第2話
女の馬車は騎馬に前後を挟まれる形で、先導されるままに側道を進んでいった。
母子が追われていた事情に関しては、交渉に予断を与えない為に着いてから話すという事になったので、道ながらの雑談は別の話題となる。
領主がふったのは、馬車を牽かせている馬についてだった。
「車を牽かせている巨大な馬だが、これは伊勢の特産かな?」
「いいや。天竺よりも遙かな西方にある
「
「それだけ遠いって事さ。隊商を組んで、明国との間を何年も掛けて陸路で往来してるんだよ。それだけ交易が儲かるんだけど、全く御苦労な事だね」
「島国の和国で天下を争う我等にしてみれば、遠い異国の事等、気の遠くなる様な話だ」
「それだけ世は広いんだよ」
和国の西方に位置する九州では、海を挟んだ隣国である明国や朝鮮国、琉球国との交易が行われているという事は、領主も知っていた。
高価な珍品として、交易品が尾州で流通する事もある。
しかし、彼等の様なある程度の知識や見聞がある武士階級でも、和国の民が実感出来る世界は通常そこまでである。
仏道発祥の地である天竺についても、伝承が入り交じった不確かな伝聞から想像するばかりだ。
まして、さらにその向こうに様々な国があるなど、彼等は思いも寄らなかった。
女の話が
龍神が伊勢の一揆衆を加護しているのは紛れもない現実で、伊勢から尾州へ落ち延びた神宮の者が、その恐怖を触れ回っている。
眼前にある巨大な馬や、”馬車”なる荷車も、和国にはなかった物だ。
領主達は、女の話の大きさに圧倒されていた。
「ところでお前様、もしかしてこの馬が気に入ったのかい?」
「これ程立派なら、騎馬として相応しかろうな」
「うーん、早駆けは苦手だから、騎馬には向かないよ? こうやって車を牽かせたり、田畑を耕したりするには向いてるけどね」
「左様か。しかし、
「輜重の事を気にしてるんなら、戦が近いと見ていいのかい?」
領主が口にした”輜重”の一言を女は聞き咎めた。
隣州である尾州が戦の準備を始めたのであれば、伊勢も相応の備えをする必要がある。
尾州が直接に伊勢に攻め入る様な無謀に走るとは思えないが、標的が他州であっても、商業や物流への影響は必至となる為だ。
「そういう訳では無い。戦国の世故、いつ出征を求められてもいい様にせねばな」
領主は女の懸念を察し、笑って否定した。
話している内に川が見えて来た。
荷車が通っても大丈夫そうな、屈強で幅の広い橋が架けられていた。
川向こうには用水が引かれ、水田が広がっている。
川岸の水田側のみに堤が築かれているのは、増水時に水田側が被害に遭わない様にしてあるのだろう。
「ここから先は我等が領地。心されよ」
一行は領主の屋敷に着いた。
出迎えの家人達は馬車を見て一様に驚いていたが、伊勢の薬種商である旨を説明すると納得していた。
母子を降ろそうと、門の脇に止めた馬車に郎党達が近寄ったが、女は手を挙げて制止した。
「そいつには盗難除けに法術が仕掛けてあってね。不用意に入ると、この二人みたいに眠ってしまうよ」
「法術とは、狐狸妖怪の類が使うという妖術の様な物か?」
「ま、和国の術についてはあまり詳しくないけど。使う理は似てると思うよ。要は龍神様の加護だね」
「むう…」
「勿論、あたしは大丈夫な様にしてあるよ」
女の解答に、領主は半信半疑だった。
ただ車中で眠っているのを、人外の術のせいだと言われても、にわかには信じ難い。
女は馬車の中に入り、まず赤子を抱え出して郎党に渡し、ついで武家の娘を抱えて連れ出した。
「はいよ、眠ってるだけだから、布団を敷いて寝かせてやるんだね」
家人が用意した戸板に乗せられ、武家の娘は屋敷の奥に運ばれていった。
軽々と人一人を抱える女に、周囲は驚いた。
長身だが華奢な体躯の女に、とてもその様な力がある様には見えない。
