第36話
「まずは、拙僧に何が出来るか、見極めねばならんでな。色々と見せて頂こうと思っておる」
「宜しく御願いします!」
児童達は、上人が皇国へ協力する事を微塵も疑っていなかったが、上人はあえて結論をぼかし断言を避けた。
ここにつれて来られた以上、上人の退路は既に無いのだが、立ち位置についてはまだ考慮の余地がある。故に、うかつな言質を取られてはならない。
一方、
* * *
次の講義があるとして児童達が一礼して辞した後、
これは上人の記憶にない真新しい建物で、
大きさはと言えば、通常の蔵の三倍程もある。
中に入り、法術の灯りがともされると、そこには幾つもの真新しく大きな棚がしつらえてあり、数え切れない程の書物が丁寧に並べられていた。
書棚はとても高く、およそ二丈 ※約六m 程。人間はおろか、
「これは!」
「ここは書庫ですの。まだ一部ですけれども、一門の蔵書を国元から運び込みましたのよ」
「これ程の書物が……」
上人は、書庫に収められている蔵書の量に驚嘆した。仏典を多く所蔵している高野山でも、全くかなわないだろう。
通常の本や巻物の他、木簡や竹簡、獣皮や布が使われた書物もある。よく保存されているが、相当の年月を経ている事は一目で解る代物だ。
紙が考案されたのは後漢の代である事を知っていた上人は、それが使われていない書物は、よほどの古書なのだろうと考えた。
漢文や梵文だけでなく、見たことも無い異国の文字らしき物で書かれている物も多くある。
”皇国の智を司る”と称するだけの事はある様だ。
「特に興味がおありなのは、仏道の経典でしょうね。あれは、世代を経て広く伝播すると共に、独自の解釈が加えられ…… 和国で用いられている物の多くは、原典とは大きく変わっていますもの」
「では、ここには、原典があると!」
「勿論ですわ。写本ですけれどもね」
「お…… おお!」
釈迦入滅直後に、十大弟子を中心に編纂された原初の経典。仏法僧なら誰でも、垂涎の代物である。
示された棚に上人は駆け寄り、並べられた巻物を恍惚の眼でみつめた。
「敵ながら、とても興味深い考察が纏められていますわね」
「敵……!?」
剣呑な言葉を聞き、上人は我に返ると思わず振り返り、
「ええ。
ちなみに、十大弟子として著名な
つまり、原初の仏道教団で、開祖に近い者から造反者が現れたのは、皇国の仕業だと
「何故…… その様な事を……」
自らは仏道の開祖へ敵対する立場であると、穏やかな顔で淡々と告げる
暴虐に明け暮れる悪鬼、
だが、この思慮深き
「
「
「その通りですわ。神属は人を贄にしなければ生きられませんもの。それを”悪”とされれば、共にある事は出来ませんわね」
生きる為と言われれば、上人もそれを真っ向から否定する事は出来ない。
人間と捕食関係にある神属が共存するのは、やはり至難の事なのだ。
だが、それが解っていたからこそ、釈尊は
「成る程…… ならば何故、仏典をこの様に集めておるのか。憎き敵の教え等、唾棄して然るべきであろう?」
「争った相手の全てを否定するのではなく、探求し、優れた点を取り入れる事こそ、賢しき姿勢と思いません?」
「ふむ……」
敵に学ぶ。理にかなってはいても、なかなかに出来る事ではない。
上人は、
「それに、ここにあるのは、原初の仏典だけではありませんわ。仏道各派による後代の物は元より、古今東西、神属・人間を問わず、様々な賢者が探求した学術の成果を集めていますの」
「ほう?」
「例えば、印度よりも遙かに西方の国である、
仏道者の多くは、発祥の地たる天竺を、英知の中心と考えている。
だが、彼の地から来訪した
未知の領域からの知識をも貪欲に集めている彼女に、上人は改めて畏敬を感じた。
「そういった様々な知識を学んだ上で、自らの考えを定め、御政道、即ち民草への導きへ活かす事が肝要なのですわ」
「耳の痛い話であるな……」
浮世離れした理想を説くばかりでは、衆生の心へは届かない。民が欲するのは、暮らしをいかに良くするかという”現世利益”なのだ。
「皇国の世造りがいかなる物か。興味がおありでしょう?」
「是非、御聞かせ願いたい」
上人の求めに、
「結構ですわね。でも、その為にはまず、無心になって頂く必要がありますの」
「曹洞、臨済が行っておる”禅”の様な物であろうか?」
「似て非なる物ですわね」
すると床の一角に穴が開き、地下へと続く階段が現れた。中は薄暗い物の、法術による物らしい灯りがともされている。
上人は手招きされるままに
丁度、百八段を降りた処で、屈強そうな鉄扉が正面に立ちはだかる。
「こちらへ」
扉を開いた
調度品は何もない。四方の壁、天井、そして床も無地の板張りという、殺風景な部屋である。
上人が部屋を見回していると、背後で扉がきしむ音がした。
振り返ると扉は閉ざされ、
上人は扉を開こうとしたが、重く閉ざされたそれは、全くびくともしなかった。
「
上人は扉を激しく叩き叫んだが、答える声はない。
「閉じ込められたか……」
囚われの身となった事を悟った上人は、己の迂闊さをかみしめると座り込んだ。
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