眼前の光景に注視する。

 百姓達は皆、十代半ばから三十位までと働き盛りの若さの男女だ。

 血色が良く、食に不自由してない事が窺えた。身なりも、ボロではなく真新しい衣である。

 また、耕作は人力ではなく、馬を使役している。伊勢の薬売りや荷役で使用されているのと同じ大型の馬で、和国の在来種でない事は一目で解った。

 牛馬の類いは便利だが、富農でなければ維持が難しい。いわば豊かさの象徴の様な物だ。


「これが、神宮の圧政から解き放たれた、伊勢の百姓の今だというのか……」


 確かに、百姓の暮らしぶりとしては、裕福な様子が窺える。神宮の圧政から脱した一揆衆は、補陀落ポータラカの庇護の下、安定した暮らしを得ているという風評は、どうやら本当の様だ。

 だが、上人にはどうにも気にかかる点があった。

 皆の瞳が一様に濁っているのだ。知性の光が失われ、呆けた様な顔でただ黙々と野良仕事にいそしんでいる。


「衣食は充分足りておる様だし、馬を使役して仕事も楽になっていよう。だが、あの眼からは喜びの一切が感じられぬ。あれではまるで、亡者ではないか……」


 訝しんだ上人がつぶやくと、どこからともなく計都ケートゥの声が響いた。


「あの者達からは、法術によって煩悩を取り払いましたの。あれ等は確かに、喜びは感じませんわ。けれども、苦しみも哀しみも一切を感じる事無く、平穏に生涯を過ごしますの」

「馬鹿な事を。あの有様はどうした事か。全く人とは呼べぬではないか!」


 上人は思わず叫ぶ。あんな物が、煩悩を捨て去った”解脱”である物か。


「あらあら。仏道は煩悩を捨て去り、解脱に至る事を説いていますのに」

「何も感じぬとはあの様な物なのか。しかし、釈尊は……」

「あれは、後世の者が美化していますわよ。一切の煩悩を取り払った者は、心は清らかで穏やかでしょうけれども、自ら考え動く事は出来ませんもの」


 仏道の開祖たる釈尊は解脱し、涅槃の境地に達したと上人は反論したが、計都ケートゥはそれを一笑に付した。


瞿曇ガウタマ 悉達多シッダールタは確かに、私共神属でも叶わぬ法力をもった”活仏”にして”賢者”でしたけれども。あれが説いた”解脱”は、自我を保つ限り到達する事が叶わぬ理想ですわよ。当人も解っていた筈ですわ」

「むう……」


 計都ケートゥの見解に、上人はうなる。


「ところで貴方は、あれ等の暮らしぶりを否としますの?」

「衣食が満ち足りていようとも、人の至るべき姿とは、あの様な物とは思えぬ」


 上人はきっぱりと否定した。


「では、これは如何かしら?」


 農村を映した幻灯がかき消え、新たな場所の光景が現れる。

 答志島とは別の、いずこかの沿岸だ。

 海には何艘もの舟が浮かび、それぞれには漕ぎ手であろう全裸の若い男が一人づつ乗り込んでいる。

 時折、やはり全裸の若い女が水面から顔を出しては、海底で拾ったあわび栄螺さざえといった貝を舟上に上げ、再び潜っていく。

 いわゆる「海女漁」と呼ばれる漁法である。

 全裸なのは泳ぐ為だ。潜る海女だけでなく舟上の漕ぎ手もそうなのは、いざという時に助けに入る事を考えてである。

 漁は順調な様で、いずれの舟も、水揚げの貝が見る間に溜まっていく。


「あの者達の脳髄には、法術を施していませんわ」


 計都ケートゥの言う通り、先に映されていた農村と違い、漁民は皆、眼が生き生きと輝いており、職に誇りを持ち暮らしに満足している様子が窺えた。


夫婦めおと舟か。実に微笑ましいが…… 補陀落ポータラカは、漁師を百姓より重んじておるのかね?」


 漁民を百姓の上に置いて差をつけるというのであれば、上人としては認めがたい。


「そういう訳ではありませんわ。農村でも、法術で煩悩を取り払った者は、極一部の咎人のみですの」

「咎人というと、神宮に与しておったのかね?」

「その様な者は、問答無用で贄ですわよ。そうではなく、あれ等は一揆衆の内から出た者共ですわね」

「ふむ……」

「改悛すれば慈悲を与えると言っても聞かず、他州へ逃げ出そうとしたり、那伽摩訶羅闍ナーガマハラジャへ矛を向ける程に性根が曲がっていましたの」


 先に映っていた農村の有様は、罪人の労役という事だった様だ。

 一揆衆に加わっていた者の内にも、中には不満を持つ者や、罪を冒す者はいるだろう。


「本来ならば首を刎ね、贄として神属の食卓に供するのですけれども。那伽摩訶羅闍ナーガマハラジャの寛恕をもって罪一等減じ、煩悩を取り払った上で働かせる事にしたのですわ」


