第68話

 翌日。

 日が高く昇っても、普蘭プーランは未だ計都ケートゥの屋敷に与えられている自室の寝床で眠りこけていた。

 学徒にあるまじき態度だが、大きな仕事を終えた後という事もあり、休養を許されているのである。

 その傍らには歳若い羅刹兵の男子が二人、裸体のまま寝息を立てている。

 平家より引き取った阿羅漢アルハットの赤児の処遇について、普蘭プーランが割り切れぬ思いを抱いているのを見て取った計都ケートゥが、心を癒させる為、非番の新兵に夜這いを掛けさせたのだ。

 普蘭プーランは少年兵達から思う存分に精を搾り取り、満足そうに涎を口から垂らして眠っている。

 肉体の快楽に興じ、深く眠る。悩みを和らげ、心を落ち着けるには簡易で良い方法である。


普蘭プーラン姉、起きて下さい」

「ん、ああ……」

普蘭プーラン姉! 御夫君様から八咫鏡で通信が入っております!」

「御夫君様!?」


 計都ケートゥ付の当番である門妹から耳打ちで起こされ、普蘭プーランは数秒の間寝ぼけていたが、”御夫君様”の一言で目をかっと見開いた。

 そのまま跳ね起きかけたが、傍らで休んでいる一夜の相手に気付き、静かに寝床を抜ける。


「この子達は寝かしておいてあげなさい。眼が覚めたら朝餉あさげを出してあげて」

「……普蘭プーラン姉。これ、今晩は私が使っていいですか? 随分と立派な物……」

「確か、今日はこの子達が港の警護で不寝番の筈です。今宵の相手が欲しいなら別の子を見繕いなさい」


 寝息を立てている若き羅刹ラークシャサの股間にちらちらと目をやりながら尋ねる門妹に、普蘭プーランは苦笑して答えると、八咫鏡がある計都ケートゥの居室へと急いだ。



*  *  *



「導師、失礼致します!」


 普蘭プーランが勢いよく計都ケートゥの居室の襖を開けると、中では部屋の主が待っていた。


「まあまあ、その勢いなら昨晩はゆっくり休めた様ですわね」

「し、失礼しました!」

「小生は場を外しますから、活仏とゆっくり語らいなさいな」


 計都ケートゥは微笑んで、壁に掛けられた八咫鏡を示すと自室を後にした。

 普蘭プーランが鏡を覗くと、そこには言仁、主君の一方にして愛しき門弟が映っていた。


「お早うございます、御夫君様。何用でございましょうか」

普蘭プーラン姉、昨日は私達の子等を無事に送り届けて頂き、御苦労様でした」


 普蘭プーランは臣下として頭を垂れて挨拶した。

 だが言仁は君主としてではなく、門弟として、そして肉体の交わりを持ち子を為した相手として語りかけて来た。

 暖かい瞳、そして”普蘭プーラン姉”という呼び掛けが、それを表している。

 普蘭プーランは取り繕うのを止め、立場上なかなか会えない門弟の顔を見て綻んでいた。


「子の親として、直にそれらしい事をしてやれぬのは辛い事です。ですが、手ずから育ててしまっては、肉親の情が養育に歪みを生じさせます。平家が帰順した事で、一門の外であの子等を育て上げる目処がたったのは幸いでした」

「はい…… 時子殿であれば、託すに相応しいと思います」


 自分達の子の事を話しているにしては、他人事の様に淡々とした会話だ。

 だが、一門の元で、血縁による親子の絆を否定する思想を刷り込まれた言仁にとって、彼が出来る精一杯の気遣いである。

 また普蘭プーランだけでなく、一門の学徒はその殆どが、我が子に強い思い入れは抱いていない。

 学徒達が一門の思想に心酔している為だけではない。実の親から虐げられたり、また自らが産んだ望まぬ子を棄てたり”返し”たりといった経験を持つ彼女達にとって、血縁を強い絆として重んじる旧来の価値観は苦痛でしかなかったのだ。

