第2章 宿場街の飯盛女
第1話
統一政体である幕府の統治能力が衰え、和国は事実上の小国分立状態に陥っている。
しかし、安定期に幕府によって整備された街道は生きており、それを利用した人々の往来も続いている。
その様な旅人の需要に応える為、街道沿いには宿場街も栄えている。
また、宿場の女給、いわゆる飯盛女は、宿泊客に春をひさぐ娼婦を兼ねている為、宿場街は廓街としての側面もあった。
女が訪れたのも、その様な宿場街の一つである。
ただ、女が宿泊するには、少々厄介な条件があった。
まず、馬を繋げる
さらに、宿が廓を兼ねている為、女客を泊めたがらない宿が少なくない。
廓としての機能が無く食事も提供しない、木賃宿と呼ばれる素泊まりの宿もあるのだが、この様な宿には厩はない。
「馬車は野宿なら雨風がしのげるから便利だけど、宿に泊まるとなるとかえって面倒だねえ」
まず町外れに荷車を駐め、宿を物色しようかと思った処。
羽織姿の壮年の男に呼び止められた。
「もし、そこの伊勢の方」
男は旅装ではないので、一目で地元民と解る。
また、体格は中肉中背で、食に困らぬ暮らしをしている事が伺われた。
見た処、羽振りの良い商店主辺りといった処だろうか。
女は、自分の素性を言い当てたこの男に興味を抱いた。
「へえ、一目であたしの邦が解るのかい?」
「馬に牽かせた荷車に乗っておるのは、伊勢の商売人か荷役位ですからな。件の龍神様がもたらした、天竺からの伝来品と聞いておりますが」
「馬車というんだよ。龍神様は天竺の出だけど、これは明国からの舶来品が元でね。伊勢で真似て造った物さ。和国じゃ馬に車を牽かせる事はないけど、明国じゃ当たり前だそうだよ」
「本邦では、牛以外の畜生に車を牽かせる事をはばかる向きがありますからな」
和国では、外来の信仰である”仏道”の影響で、獣の殺生や酷使が忌避される傾向がある。
その為、文明の発達度に反して、家畜による荷車や客車の牽引が普及していない。
かろうじて、仏道伝来以前からある牛車が存在するが、それ以上の発展が妨げられたのだ。
もっとも、和国に仏道をもたらした明国、あるいは仏道の広まったその他の国においてはその様な事はない。
あくまで和国独自の仏道解釈によった物である。
伊勢の一揆衆を束ねる頭目は、これをただの因習・偽善でしかないと喝破し、馬を牽引に積極利用する方針を出していた。
「馬鹿馬鹿しい事だよ。家畜は使う為に飼うのにねえ。牛は良くて馬が駄目って道理は通らないよ」
「全くですな。こういう荷車…馬車、でしたか。これがもっと広まれば、商いもやりやすくなりますからな」
他州の民の中には、伊勢からの旅人が使う馬車を見て、馬を酷使する非道として眉をひそめる者もいる。
直接に抗議する者がいないのは、商売相手としての伊勢の機嫌を損ねたくないという打算、そして一揆勢を加護しているという龍神を畏れている為である。
だがこの男は、旧来の倫理感に縛られず、純粋に馬車の利便性を称賛している。
慣習に囚われずに新しい物へと目をやる態度に、女は好感を覚えた。
「そう思うなら、伊勢で独占するつもりはないから真似りゃいいさ」
「他州でも馬車が増えれば、それが通りやすくなる様に道の手入れも進みますからな」
「わかってるじゃないか」
馬車を運行しやすくする為には、道の整備が不可欠である。
現状でも荷車が通れる程度の道幅はあるのだが、主要な街道を除けば馬車同士がすれ違える程ではない。
また、道が充分に馴らされていないので、車輪が凸凹によって振動し、乗り心地も悪い。
伊勢の馬車は、妖の能力として行使する”法術”で乗り心地を緩和しているが、それを使えない他州が馬車を導入するのであれば、必然的に道の改良も進むだろう。
法術は便利な一方で代償もそれなりにある為、それを使わずに馬車を利用出来る環境が整えられるのは、伊勢としても望ましい。
「それにしても、伊勢の者がこいつを使って他州に出る様になってから、せいぜい一月だってのに。お前様は随分と知ってるねえ」
「ここは街道沿いですのでね。貴女は薬座の方とお見受けしました」
「伊勢でも行商人に女を使うのは、今のとこ薬座だけだからねえ」
「左様ですな」
行商人は野盗にとって格好の餌食である。
それにもかかわらず伊勢の薬座が女性も行商人に使うのは、薬種商に対する各州の保護が手厚く、往来の安全が保証されている為だ。
他業種においては、伊勢と言えども行商人は専ら男性の職となる。
つまり、女行商人がいれば、伊勢の薬種商とみてまず間違い無い。
「ところでお前様は?」
「申し遅れました。手前はこの宿場街で、宿座の元締めをしている者です」
男は素性を名乗ると、改めて深く一礼した。
「へえ、なら丁度いい。馬車と馬を預けられて、女客を断らない宿を紹介してくれると有り難いねえ」
「では、手前が営む宿はいかがでしょうか。ご相談したい事もございましてな」
女は元締めに案内され、彼の経営する宿へと馬車を向かわせた。
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