第7話
「今の伊勢は、民にとって楽になったんですね」
「まあ、そういう事ですわ」
姥棄ての慣習がないという事は、きっと伊勢は豊かになったのだろうと童は思った。
子返し・間引きといった、乳幼児の殺処分に比べ、姥捨てについては和国でも行っている地域は多くない。年長者に敬意を払う習俗が、それを妨げていた。
搾取が厳しかった伊勢でも姥棄ては行われていなかった。逆に言えば、神宮統治下の伊勢に比べれば幾分かはましな童の村では当然の事として行われていたのである。
童の認識は”美しい誤解”に基づく物だと
「食後に、もう一杯どうぞ」
給仕が、飲み干されて空となった二人の湯飲みに熱い緑茶を注ぐ。
伊勢では百姓も飲める様になっていると聞かされた後なので、今度は童も遠慮無く、湯飲みを手にする。肉の濃い味が緑茶ですすがれ、口内がさっぱりとした。
「あんな旨いもん、初めて食いました」
童の感想に、給仕もにこやかに応じる。
「私が屠り、捌いて干した物をお出ししたのですが、お口に召して頂けた様で何よりです」
「その細腕で牛を殺してばらしたんですか。それは凄い!」
(ほう?)
給仕は自分が四つ足の獣を解体した、つまり”かわた”である事を暗に示した。
彼女は平家の一員であり、童を試す為、予め
「……私の生業を聞いて、何とも思わないのですか?」
「ああ、百姓とか馬丁は牛馬を大切にするから、そういう生業を嫌うもんが多いかも知れんですね。でも、山奥に住んでおる俺等は関わりがあまりないですから」
同じく罵声を浴びせられるであろうと思っていた給仕も、やや拍子抜けした様子で問い返した。
答によると、どうやら童のいた村では、かわたと接する機会が乏しかった為、賤視する事があまりなかった様だ。
童はかわたが賤視される理由を、家畜を使役する百姓や荷役と、その屍を得て加工するかわたとの間の利害の対立による物と考えていた。確かにそれも一因ではある。
死んでしまった牛馬の屍を、村外れの捨て場へ泣く泣く百姓が棄てに行く。かわたはそれを当然の権利として持ち去り、解体して細工物にし、商人に売って銭を得る。
大切な財である牛馬の死という不幸が、かわたにとっては飯の種なのだから、どうしても忌々しく思われてしまう面があるのだ。所詮は逆恨みという物だが……
(結構ですわな。法術で傀儡にせず、躾のみで曲がった根性を叩き直すのは、結構な手間ですからな)
給仕もまた、
だがこの童も、かわたと日常で接する機会があったなら、どうなっていた事か。
直に利害が対立せずとも貧しい平民の常として、自分達より身分が低いとされるかわたに鬱憤をぶつける様になったかも知れない。
山奥で暮らしていた為に、その様な悪習を身につけずに済んだのは童にとって全く幸運だったのである。
* * *
二人が茶屋に着いてから一刻は経った頃、桑名の方角から一台の馬車が到着した。
漆で塗られ、金箔で縁取られた車体の両横に、古の宮殿をかたどった
牽いているのは馬ではなく、一頭の白虎。
虎、そして乗用の馬車のいずれも見た事がなかった童は、その威容に唖然とした。
「でっかい縞模様の猫が、豪勢な荷車を牽いておる……」
「わては猫やおまへんで。虎ですわ!」
童が漏らした言葉に、
童は”猫”が返事をした事に一瞬驚いたが、口をきく狼が居るなら、その様な獣が他にいても可笑しくないと思い返す。
そもそも、自分自身が人間ではないのだ。
「す、すいません。俺は田舎者な物で」
「和国では元来、虎がおりませんでな。知らん者がおってもおかしくはありませんわな」
「……まあ、ええけど」
慌てた童の弁解に続き、
「それにしても、主上の名代として近衛が来るとは聞いておりましたが、よもや筆頭殿が直々にお出迎えとは」