 その為もあり、自分達が産んだ子の養育を平家に委ねる事については、一門の学徒達全てが賛意を示していた。

 皇国の為、立派な人材に育って欲しい。ただそれだけが、一門の学徒が血を分けた子に抱く願いなのである。


計都ケートゥ師にも申し上げましたが。一門が預かった平家の子弟達の教導を、学師の皆様方や、他の姉上達、妹達と共に宜しく御願いします。丁度、父親たる平家の男子達が自身の鍛錬の為に在島中です。方針については先方とよく相談して下さい」

「はい。あの童達が補陀洛ポータラカと和国の良き面を併せ持ち、皇国の礎となる役を担える様、立派に育て上げてみせます」


 既に生まれている者に限るとはいえ、平家の子弟へ身分を安堵する事について、一門の学徒には疑問の声を挙げる者もいる。世襲を廃し身分は一代限りという、皇国の方針に反する為だ。

 だが、普蘭プーランはその様な不満を抑える側に廻っている。彼女とて思う処はあるが、平家との関係を良好に保つには必要な措置である事も、充分に理解出来ていた。

 その上で自分達に出来る事は、託された子弟を、身分に相応しい様に仕上げる事である。士分としての器量がない童については、冷徹に廃嫡を平家に求め、還元して赤児に戻した上で平民として育て直せば良いだけの事と、普蘭プーランは考えていた。


「それと、件の阿羅漢アルハットたる資質を持つ赤児の事ですが」


 問題の赤児の事に話が及び、普蘭プーランは思わず身を固くする。


「平の家門より放逐し、公の子として遇するという件は承知しました。絶縁を安堵する書状を、生母に対して送った処です。今日はその事を直に御伝えしたかったのです」


 現地で話をつけた通りの処置を言仁が承諾した事で、普蘭プーランはひとまず安心した。言仁が赤児の側に同情して、平家の一員とする様に主張する事を怖れていたのだ。


「……それで、宜しいのですか?」

「子に罪はないとは言えども、辱めで望まぬ子を産んだ母側の事も、思いやらねばならぬのは当然です。落とし処としては申し分ないでしょう」

「なれば養育はどの様に致しますか?」


 母側への配慮に普蘭は感謝しつつも、実際に赤児をどの様に処遇するかは難しい問題と考えていた。

 阿羅漢アルハットとして特別扱いすれば、平家としては決して心穏やかではあるまい。

 といって、凡百の童と同様に扱い、希有な才覚を伸ばさないで済ますのでは庇護した意味がない。計都ケートゥもそれは否とするだろう。


「幼少の内は、市井より買い集めている赤児と混ぜ、共に菅島で育てれば宜しいでしょう。阿羅漢アルハットとしての鍛錬は、齢五、六才位からで充分に間に合います」

「菅島…… あそこの統括は阿瑪拉アマラ師でしたね」

「はい。既に和修吉ヴァースキ師が奥妲アウダと共に、件の赤児を託す為に向かっている筈です」


 普蘭プーランは、問題の赤児の処置が完全に自分の手を離れたと実感し、肩の荷を降ろした思いがした。



*  *  *



 和修吉ヴァースキは、問題の赤児を抱えた奥妲アウダを伴って、菅島を訪れていた。

 菅島は答志島に隣接する島で、神宮の統治時代はやはり九鬼水軍の支配下にあった。

 こちらに住んでいたのは海賊ではなく、その隷属化にあった漁民である。しかし彼等も補陀洛ポータラカの軍勢に抵抗の意を見せた為、答志島同様に住民は全員捕縛されてしまった。今は石化されて獄中で贄となるのを待つ身となっている。

 計都ケートゥは、外部からの影響が一切絶たれた離島こそが、養育の場として最適であると考えている。その為、伊勢沖に浮かぶ居住可能な離島は全て、一門の用地として押さえられていた。