 死罪とせず、あの様に使役しているという事であれば、必ずしも重い処遇とは言えない。

 上人もひとまずは納得した。


「一部の咎人に過ぎぬか。まあ、多くの者が、この漁師共の様に生き生きとしておるならば貴殿等の治世も…… ん?」

「どうしましたの?」


 上人は、幻灯に映る舟の一艘に目を留めた。

 乗っている漕ぎ手の股間、男根の根元にある筈の陰嚢が見当たらない。


「あの男…… ふぐりがぶら下がっておらぬな。怪我でも負ったのだろうか?」

「流石ですわね。こちらから示す前に、良い処に目をつけられましたわ」

「というと?」


 上人は怪訝そうに聞き返す。


「この漁村の者は、男子は睾丸をもぎ、女子は子袋と真子 ※卵巣をえぐった上で玉門※膣口 を塞いでありますの」

「それでは、交合の悦びもなく、子を為す事も出来ぬではないか!」

「まさにその為ですわ。色欲の元を取り去る事で、あれ等は交合を欲しなくなっていますの。子も生まれませんから、いずれ村も絶える事になりますわね」

「一体何故、その様な仕打ちを!」


 立川流は、男女の交合による精神の昇華を重視する。色欲を取り去るとは、それを真っ向から否定するに等しい。

 また、子孫を残させないというのは、長い目で見れば鏖殺も同然である。

 皇国の辛辣な行いに、上人は声を荒げた。


「最初にお見せした百姓共は、”改悛しなかった”咎人ですの。この漁師共は悔悟しましたから、あれで済ませたのですわ。明国風に言えば”宮刑”ですわね」

「一体、何の咎と言うのか……」


 本来ならば死罪というのだから、余程の事に違いない。神宮に与した咎ではないというならば、何をしたというのだろうか。


「賎民に暴虐を振るい、特に女を手込めにした罪ですの。加護を与える際、一揆衆にはそれまでの事に赦しを与えた上で、厳しく禁じたのですけれども。神宮を倒した後も、隠れて行っていた者が多かったのですわ」

「……左様か……」


 一揆衆は、自分達が神宮の圧政から解放される事は願っても、より低い身分の賎民達を虐げる事は改めなかったのだ。補陀落ポータラカが賎民を憐れみ、解き放つ事は拒んだのである。

 まさに自業自得である。上人も、皇国の与えた罰を非道として責める事は出来なかった。


「皇国も甘かったのですわ。暮らしが楽になれば、立場の弱い者を虐めて鬱憤を晴らす様な真似を止めると思っていましたのに…… 長年に染み渡った性癖は改まらず、殆どの者がこれを密かに破りましたわね」

「殆どとは。なれば、いか程の民が同様の罰を受けたのかね?」

「一揆衆の内、およそ九割五分ですわね。無辜の者は、僅かに五分。これは、賎民自身を除いての事ですわ」

「何、だと!」


 罰を受けた者の数を聞いて、上人は驚き絶句した。

 今や、伊勢に住まう民の殆どは咎人というのだ。

 話を聞く限り筋は通っているが、あまりに苛烈ではないか。このままでは、伊勢が数十年もすれば滅びてしまう。


「旧き世の因習を絶つには、その悪癖に染まった者共に子を育てさせてはなりませんの。贄として一揆衆に差し出させた子等、そして各地より買い集めている赤児等は、新たな伊勢の民として一門の手で正しく養育しますわ」

「それが、貴殿等の望みか……」

「ええ。新しき世の建立の為に」


 今を生きる者達が死に絶えた後、自らの理想に染め上げ育てた若者達によって、新たな国を造り上げる。

 その壮大な構想と、そして単なる鏖殺よりも遙かに狡猾で非情な手段に、上人は慄然とした。

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