第5話

 若き狼が目覚めると、床板の冷たさが感じられた。

 昨日、日が暮れた頃に廃村へと着き、この家に上がり込んだ処までは覚えているのだが、いつの間にか眠りこけてしまっていたらしい。

 自分を連れてきた牝狼によって神通力で灯された光は消えており、代わって天窓から日が差し込んでいる。

 物音は殆どせず、屋根の上から数羽の雀が戯れる鳴き声だけが聞こえてくる。

 空き屋での雑魚寝で一夜を過ごしたせいか、それとも山林を歩き通したせいか、何となく躰の節々が痛く感じられる。しかも素裸で眠ってしまった様で、これが冬だったら凍えていた処である。


(素っ裸……?)


 若き狼がふと自分の右腕を見ると、人間のそれに戻っている。

 立ち上がって見ると、普通に二足で立てた。

 玄関先には水が張られた大きなたらいがあり、覗くと元の自分の顔が映っている。 男児というのに少女の様な顔立ちで、村の者達から揶揄混じりに”器量良し””別嬪さん”と評される度に情けない思いをしていたが、狼の姿になった後では、戻れた事に安心した。


「人間に…… 戻った……」


 思わずつぶやいた一言が、喉から声として出た事で、若き狼であった童は、自分が元の姿を取り戻している事を実感した。


「そういえば、あの狼はどこに行ったんだろう?」


 童は、自分をここまで連れて来た雌狼の姿が見当たらない事に気が付いた。屋内を見回してみても、ここにいるのは自分だけだ。

 どうしたものかと戸惑っていると、玄関の戸が音を立て開き、童は思わず身構えた。

 入って来たのは、長い赤毛に色白、筋が付いて引き締まった長身。白一色の布を躰に巻き付けた様な衣を身に纏い、頭からは獣の耳、口からは牙が覗いている、見るからに異形の女だ。人型をとった阿瑪拉アマラである。


「あ、あの。もしかして、ここの人、です、か?」

「儂ですわ、儂。昨日、村へ迎えに行った、お主の同族ですわ」

「え、え?」


 童の戸惑う様子に、阿瑪拉アマラは呆れ声で自分が何者であるか話す。


「儂等が人間の姿にも化身出来るというのは、迎えに行った時に教えた筈ですけどな」

「す、すみません……」


 魅眼で理性を奪って発情させた為、昨晩の記憶がおぼろげであろう事は阿瑪拉アマラにも解っている。だが、迎えに行った村で、人狼が人間に化身出来る事は話してあったのだがら、眼前の女が自分である事に気付けなかった事には少し落胆した。

 やや強い口調の阿瑪拉アマラに、若き狼は萎縮してしまう。


(夕べまぐわいながら探ったら、頭の出来はおよそ十三だったもんで期待しとったんですけどな。推し量る力は少々弱いかも知れんわ。ま、突飛な事が起きた時、頭が鈍るんは仕方ないですわな)


「まあ、ええですわ。とりあえずですな、寝とる間にお主の身の丈の寸を測りましてな。この村に残っておる衣の内から、着られそうなもんを見繕ってきたんですわ」


 そう言いながら阿瑪拉アマラは部屋へ上がると、手に持っていた一着の衣を、童へ手渡した。

 童は衣を受け取って広げたが、思わず引きつってしまう。

 麻で仕立てられた小袖、即ちこの時代の和国における、女物の衣である。


「これは…… おなごの着るもんで……」

「済みませんがな。お主の体格に合う衣で程度のええもんが、それしか無かったんですわ」


 躰をわなわなと震わせて不満を漏らす童に、阿瑪拉アマラは申し訳なさそうに告げる。

 阿瑪拉アマラの言う通り、この小袖は真新しく程度が良い。元の住人が残していった中で、童の寸に合う内から最良の物を選んだというのは本当だろう。

 頭では解る物の、女物の衣を着よと言われると、童にはやはり抵抗がある。


「どうしても嫌なら、狼の姿に戻って街まで下りるのでもええですけどな」

「そ、それは……」

「ほんじゃ、着て下され。そのまま裸ん坊という訳には行きませんからな」


 阿瑪拉アマラに言われ、自分が裸体という事に気付いた童は、慌てて両手で、股間の小振りな物を隠す。その恥じらう様子に、阿瑪拉は《アマラ》牙を剥き出して微笑んだ。



*  *  *



 渋々ながら小袖に袖を通した童を、阿瑪拉アマラはまじまじと見つめる。


「これは…… 中々に別嬪ですわ……」


 この童はどう見ても、可憐な娘にしか見えないのだ。元々、神属の男子は中性的な容貌が多いのだが、それを考えても別格である。

 感嘆した阿瑪拉アマラの顔を、童はにらみ付けた。


「何か、不味い事がありましたかな?」

「そう言って、俺は村の若い衆にずっとからかわれて……」

「あ、ああ、済みませんな」


 眼に涙を溜めて悔しそうにする童に、阿瑪拉アマラは褒め言葉のつもりで言った言葉を揶揄として受け止められた事に気付く。

 皇国の美醜感と異なり、人間の世の多くは男子に逞しさを求める。それに当てはまらない容姿を持つこの童はきっと、心ない軽口に傷つけられていたのだろう。


「儂等の間では、顔立ちの美醜は男女とも代わりませんでな。その容貌は十二分に誇れる物ですわ。お主の仔もきっと美しゅうなると思うと、今から楽しみですわ」

「児? 俺の…… 児ですか?」


”お主の児”と言われ、童は胸中に湧き上がった黒い物を思わず忘れ、聞き返す。


「そうですわ。夕べ、儂とまぐわって胤を注いでくれましたもんなあ」


 自らの下腹をさする阿瑪拉に、童の頭には昨晩の出来事が徐々に蘇って来た。


 瞳を見つめられた途端、股間が激しく熱くなって、求められるままにこの女に覆い被さり……


「首尾良く孕んで、立派な児が産まれるとええですなあ」


(この人は…… 俺を婿にするつもりで……)