 答志島が一門の本拠であるのに対し、菅島の方は皇道楽土に相応しい臣民を、無垢の赤児から育て上げる為の場だ。

 新しき世を担う子供達は外の世界を知らぬまま、ただ一門の師範が垂れる教えのみを真実として育つのである。


「答志島の講堂には鏝絵こてえが施されているのに、こちらは飾り気がないですね。童が育つ場なのですから、もう少し華やかさがあっても……」

「そう言うな、職工の手が全く足りぬのだ」


 乳児舎を見た奥妲アウダが溜息混じりに漏らした感想を、和修吉ヴァースキが窘める。

 これは一號棟であり、年に二棟づつ建て増す事になっている。

 建てられたばかりの乳児舎は実用のみを考えた造りで、大きく堅牢ではあるが一片の装飾もない。白一色の屈強な壁面は、獄舎の様にすら見える。

 雅を尊ぶ平家の者であれば、”赤児が育つにしては風情が無い”として眉をしかめてしまうであろう代物だ。

 二人が中に入ると、板張りの床には所狭しと小さな寝台が並べられ、その上には産着を着せられた赤児が一人づつ寝かされている。

 周囲では、乳母を担う女達が忙しく立ち回っていた。

 乳母達は和修吉ヴァースキを見て、慌てて姿勢を正す。だが、その要無しとして和修吉ヴァースキが手を振ると、一斉に黙礼して仕事に戻った。

 乳母は母親に代わり、赤児を育てる重要な役目を担っている訳だが、大半の者は答志島の学徒と容貌が随分と異なっていた。

 肌の色は黄で、和国の民から登用された者である事が一目瞭然だ。一門の証である純白の紗麗サリーを着けてはいるが、布地は絹でなく木綿である。

 また、下腹部が妊婦の様にふくれているのが目立つが、胎内に入っているのは児ではなく”第二の頭”だ。

 彼女達は、二人分の頭を持つ事で常人並の智恵を得た、元軽愚である。常人の智恵を十として、元は七を切っていたのが、施術によって十二から十四の智恵を与えられたのだ。

 彼女達は正規の学徒から初等の教育を受けながら、乳母として勤めている。

 現状ではあくまで静養を兼ねた一時の処置という建前だが、当人達はここで働き続ける事を望んでいる為、近く正式に任じられる事になるだろう。

 静養と言いつつも働いているのは奇異な事だが、これも当人達の希望による。”怠惰は罪”という道徳律が骨身に染み渡っている和国の民草は、只のんびり休んでいる事に罪悪感を感じてしまうのだ。後の世で列強他国から”働き蜂”と揶揄される気性である。

 漆黒の肌を持つ者が数名混ざっているが、彼女達は下腹が膨れておらず、着用する紗麗サリーも絹製である事から、乳母の指導を担う正規の学徒である事が解る。

 二人が屋内の乳児達を見て回っていると、背後から野太くのんびりした口調の女の声がした。


和修吉ヴァースキ師、御無沙汰しとります」


 振り返ると、そこには白く大きな狼の姿があった。

 顔つきはいかにも獰猛だが瞳には理性が宿り、躰の大きさはほぼ白虎と同じ程だ。神属の一種族”人狼”である。

 白虎同様、人狼の女性は乳幼児の養育に高い適性を持つとされ、神属の間では乳母の役を担う事も多い。

 彼女が阿瑪拉アマラ。一門の学師であり、児童養育の統括を任されている重鎮の一人である。

 言仁の乳母役を決めるにあたり、阿瑪拉アマラも有力な候補の一人であった。

 一門と近衛という”組織”、そして人狼と白虎という”種族”。将来にわたる多大な影響力を得るであろう役を巡り、水面下での駆け引きが激しく演じられ、言仁の乳母役を得たのは近衛筆頭の英迪拉インディラである。

