第7章 樵に育てられた人狼
第1話
美州、即ち美濃とは、伊勢の北方で境を接する州だ。その南端に位置する州境に、石津という村がある。
ここは半年程前まで、伊勢神宮へ参拝に向かう旅人が利用する宿場の一つとして栄えていた。しかし、伊勢が一揆衆の支配となった為、現在は参拝客の足が途絶えてしまっている。
一方、他州からの入境を閉ざす伊勢は、美州との交易拠点を州外のここに構える様になった。その為、石津は以前よりもかえって多くの人で賑わう様になっている。
港があり多くの商船が訪れる、尾州の熱田とは比べるべくもないが、ここ石津も伊勢が他州に開く窓口の一つなのだ。
主な交易の品は、伊勢からは医薬の他、魚介の乾物、そして海を持たぬ美州で貴重な塩。美州からは木材や石材、そして記録や通信に欠かせない紙である。
また、交易の拠点ともなれば、出入りする者に酒を供する商売もある。
店を構えた居酒屋も数件あるのだが、零細な行商人や馬丁にとっては懐が心許ない。
その様な者達が飲み食いをするのは、安くあがる屋台である。石津では百姓の女房による副業として、雀や鮎、
同業者の座によって利権が固められている店舗と違い、屋台・露店の類については、日払いの場所代を元締めに払えば、場所を割り当てられて店を出す事が出来る。それを利用し、
間諜は客に安酒や肴を供しつつ、彼等の話題に耳を傾ける。酔漢による噂話は玉石混淆ながらも、時として貴重な報を得られるのだ。
* * *
ある昼下がり。
荷を運び終えて石津に戻って来た初老の馬丁の前には、いつもの様に屋台が建ち並んでいる。
馬丁は帰る前に一杯引っかけようと馬を木に繋ぎ、馴染みとなった一件に席を取った。
まだ混み合うには早い時分で、客は彼一人である。
「姉ちゃん、一杯くれや!」
「はいよ」
馬丁が懐から取り出した銅銭を勢いよく机に置くと、屋台主の若い女 ……正体は齢五十程の
年貢米に使えない様な屑米を仕込んだ物で、清酒を飲み慣れた者ならばとても口に出来ない代物だが、しがない民草にも手が届く安値が取り柄だ。
ささいな事だが、この屋台の椀は他よりも少々大ぶりで、かつ一杯の値段が余所と同じであるというのが、馬丁が
他の屋台では、器が小さめな代わりに質の良い
馬丁は差し出された白く濁る液体を、喉を鳴らして一気にあおる。
「かあーっ! うめえ! こいつの為に生きてるって気がするぜえ! 姉ちゃん、もう一杯!」
馬丁は袖で口を拭うと、再び懐に手を突っ込んで銭を出し、二杯目を注文する。
「あんた、銭は大丈夫かい?」
「おうよ! しばらく前まで食うので手一杯だったのが、ここんとこは手間賃が良くなってきてよお。こうして呑む位の余裕はあるってもんだ!」
「稼いでるんだねえ」
客の懐具合を心配する屋台主に、馬丁は威勢良く答える。
屋台主は空の木椀に、柄杓で二杯目を注いだ。
「あんたは確か、専ら切り出した丸太ん棒を山から運んで来るんだっけねえ」
「ああ。山道で馬に丸太を牽かせるってえのは、結構難しくってよう。付け焼き刃で出来る仕事じゃねえ。馬も急には増えねえしよ。引く手数多で、龍神様様ってもんだぜ」
馬丁は自らの仕事を自慢げに答えた。
伊勢は復興に使う為の木材を、近隣の州から多く買い付けている。その為、伐採した木材を山林から運び出す荷役の需要も高まっていた。
結果、荷役に従事する馬丁の立場が強くなり、手間賃が徐々に上がっているという訳だ。
一揆衆の背後にいる龍神とその眷属について、”景気を盛り上げる有益な存在”として、近隣州の民草の間で好印象が広まっているのは、美州も尾州と同様である。
「ところで何か、面白い話はないかい?」
「そうだなあ……」
屋台主の問いかけに馬丁は少し考えると、これはどうだと口を開く。
「俺が出入りしてる、
「倅? 娘じゃないのかい?」
「それがまあ、どう見ても娘っこにしか見えんけれども、倅なんだわ」
”
「歳は幾つ位だい?」
「実の子じゃなくて、十と三年前に拾ったと言うとったがよ。赤児だったってえから、歳もそんなもんじゃねえかな」
「拾ったって、
山中で樹木を伐採して生計を立てる
「それが、不思議ないわくがあるんだわ……」
馬丁は、
十三年程前の事。
子の出来ぬ事で悩んでいた
祠に祀られているのは狼。猪や熊といった害獣を除けるというのが御利益である。
ある朝、夫妻が願掛けに祠を訪れると、一頭の白い雌狼が事切れていた。またその遺骸の側には、臍の緒が付いたままの人間の嬰児が泣き声をあげていた。
組頭夫妻は驚くと共に、その嬰児を神からの授かり物として喜び、我が子として育てる事とする。
雌狼の遺骸は神の遣いとして、丁重に神社へ葬られたという。
(和国にも在来の人狼がいたか!)