 童の頭に浮かんだのは、命を育み父となる事への戸惑い、不安ではなかった。

 夜這いの習俗がある村では、孕んだ女の側が児の父が誰かを指名し、名指された者が夫となるのが掟である。

 また、女の側が同時に二股、三股をかけるのも普通の事だ。何しろ、人生を委ねる相手を定めるのだし、体の相性はまぐわってみなくては解らない。

 結果、第一子は夫の実の子でない事も往々にしてあるのだが、元々、村内全てが縁戚にあるので、大して気にはされていないのだ。

 童もこの慣習は当然に受け容れており、経緯はどうあれ、まぐわった相手に名指しされれば受けるのが男子の勤めであると考えていた。

 それに元々、寺の色子として衆道の相手を務める筈だった事を思えば、曲がりなりにも婿入りという事であれば悪くない話でもある。

 一財産程の銀を支度銭として積まれた事から考えても、この牝狼が相当の身代しんしょ持ち ※資産家 である事は疑いない。

 だが、どうかすると親子程も歳が離れた相手と、出会ったその日の内にまぐわって児を為そうとする牝狼の思惑を、童は測りかねた。


(狼の里には他にも仰山、牡狼がおるだろうに。何で俺なんだ?)


 童が己の置かれた状況にただ従うだけでなく、背景に疑問を持ち始めた様子を見て、阿瑪拉アマラは好感を持つ。


(儂にただ素直に従うだけなら、つまらん凡百だったけれども。この仔は自ら考える事が出来る様ですわ)


「そろそろ出立しますわ」


 促された童は阿瑪拉アマラと共に、一夜の宿とした空き屋を後にした。



*  *  *



 廃村を出て、山道を道なりに進む。切り出した樹木を馬で運び出す為の道なだけに、ある程度の道幅があって歩き易い。

 山林を抜け、平地に出て暫くすると、両脇に松並木が植えられている太い道へと出た。


「ここからは街道になっとりますわ。南の方が、儂等が向かう側ですわ」


 阿瑪拉アマラは方角を指し示し、二人は目的地へと再び歩を進める。

 道には荷車が通った轍がくっきりと刻まれ、往来が盛んな事を伺わせた。だが、その割には通行人が全く見当たらない。

 村から殆ど出た事が無い童だが、流石にこれは奇妙に思えた。

 歩きながら、童は阿瑪拉アマラに疑問を投げかける。


「街道って、こんなに寂しい物なんですか?」

「半年程前までは参拝客で賑わっておったそうですけどな。一揆で神宮が潰されて、州境も閉ざしてからはこんなもんですわ。もっとも、荷を運ぶ車は通りますから、大切な道というのは変わりませんけどな」

「……ここは、伊勢なのですね?」


 神宮と聞き、童はここが、一揆による下克上が成って以後、州外からの入境を拒んでいる伊勢の領域である事を悟った。

 童の問いを阿瑪拉アマラは認めると共に、自らの素性を語る。


「そうですわ。伊勢の一揆衆を加護した龍神様、正しくは那伽摩訶羅闍ナーガマハラジャと仰るんですけどな。儂はその配下なんですわ」


 天竺から来訪し、伊勢で興った一揆に味方して下克上を成就させたという龍神は、眷族として鬼や夜叉といった様々な妖を率いているとの話が、美州にも伝えられていた。その内に、人間に化身出来る狼がいてもおかしくはない。


「どうして、村を出る前に教えてくれなかったのです?」

「儂等が伊勢の外におる、和国在来の同胞はらからを引き入れておる事を、他州に知られたらいかんという訳ですわ」

「隠さねばならない事なのですか?」

「他州の大名やら、幕府やらが伊勢をますます警戒しますからな。戦を仕掛ける支度じゃないかと思われては、交易に差し障ってかないませんわ」


 伊勢は他州に侵攻して天下を統一する気がなく、ただ自分達の領地を守りたいだけなだろうと童は思い、少し安心した。

 戦など、民にとっては迷惑でしかないのだ。兵糧や矢銭 ※戦費 として税は上がり、賦役として足軽や荷役を村から出さねばならないのである。


「儂等の数は、それ程多くないのですわ。今の数でも、幕府や他州の大名を全て滅ぼして、和国を丸ごと盗る事は出来ますけどな。盗った後に治める事が出来なければ、何の意味もありませんわ」

「余所に隠しておる様な事を、俺に言っちまって良いんですか?」

「お主は既に儂等の身内ですわ。それに、伊勢で暮らしておれば、じきに解る事ですしな」


(もう村には戻れないから、隠し事を打ち明けてもいいという事なんだな……)


 牝狼が当然の様に返した言葉に、童は衝撃を受ける。

 解りきっていた事ではあるのだが、童は改めて思い知らされ、胸が締め付けられる様な心の痛みを味わった。

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