 それと引き替えに、阿瑪拉アマラは次代の臣民養育を担う地位を得たという訳だ。

 裏方の役回りではあるが、皇国への影響力という面では、言仁の乳母役と比べても遜色ない。阿瑪拉アマラは実を取ったのである。


阿瑪拉アマラ師、突然に押しかけて申し訳ない。件の赤児を早々に引き渡したかったのでな。長く答志島に置いておく訳にもいかぬ」

「ええですよ、儂も例の赤児を早う見たかったんですわ」


 阿瑪拉アマラは、奥妲アウダが抱く赤児の顔を覗き込んだ。

 赤児は怖がる事無く、肉食獣たる阿瑪拉アマラの顔を撫でてはしゃぐ。

 その無邪気な態度に阿瑪拉アマラは感心し、抱く奥妲アウダは内心で胸を撫で下ろす。どうやら、赤児は阿瑪拉アマラに懐きそうだ。


「儂を全く恐れないとは、全く剛胆な児ですわ」

「うむ、導師の眼力を受けても微笑んだ程だ。人間はもとより、並の神属では手に余るだろうが、阿瑪拉アマラ師ならば任せられる」

「まずは、乳を与えんと」


 阿瑪拉アマラは、部屋の奥にしつらえてある、獣形の種族、要は自分の為の寝座へと二人をいざなうと、そこに寝転んで腹を見せる。


「さあ、その児を儂の腹へ」


 奥妲アウダは言われるまま、抱いていた赤児を阿瑪拉アマラの腹に添わせた。

 赤児は腹をすかせていた様で、すぐに巨大な狼の乳首の一つに吸い付き、喉を鳴らして乳を飲み始めた。


「力に惹かれる子の様ですわな。人間は元より、神属であっても弱いもんは歯牙にもかけんでしょう」

「傲慢な性根を持っているのでしょうか……」


 乳を飲ませながら、赤児に対する見立てを語る阿瑪拉アマラに、奥妲アウダが心配そうに尋ねる。なまじ強い資質を持つだけに、皇国臣民にあるまじき心を備えているとなれば、将来の災いになりかねない。


「その気もありますけど、育て方次第ですわ。無闇に威張らず、弱いもんを護る風に躾ければ、きっと良い武官になりそうですわ」

「ほう、武官。そう見立てたか。詳しく聞かせて欲しい」


 女児に対し、あえて武官に向いているというならば余程の適性があるのだろう。

 和修吉ヴァースキは先を促した。


「智恵は常人が十に対して、この児は十五。一門の学徒も充分勤まりますけど、躰も頑健で、夜叉ヤクシャ並の膂力もありますわ」

「素で、ですか? 法力を使わずに?」

「勿論ですわ」


 奥妲アウダの疑問に、阿瑪拉アマラは頷いて肯定する。

 夜叉ヤクシャは人間と同じ体格だが、膂力は倍以上に強い。阿羅漢アルハットであれば法力を使う事で、一時的に怪力を振るう事も出来なくはない。だが、この赤児はそれをせずとも夜叉ヤクシャと互角だというのだ。


「ですから、この児は学者や文官より武官に向いとります。水軍も近衛も、きっと欲しがると思いますわ」

「そこまでの資質であれば、導師も放したがらぬだろうな」

「解っとらんなあ、和修吉ヴァースキ師」

「ふむ?」


 思わぬ同僚の言葉に、和修吉ヴァースキは怪訝な顔をする。


「ここで育てた子はどこに行こうと、一門の紐付きですわ。赤児の内から一門の教えを刷り込むんですからなあ。有為なもんを一門自身で独り占めするより、むしろ適当に散らした方がええんですわ」

