第2話
元締めの宿は、馬を預ける厩がきちんと備わっていた。
馬を利用する階層は主に武家だが、彼等を対象とする宿なら、装飾にも趣向が凝らしてある場合が多い。
しかし、この宿は地味な造りである。
宿場の元締めが直営している事を考え合わせて、どの様な客が利用する宿なのか、女には測りかねた。
「客筋はどんなだい?」
「手前の宿は、武家や商家が走らせる伝令を主な相手にしておりましてね」
「なら、銭払いも良さそうだね。それに大事な書状を携えてるから、うかつな宿には泊まれないってもんだ」
「良くお解りですな。お武家様を客筋にしますと、色々と格式やらうるさくて、商売としては旨味が薄い。そんな商売は、見栄を張りたがる新参に任せておけば良いのですよ。その点、身分としては小物の伝令が相手なら、格式に気を遣う必要も無いという訳です。それでいて、銭は持っていますからな」
「考えているねえ。いいのかい? あたしなんかが泊まっても」
「伊勢の薬座の方なら、特上のお客様ですとも。是非ともご
女は宿の部屋へと通された。
中は意外に豪華で、板間が多いこの時代にあって、総畳敷きである。
「こりゃあ…凄いねえ…」
「当宿の自慢でございますよ。くつろいで頂くには、部屋の中身をしっかりとしませんとな」
女は素直に感嘆した。さぞ宿泊客の評判も良いだろう。宿代が高かろうと、伝令であれば自腹ではない。
しかし、行商人の場合はそうはいかない。
座の鑑札があるとはいっても、あくまで座は同業者の団体だ。かかる経費は行商人個人の自弁である。
「外側に比べて、中身は贅沢じゃないか。さぞ宿代も張るんじゃないのかい?」
「こちらがお招きしたのですからご心配なく」
「あたしの事じゃないさ。もし伊勢の者を客としてあてこんでるんなら、高いのは一寸ねえ。あたし達は自前で商いをしてるんだから、勘定を雇い主が持つ使い走りとは違うんだよ」
「今日のご相談次第で、伊勢の方については今後とも宿代を勉強させて頂きますとも」
この宿場街は、一揆勢が治める伊勢の新体制に接近したい様だ。
ともあれ、女は話を聞く事にした。
「それで、どんな案件だい?」
「手前どもの様な宿では、給仕をする飯盛女に、宿泊客の夜の相手もさせている事はご存知かと思います」
「ああ。宿屋がそういう女を用意してくれているお陰で、色欲に負けて通りすがりの女を手込めにする様な阿呆が減るんだから、文句は言わないよ」
「女人の方にそうおっしゃって頂けると助かります。ですが、春をひさぐ商売にはつき物の、困った事がありましてな」
「思い当たる事は幾つもあるけれど、薬座に話を持って来るという事は…花柳病 ※性病 だね?」
「はい。大きな声では言えませんが、実の処、飯盛女の半数がこれにやられます。これまでは効能のある薬もなく、客も承知の上で女を抱くのだからと諦めておりましたが。龍神様が良い薬の処方をお伝えになったと聞きましてな。是非とも、お分け頂きたいのですよ」
「まあ、花柳病の薬は一応あるけれども」
薬座は花柳病に効く薬も備えている。
旅先で拾った花柳病を家に持ち込まぬ様、帰宅してすぐに飲むというのが、薬座の推奨する使用法だ。
「本当ですか! それは幸い」
「でもねえ。治してもすぐにまた移されちまうよ?」
「伊勢の薬は一服百文と伺っております。民百姓ならともかく、手前どもの様な商売なら手の出ない値ではありませんので、何度でも飲ませれば良い事です」
「どうせ薬代も、女の前貸し金に上乗せする気なんじゃないのかい? そんな事をしたら、年季明けがどんどん伸びちまう一方さ」
「そこは商売ですからな。そちらも、薬が多く売れれば儲かるではありませんか」
「商売とはいえ、同じ女としちゃあ切ないねえ。ちなみに龍神様も雌龍だから、同じ事を言うと思うよ」
「左様ですか…」
「年季明けで足を洗う時に飲ませてやるってんならいいけど、そこまで生き延びる女は少ないだろう?」