「めんこい童っちゅう話やもんだから、わても早う見たくなったんや」
異例の対応を訝る阿瑪拉だが、
改めて、童を舐める様に見る。
「ほんま、良さげな子やなあ、
「当然ですわ。夕べ、儂の胎に胤を仕込みましたで、良くすれば子が宿ると思いますわ」
「幼い様に見えて、胤の役目はきっちり果たせるっちゅう事ですな。ええ牡が来て、ほんま羨ましいなあ」
下腹をさすりながら自慢げに答える
事情を知らない童は、龍神の眷族は女であっても色事に対して明け透けなのだろうと考えた。神に近しい存在であっても、色欲を隠して体裁を繕う様な事はしないらしい。
「ともあれ、桑名に行きますよって、乗ったってんか」
* * *
街道を南へしばらく進み、桑名に入った馬車が向かったのは、元の宿場街だ。
一揆衆により主が悉く捕縛され、建ち並ぶ宿屋も接収されている。
州境を閉ざして参拝客が途絶えた為、建物の多くは皇国の兵や官吏が住まう官舎に転用されている。
山奥暮らしだった童は、これまで街と言えば石津しか見た事がない。宿場も簡素な物が多かったのが、桑名のそれは幾分か立派で、数も倍以上ある。
通行している者の殆どが人間ではない事に、童は気付いた。
筋骨隆々として角の生えた、恐らくは”鬼”が多いが、他にも六本腕の者、鳥の様な翼を背に生やした者、車を牽いているのと同じ白く大きな虎、全身が水の様に透けた者といった、様々な異形が闊歩している。
人間らしい者もいない訳ではないが、数はさして多くない様だ。
「ここが、お主の身の振り方が決まるまでの当面の宿ですわ」
「こ、ここですか!?」
駐められた馬車を降りた童は、目を点にした。
馬車が横付けした建物は、周囲と比べて特に豪勢だ。一門が桑名で活動する際の詰所として確保していた、最も上等の旅籠である。
「何、一揆の戦利品ですから遠慮はいりませんわ。建っておるもんはきっちり使いませんとな」
「は、はあ……」
「ほな、わては行きますよって。無事に連れ帰った事は、主上に一報を入れときますわ」
「今日は御苦労さんです。ほんじゃ、中に入りますかな」
* * *
旅籠の中で二人を出迎えたのは、
肌の色もやはり白く、背丈も高め。衣も
これが
彼女達は人間が多数を占める一門の学徒にあって、数少ない人狼である。
「
「は、はい。宜しく御願いします」
「まずは疲れを癒し、体を清めると良いでしょう。さ、こちらへ」
童は学徒の一人に案内されるまま、建物の奥へと入っていった。
通されたのは、大きな岩風呂である。
「こちらが、当宿のお風呂となっております」
「す、凄い! これが風呂ですか!」
当時、入浴の習慣は必ずしも一般的でなかった。体の汚れを落とすのは、数日に一度の行水や清拭き程度に留まる地域も珍しくはない。
童の暮らしていた村でも同様であり、風呂という物は知っていたのだが、自分が浸かるのは夢のまた夢だった。庶民にとって入浴は、水や焚き物を費やす、贅沢な行為なのである。
「御入浴の間に、御召し物は新しい物を用意させて頂きます。ごゆっくりどうぞ」
童は早速、間に合わせで着せられていた女物の衣を脱いで、素裸になって湯へと浸かってみる。
少しぬる目の湯は、昨日からの疲れをほぐし、童の肉体を優しく包み込む。
初めての入浴に、童はすっかり虜になってしまった。
「風呂って、気持ちいいなあ…… こんな贅沢をさせてもらっていいんだろうか……」
(齢十三の割には、随分と小柄ですねえ)
(でも、とても可愛らしいではありませんの)
(愉しみ、愉しみ!)
心地良い気分に浸っている童は、戸の隙間から学徒達が色欲にまみれた視線を注いでいる事に、全く気付かなかった。
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