「成る程。いずれ皇国の臣民は、その殆どが一門の育てた者となる。さすれば……」

「そういう事ですわ」


 子の養育を支配する者は、実質的に国の将来を握ったも同然である。

 弗栗多ヴリトラ・言仁の皇帝夫妻すら、計都ケートゥの教え子として、説かれた教えに添う形で政の采配を振るっているのだ。

 阿瑪拉アマラ和修吉ヴァースキは、互いの顔を見合わせて不敵に唇を歪めた。

 一門こそが皇国なり。

 それを側で見る奥妲アウダもまた、学師達が見せる野心に心酔する。

 赤児は大人達の目論見を知らぬまま、満腹して寝息を立て始めた。



*  *  *



 眠った赤児を乳母達に任せると、三人は乳児舎を出て、阿瑪拉アウダの屋敷へと場所を変えた。

元は菅島の網元の屋敷だった建物で、伊勢本土の揃って粗末な庄屋屋敷よりは、幾分か立派な造りである。

 屋内の部屋は、精巧な刺繍が施された絨毯が敷き詰められている。波斯ペルシャの産物であろうが、当然ながら貴重な飛行絨毯ではなく只の豪華な敷物だ。

 これは九鬼水軍の蔵にしまわれていたのを押収した物で、要は戦利品である。恐らく、元は陸路で波斯ペルシャから明国に運び込まれた交易品が、さらに和国へと流れて来たのだろう。

 絨毯へ寝転んだ阿瑪拉アマラは、客人二人にも座を勧める。

 和修吉ヴァースキ蜷局とぐろを巻き、奥妲あまら胡座あぐらでそれにならった。

 三人共が落ち着いた処で阿瑪拉アマラの口から出たのは、溜息交じりに苦境を訴える言葉だった。


「まあ、さっき言った様な、景気がいい皮算用はともかくとして。養育の統括としては問題が山積みですわ」

「というと?」

「はっきり言って、手が足らんのですわ」


 一門による当初の目論見では、次代を担う赤児の養育に際し、必要な乳母の多くは一揆衆の女子から選抜する事になっていた。

 しかし、その殆どが勅令に反したとして処罰された事で、そこから人員を調達する事が出来なくなってしまったのである。多くの者は罪一等減じて宮刑で済ませたが、信頼が置けない者を養育に関わらせる訳には行かない。

 平家の女子については、一門自身が産んだ赤児を任せる事になっているので、乳母を募る先としては除外されてしまう。

 また、勅令に従い罰を免れた荘園の民についても、耕作の人手不足を申し立てて来る様な現状では、女子を引き抜いて来るのは無理筋だ。


「乳母の不足は計都ケートゥ師も承知しておいでだ。故に、先日に施術して智恵を与えた、元の軽愚。あれらを阿瑪拉アマラ師の下につけたであろう?」

「三百名余りですわな。んで、登用した乳母への指導役として用意してあった学徒が五十名ですけど、これは勘定に入れません。赤児四名に乳母一名をあてがいますから、一千二百名の赤児しか見れん訳ですわ」

「差し当たりはそれで充分ではないか?」

「齢十二まで育てるのに? 育て終わるまで新たな赤児の石化が解けなくなりますわ」

「つまり、毎年、新たに石化を解く乳児の為に三百名程の乳母を登用せよという事か」

「最低でもそれだけいりますわ。三百を十二で掛けて、三千と六百。それだけの乳母を十二年掛けて揃える訳ですわ。その後は育てた童の内から、乳母として残るもんを募って増やすというのが、儂の目論見ですわ」

「ふむ…… 乳母をどこから持って来たものかな」


 他州から連れて来るにしても、賤民を蔑視しないという絶対の条件にかなう者は多くないだろう。

 加えて、弗栗多ヴリトラは他州や幕府、朝廷等からの間諜が紛れてくる事を警戒している為、触れ回って人材を募る訳にもいかない。表向きは伊勢を他州から閉ざしたまま、眼を着けた者を密かに一本釣りするしかないのである。


「で、では! 先に苦力として千人登用し、荘園に送り込む事と決まった男子の様に、国元の旃陀羅チャンダーラから募っては如何でしょう?」


 二人の学師の話を黙って聞いていた奥妲が、すかさず声を出す。本国の同胞を少しでも救い出す機会を、彼女は決して逃さなかった。

 これまで弗栗多ヴリトラは本国の人間を伊勢へ入植させる事に否定的だった。しかし、勘定方の独断専行と言仁の追認によって、既に先例が出来ている。和修吉ヴァースキがそれに手を貸していた事もあり、奥妲アウダは二つ返事が得られる物と確信していた。