「はい。大概は病が進んで使い物にならなくなって、年季前でも解き放つ事になりますな」
飯盛女は大抵の場合、前貸金で拘束されていて、五年から十五年が年季である。
だが、花柳病の病状が進み、腫瘍が目立つ等して客を取れなくなれば、その時点で残金の返済を免除の上で放り出される場合が多かった。
放り出された飯盛女は、程なく野垂れ死ぬ事となる。
「しかし、お分け頂けないとなると、病に斃れる飯盛女どもを見捨てる事になりませんかな? 龍神様もそれはお望みにならないでしょう」
「そうだねえ…」
「薬の代価は前貸金に上乗せせず、店側でもつ旨の約定を交わすという辺りでいかがでしょう?」
「銭の問題なら、その条件でいいけどね。もう一つ厄介事があるんだよ」
「何ですかな、それは?」
「あの薬には難点があってね。繰り返し飲むと効かなくなってしまうんだよ。せいぜい年一回。それより間を置かずに飲むと、二度と効かなくなっちまうのさ。だから飯盛女に与えるなら、解放する時位しか使い処がないんだ」
「あてが外れましたな…」
元締めは明らかに落胆した様子だった。
使い潰していた飯盛女を少しでも長く使える様に出来れば大きな利益になるのだが、目論見が崩れてしまったのだから無理もない。
酷い時には、水揚げから一年も経たない内に花柳病が重くなり、前貸金を殆ど回収出来ないままに放逐せざるを得ない飯盛女すらいるのだ。
「まあ、別の手もあるけどね」
「本当ですか?」
「まずはこれを見ておくれよ」
女は、手荷物として部屋に持ち込んだ包みの一つを解いた。
中には、円筒状の漆塗りの器具が二十本程入っていた。
長さ四寸、太さ一寸五分程。片側の先端は丸くなっていて、中央に小さな穴が空いている。
「何だか解るかい?」
「張型…ですな」
張型とは男根を模した女性用の自慰具で、夫を失った寡婦を主な対象として小間物屋等で密かに売られていた。
大量の張型を見て、元締めは怪訝な顔をした。
「こんな物を使うまでもなく、飯盛女どもは生の逸物を毎夜くわえ込んでおる訳ですが。それをどうするので?」
「慰める為に使うんじゃないさ。これの中には、さっきお前様と話していたのとは別の薬がつまっていてね。こいつを女陰に刺して、子袋に注いでやるんだよ」
「それが花柳病に効くという訳ですか。先の薬の様に、年一度しか使えないという事はないのですな?」
「というより、こいつはただ花柳病が治るだけじゃなくてね。およそ十月の間、花柳病にかからなくなる効能があるのさ」
「まさしく手前どもが求める薬ではないですか! 成る程、欠点を補った新薬という訳ですな?」
「本来、花柳病の薬じゃなくってね。ただ、今言った様な効能もあるってだけさ。これはこれで、本来の効能がちょいと面倒でね」
「治るんなら何があっても構いやしません。是非、お分け下さい!」
「龍神様に誓って二言はないね?」
「あの、それで値の方は如何ほど…百文でしたな?」
「威勢のいい事を言う前に、肝心な事は最初に聞くもんだよ?」
「いえ、つい…」
元締めは冷や汗をかいた。
他の薬が百文だからといって、この薬がそうとは限らない。値を聞く前に、商談の約定を交わしてしまうところだったのだ。
女がその気なら、売買が成立した後出しで、売価を吹っ掛ける事も出来ただろう。
口頭だからといって前言をひるがえせば、薬座の背後に控える龍神からどんな神罰が下されるかわかったものではない。
「喉から手が出る位に欲しいってのはわかるけどね。こいつも他の薬同様、一本百文さ。さっきの話通り、払うのは店側で、女の前貸金に含めるのは駄目でね」
「ええ、勿論。で、では、効能の方をお見せ下さいませんかな?」
「そうだねえ。じゃあ、病気持ちで放り出すしかない様な女を一人用意しておくれ。そいつで試してみるからね」
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