「華奢な割に力があるな。百姓女ならともかく、行商でそこまで力がつく物なのか」
「そりゃ、人間の女と一緒にしてもらっちゃ困るよ」
「”人間の”とはどういう事だ?」
女の何気ない一言に領主は怪訝な顔をし、女は慌てて口元を抑えた。
「あちゃあ…」
「詳しく聞かせて頂こうか」
領主が厳しい顔つきで詰め寄ると、女の額からは二本の鋭い角が生え、唇からは牙が覗いた。
「まあいいさ、これがあたしの正体だよ」
「おのれ、夜叉風情が、たばかったな!」
女の正体を見た領主は即座に刀を抜き、周囲の郎党も呼応して女を取り囲んだ。
「おやおや、あたしが人間じゃないからってその仕打ちかい。お互い言葉が通じるんだから、穏やかに行きたいもんだねえ?」
「夜叉と言えば人食いの外道。交わす言葉は持たぬ!」
夜叉というだけで態度を一変させた領主の態度に、女は内心で落胆しつつも穏やかな口調で応じたが、領主は刀を向けたままだ。
「忘れたのかい? あたしは伊勢の者。龍神様の眷族だよ? そこらに潜んでる、野良の同族と一緒にしてもらっちゃ困るねえ」
「夜叉は夜叉!」
「その夜叉を相手に備えもなく、力づくで勝てると思ってるのかい、お前様方は?」
龍神の名を出しても退かないなら、伊勢に弓を弾いたと同義である。
女の側としても、実力行使は避けられない物となった
「問答無用! 斬り捨てよ!」
領主の号令に、郎党達は一斉に女へ斬りかかろうとしたが、そのまま動けなくなってしまった。
「こ、これはどうした事だ?」
「お前様方の手足、動かないだろう? これも法術さ」
「卑怯な…」
「話し合う約定を反故にして、女一人に大勢で斬りかかって来るのとどっちが卑怯なのさ?」
自分のした事を棚上げして罵る領主に、女は嘆息した。
「ここで我等を屠れば、尾州と伊勢との戦になるぞ…」
「尾州が馬鹿でないなら、勝てぬ戦を仕掛ける物か。お前様方が勝手にした事として始末をつけ、伊勢に詫びを入れるだろうよ。さっきも言ったじゃないか、守護にとって地侍は眼の上の瘤なのさ」
自らも動きを封じられている領主は、絞り出す様に恫喝の言葉を放ったが、女は冷徹に相手の立場を指摘した。
「こうしていても埒があかないねえ」
女が指を鳴らすと、領主以下の武士達の腕が勝手に動き、刀を鞘に収めてしまった。
「さて、もう動ける様になったろう。お前様方、二度目はないよ?」
郎党達は身体の戒めが解けた事に気付いたが、呆然と立ち尽くしていた。
再び斬りかかろうとする様な度胸はもちろんない。
「不覚…この上は、我が首で事を収めて頂きたい…」
領主はうなだれるとその場に座り込み、郎党の一人に視線を送った。
それを受けた郎党は、領主の背後に立った。
領主は”切腹””割腹”等と呼ばれる、和国の武家作法に従った自害をするつもりである。
自らの刀で腹部を割き、とどめとして介添人に首を刎ねさせるのだ。
「止めなよ。面倒なのは勘弁して欲しいからね」
「しかし、このままでは面目が立たぬ!」
「お前様の首を差し出されても、あたしにとっちゃ迷惑なんだよ。あたし達は一揆衆。お武家様とは物の価値が違うんだ」
武士が命をもって償うという申し入れを、女は無価値として一蹴した。
武士は命よりも面子を重んじる価値観を持つ。
対して、一揆衆が支配する伊勢は実益を重んじる。
「では、どうしろと…」
「伊勢に刃向かえばどうなるか、お前様方が思い知ったんならそれで充分さ。勝手に死なれちゃ、誰も得をしないからねえ」
クスクスと嗤う女に、人外の存在たる夜叉からすれば自分達は相手にならない事を思い知り、領主は無力を噛み締める他なかった。
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