 だが、和修吉ヴァースキの口からは、意外にも渋る言葉が出る。


「乳母となると、一門に名を連ねる事になる。苦力の様な訳にはいかぬぞ。既に補陀洛ポータラカでは、阿羅漢アルハットの資質を持つ旃陀羅チャンダーラ首陀羅シュードラの女子は、あらかた学徒として登用してしまったからな」

「駄目ですか……」


 意気消沈する奥妲アウダだが、阿瑪拉アマラの見解は和修吉ヴァースキとは異なっていた。


阿羅漢アルハットの才は無くてもいいですわ。実際、導師が廻してくれた、元の軽愚。あれらは法術を使えんけれども、それで乳母の役目に不自由はないんですから」

「そ、そうですよ、和修吉ヴァースキ師!」


 奥妲アウダ阿瑪拉アマラの言葉に縋り付き、和修吉ヴァースキを必死に説得しようとする。その様子に和修吉ヴァースキは苦笑した。


「説得すべきは我よりも導師であろう? 阿瑪拉アマラ師はこの案、どう思われるか?」

「元は当人の罪でなくとも、心が荒んでしまっておるもんは使えませんわ。既に受け容れたもんの実の子も、棄てられたとかの怨恨が絡むかも知れんから駄目ですわ。その辺は原則通りに行きたい処ですなあ」

「資質はどの様に問われるか?」

「躰が丈夫なのも当然として。少なくとも十二位の智恵は欲しいですわな。乳離れした童に、読み書きや算術の手ほどきをするのも乳母の役割ですから、ただ乳を飲ますだけのもんはいりませんわ」


 登用される乳母の大半は無学の為、赤児の世話の傍らで、一門の正規な学徒によって初等の学問を教えられる。

 当人の為だけでなく、島で育つ童達に読み書きや算術、そして修身等を説く師範を務め、また後進の乳母を先達として指導出来る様にする為だ。

 皇国において、”公の子”を預かる乳母は、決して人間社会の上流層が雇う”子守り”の様な末端の下働きではない。

 初等教育を担う、優れた智恵なくして出来ない職であり”皇道楽土”建立の要とすら言える。その重要な役をかき集めるのに苦心惨憺しているのが、伊勢統治の現状なのだ。


「ふむ。阿羅漢アルハットでなくて良いなら、そこまで絞っても数は揃うであろう。導師にはその様に申し上げる。主上はあまり良い顔をするまいが、先例もあるし、他に良策も見つからぬ故にな。後は我と導師に任せるがいい」

「助かりますわ」

「有り難うございます!」


 補陀洛ポータラカ本国の賤民を導入する案は、阿瑪拉アマラも考えてはいた。しかし、弗栗多ヴリトラの不興を恐れて言い出せずにいたのだ。

 皇族であり、計都ケートゥへの苦言も辞さない和修吉ヴァースキが同意見であれば心強いという物である。



*  *  *



 和修吉ヴァースキは答志島に戻ると共に、”公の子”の乳母として本国から賤民の女子を入植させる様、計都ケートゥに提案した。

 計都ケートゥもまた同様の案に至っていた為にそれはあっさりと通り、翌日には弗栗多ヴリトラの裁可を求めるべく、桑名の仮宮へと自ら赴いた。

 弗栗多ヴリトラは謁見に応じた物の、見るからに不機嫌そうな顔をしていた。


「良かろう。その様にせよ」


 弗栗多ヴリトラの態度から難色を示すのではないかと思っていた計都ケートゥだが、二つ返事での承諾に、不満は別の点にあったのではないかと推察する。


「何かあったのかしら? 話してごらんなさいな」


 計都ケートゥの問いかけに、弗栗多ヴリトラは渋々と口を開く。


「乳母の不足の件、坊の耳にも届いておった様でな。先刻の事じゃが、宮刑に処した者の内、若年の女子を充てられないかと戯言を吐きよったのじゃ」


 伊勢の民の大半は、賤民解放の勅令に反した罪で宮刑に処されている。刑を終えた上は日々の暮らしに戻っているのだが、前科のある彼等を次世代の乳母に任じる等とはあり得ない話だ。