白い体毛は、智恵を備える狼”人狼”の特徴だ。また、人狼の赤児は時折、狼ではなく人間の型を取って誕生する事もある。
重要な情報を得た屋台主は、表情に出さぬままに内心でほくそ笑み、さらなる話を引き出そうとする。
今聞いた話から考えるに、死んでいた人狼は”神”として祀られてはいても、存在を露わにし、加護を与えて人身御供を受けるという様な盟約を結んでいた訳では無い様だ。
「狼が人の子を産んだってのかい?」
「まさか、狼が人の子を産む筈もあるめえ。浚ってきたっちゅうか、棄ててあった子を食おうとして運んで来たんだろ」
馬丁が一笑に付した事で、屋台主はさらに考察する。
(人狼という種の存在は、この地では知られていない様だ…… 狼が祀られているというのは人狼ではなく、単に益獣の狼への感謝からか? 或いは、大古には人狼がいた物の絶え、世代を経て忘れられたか……)
「姉ちゃん、どうした?」
考え込んでいた屋台主だが、馬丁に声を掛けられて我を取り戻した。
「あ、ああ、ごめんよ。三杯目いくかい? 話が面白いから、この一杯は奢りだよ」
「ありがとよ!」
空の木椀にお代わりを注がれ、馬丁はすっかり上機嫌だ。
客を諜報の為の耳目として”飼い慣らす”には、この様にちょっとした褒美が効果的である。
「その童の養い親は
「それがよう、出家するっちゅうんだわ」
「出家?」
「石津にある寺の和尚から、前々から小僧に欲しいって請われておったらしいんだわ。これまでは跡取りだからっちゅう事で、養い親が拒んでおったんだけどもなあ」
「住職から小僧にしたいって見込まれるんなら、頭が回る子なのかい?」
「読み書きが達者で、帳簿も付けられる子だけどよ。ありゃあ、坊主っちゅうより、器量に目を付けて色子にするつもりじゃねえかって評判だわ。あそこの和尚は全く、好色な
色子というのは、男色の相手を務める少年を指す。一部の宗派に例外はあるが、通常、仏法僧は女人との交合が禁じられている。その為、代用として少年を囲うのである。
「色子ねえ…… 坊主っても随分と生臭なもんだねえ。養い親もそりゃ拒むだろうよ。なんでまた今更、受ける気になったんだろうね? 銭を積まれたのかい?」
「それもあるかも知れねえけど。去年、組頭に実の子が出来てなあ。跡目はそっちに継がせたいんじゃねえのかな」
「用済みの養い子はさっさと売るって訳かい。随分と薄情なもんだ」
「まあ、狭い集落だからよ。家を継いで残れるのは一人ってのは仕方ねえ」
屋台主は嘆息したが、馬丁からはあっさりと割り切った答えが返って来た。
跡継ぎ以外の子が家を出されるのは、どこの家も同じなのである。
件の少年が家を出されない場合、後に生まれた赤児がいらぬ子として間引かれたという事も充分に考えられる。双方を生かしたのだから、養親が薄情であるとも言い切れなかった。
「ま、尻を差し出して掘られてりゃ、白い飯も食えて可愛がってもらえるからよ。言う程悪い話でもねえ。最初は痛えけど、その内”けつめど”も馴染んで具合も良くなって来るからよう。そしたらもう、毎晩が極楽浄土だわ」
「あんた、衆道の気があったのかい?」
まんざらでもなさそうな馬丁の口調に、屋台主はもしやと問うと、返って来たのは予測通りの答えだった。
「おうよ。これでも昔は、俺も寺の色子だったのよ。村一番の美童で通ってたんだぜ?」
「あんたが?」
目の前の冴えない初老の男が、かつては美しかったと聞いて、屋台主は耳を疑った。
「頭が良けりゃ、そのまま寺で一生食えて、坊主丸儲けって奴だったがよ。顔と尻の具合だけが取り柄で、経文どころか読み書きも覚えられねえ阿呆なもんだから、坊主としては落ちこぼれだ。
「顔が取り柄、かい…… 年月の流れは残酷だねえ」
「言うねえ。けどよ、姉ちゃんだって、歳を食えば梅干し婆だぜ!」
呆れた顔の屋台主に、馬丁は豪快に笑った。
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