 それでは子を引き離し、世代を区分する意味がない。悪しき因習、旧き価値観は、彼等が寿命を終えると共に滅ぶべき物だ。


「真子 ※卵巣 と子袋をえぐり取って女の機能を奪ってあっても、胸から乳が出る様には出来ますわ。けれども、小生は賛成出来ませんわね」

「そうじゃろう? あの様な屑共を乳母にすれば、下らぬ因習を次代の童に植え付けかねぬではないか! 全く、それが解らぬ坊ではあるまいに……」

「でしたら、国元から使える者を連れてきた方が良いですわね」


 微笑んで自案への賛意を確認する計都ケートゥに、弗栗多ヴリトラは改めて同意する。


「うむ。坊の愚策と比べるべくもないわ」

「では、その様にしますわね。ところで、活仏はどうしていますの?」


 当初の要件を片付けた処で、計都ケートゥは言仁の事を尋ねる。


「拗ねて寝室にに籠もっておるじゃろうて」


 弗栗多ヴリトラは顔を背けてそっけなく答える。もはや為政者同士の見解の相違による争いではなく、只の母子喧嘩だ。

 理は弗栗多ヴリトラの側にあるにせよ、褒められた態度ではない。


「あらあら。では小生が行きますわね」

「うむ。きつく叱ってやってほしいのじゃ」


 言仁をなだめるべく、計都ケートゥは皇帝夫妻の寝室へと足を向けた。



*  *  *



 寝室の前では、いかにも困った様子の英迪拉インディラが、襖の前で控えていた。


「ああ、センセ。坊がむずかっとるんですけど、主上が放っておけというもんで……」

「入って宜しいかしら?」

「まあ、センセならええですやろ。御願いしますわ」


 計都ケートゥが襖を開けると、言仁は部屋の隅で、置かれている机に伏し、むせび泣いていた。


「あらあら。世を統べる活仏ともあろう方が何をしていますの?」


 計都ケートゥが優しく問いかけると、言仁は袖で涙を拭い、顔を向ける、

 眼は真っ赤に充血し、髪も乱れている。


(静かに理を説けば聞き分ける子なのに。弗栗多ヴリトラは頭ごなしに怒鳴ったのでしょうね)


 ここに至る状況を推察し、内心で嘆息しながらも、計都ケートゥの顔は微笑んだままだ。


「私は、私は…… 国の頂点にありながら、機会をとらえて過ちを犯した民を許してやる事もならぬのでしょうか……」

「貴方は優しいですものね」


 計都ケートゥは言仁の慈悲を認めながらも、優しく諭す。


「でもね、虐げられていた平家の者、そして旃陀羅チャンダーラから抜擢された学徒達の事を考えなさいな。愚かな民を安易に許してしまっては、あれ等はどう思うかしら?」

「は、はい…… ですが、乳母が足りぬ事は……」


 計都は、補陀洛ポータラカの賤民を乳母として導入する案を、言仁にも説明する。


「そうすれば、先の千人の少年達に加えて、より多くの旃陀羅チャンダーラが救われますわよ。それに比べて、宮刑を受けた者達はあのままでも寿命を全う出来ますし、飢えることもありませんもの。どちらを救うべきかしら?」

「わ、わたしが…… 間違っておりました……」


 落涙して詫びる言仁に、計都ケートゥは頭を撫でながら、残る腕で自らの衣の帯を解き始めた。


「さあ、聞き分けた御褒美ですわよ。貴方がいた場所に還っていらっしゃいな」


 素裸になった計都ケートゥに言仁は縋り付き、そのまま二人は床へとなだれ込んだ。


*  *  *



 計都ケートゥが言仁と語らう間、英迪拉インディラは寝室の前で近衛として控えていた。

 やがて二人のあえぎ声が聞こえ始めたが、英迪拉インディラは悶々とした気分になりつつも、立場上動けないでいる。

 そうしている内に、弗栗多ヴリトラが様子を伺いに訪れた。


「どうじゃ?」

「聞こえますやろ。乳繰り合っとりますで」


 英迪拉インディラは物欲しそうな視線を、寝室の襖へと向ける。


「センセにはかなわんなあ。坊はすっかり機嫌を直しとりますわ」

「師も妾達と同じく、坊の母の一人じゃからのう。全く妬けおるわ」

「坊を育てたんは主上とわてやけど、腹を痛めて産み直したんはセンセやもんなあ」


 言仁の養母は弗栗多ヴリトラ、乳母は英迪拉インディラである。

 加えて、計都は第二の生母というべき存在だ。言仁にとっては師弟の立場を超えて甘えられる相手でもあった。

 十七年前、言仁が補陀洛ポータラカで庇護されて石化を解かれた時。

 壇ノ浦で味方が次々と討たれていく様を目の当たりにしていた彼は、すっかり心が壊れて狂気に陥っていた。

 計都ケートゥは自らの胎内に言仁を収め、”還元”で赤児に戻し記憶を吸い取る事で癒したのだ。


「わて等、今からでもまぐわいに混ざったらあかんですやろか」


 浅ましげに涎を垂らす英迪拉インディラの頭を、弗栗多ヴリトラは掌ではたく。


「あたっ!」

「汝にも女の矜持があるじゃろうが!」

「せやけど、やりたいですやん……」


 叱責を受けても、英迪拉インディラはいかにも諦めきれない様子である。


「御愉しみは師が帰った後じゃ。今宵は二人で、坊のだらしない逸物に折檻しようではないかや?」

「んほうっ! んじゃ、今はセンセに坊を貸しといたるわ」


 にたりと唇の端を歪める弗栗多ヴリトラに、英迪拉インディラも同調する。

 すっかり牝の目になった二人は、夜に備えて胸を高鳴らせていた。



*  *  *



 およそ二月の後。補陀洛ポータラカから、乳母として登用された賤民の女達を載せた戎克ジャンクの船団が菅島へと到着した。

 一門の長である計都、そして学師や学徒達だけでなく、皇国の頂点である弗栗多ヴリトラ・言仁の二人も出迎えに訪れていた。水軍大将の茨木童子、そして平家の家長たる時子の姿もある。

 儀典という事で、港の周囲は英迪拉インディラが率いる近衛の白虎達が警護を固めていた。

 桟橋を渡る漆黒の肌の娘達は、虫けら同様に底辺を這い回っていた自分達を、皇国の中枢が揃って出迎えて来た事に動揺を隠せないでいる。

 その初々しい姿を見て、皇国の重鎮は揃って満足そうだ。

 皇道楽土に相応しい臣民を、無垢の赤児から育成する体制。その本格的な構築が、この人員補充により始まる事と成る。

 旧き世に生きる者の殆どは、いずれ皇国の敵として討たれ、あるいは捕らえられて贄となる。服従し”仮初めの民”として生きる事を認められた者も、人間の短い寿命を全うして世を去って行き、ここで育つ者達に街や村を明け渡す事になるのだ。

 和国だけではない。琉球、朝鮮、そして明、満刺加マラッカ暹羅シャム…… 東洋に存在する国々はその悉くが皇国に呑み込まれる事となる。

 貪欲な龍の巨体が西洋に及んだ時、皇国を出奔した末に羅馬ローマの将として立ちはだかる事になる赤児もまた、自らの運命を知らぬままに乳児舎で寝息を立てていた……。

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