20 たなごころ
「千栄!」
扉が開くと同時に大声で彼女の名を呼ぶ伸雄は、急いでやってきたのだろう。乱れた髪型と額の汗がそれを物語っていた。荒い息を整えながら店のなかへ足を踏み入れる伸雄に、高臣は水を差し出した。悪い、と短く詫びを入れ一気にグラスを傾けると、伸雄は彼女の足元へ膝をついた。
「大丈夫なのか、千栄。吉平から連絡もらってびっくりして……」
彼女は唇をきつく結び、恐るおそるといった様子で伸雄を見る。
「ごめん、ノブくん。なにも言わないで飛び出してきちゃって」
「……反省しているようなら、俺はなにも言わないよ。それより、吉平が一大事だ! なんていうから、てっきりもっと具合が悪いのかと思ってたんだけど、もう平気なのか?」
労わる伸雄は、見ているこちらが照れてしまうほど彼女に必死だった。
吉平のことだから急かすようなことを言ったのだろう。それでなくても伸雄のことだから、彼女のことを心底心配して駆けつけたに違いない。
彼女の瞳が小さく揺れる。
不安と動揺。
傍で見ている高臣にも、彼女の緊張が伝わってきた。
「平気といえば平気だけど……」
はっきりしない物言いに、伸雄だけでなく高臣も彼女を注視する。
握り合わせた両手を組み替え、深呼吸をしてから、彼女は伸雄の目を見て口を開いた。
「ノブくんに、伝えなきゃいけないことがあるの」
彼女は伸雄の右手を取ると、自身の腹部へゆっくり押し当てる。やがて両手で伸雄の手を握り締める。震えるその手は、まるで祈っているかのようだった。
「……ここに、あたしとノブくんの赤ちゃんが、います」
息を呑む音が聞こえた。それは伸雄が発したものか、彼女が発したものかわからなかった。
「すぐに言い出せなくてごめん。あたし、怖くて……ノブくんを信じてないとか、子どもが欲しくないとか、そういうことじゃなくて……! あたし、あたし……!」
声を詰まらせる彼女を、伸雄がそっと抱きしめる。
壊れ物を扱うみたいに。まるで綿菓子が萎んでしまわないようそっと包み込むように。優しい手つきだった。
伸雄はただ黙って彼女の身体を擦り続けた。
やがて伸雄はおもむろに力を込めて彼女を抱きしめると、囁くように言った。
「俺たちの子どもを宿してくれてありがとう、千栄」
ふゆと彼女がにこやかに会話を交わしている。その姿を眺める伸雄の表情も穏やかで、店内は和やかな空気が流れていた。
傍らに佇む高臣と吉平に、伸雄はぽつりと零す。
「……千栄はさ、両親にあまり愛されずに育ったんだ。親の無償の愛っていうのを懐疑的に見てしまうんだって、言ってたことがあってさ。だから俺が子どもの存在を喜べるかどうか、不安だったんだと思う。多分千栄自身も、母親になることへの不安とか恐怖とか、あるんだろうな」
彼女は言っていた。産婦人科で妊娠の知らせを受けたのは一昨日だったらしい。その日のうちに打ち明けようと思っていたが、なかなか言い出すことができなかったのだと。
「俺、本当はさ。千栄は俺と結婚するのが嫌になったんじゃないかって、そんなふうに思っちまったりしたんだよな。だけど俺は千栄と離れるなんて考えられなかったから、不機嫌な態度とられても、仕事の鬱憤が溜まってるんだろうとか、どうせ一時的なものだろうとか、そんなふうに思い込もうとしたんだ。そんなんだから、本当の意味で千栄の変化に気づくことができなかった。……千栄のこと、俺が一番わかってるつもりだったんだけどな」
苦笑する伸雄を一瞥して、高臣はふゆと彼女を見つめる。
前のめりになって話を聞いているふゆに、彼女は恥ずかしそうに、けれど微笑んで喋っていた。
穏やかな空気が、夜の静けさと重なって、高臣の胸にさらりと染み入っていく。
「……他人を、心底まで理解するのは、おそらく家族でも難しい。難しいというか、多分無理だ。だけど、互いを認め合おうとする気持ちを持つことはきっと無理じゃない。難しいけど、難しくもない……と、俺は思う。伸雄はそういう気持ちを持ってる。彼女もきっと持ってる。だから大丈夫だ」
子どもを育てるという苦労も、難しさも、きっとふたりなら乗り越えて喜びに変えていけるだろう。高臣はそう信じている。
「お前は良い夫、良い父親になるよ」
おめでとう、と言うと、伸雄は照れくさそうに破顔した。
彼女が落ち着きを取り戻してしばらくすると、ふたりは桜木堂を去っていった。
去り際彼女が「今度は一番美味しいシナモンロールを食べにくる」と、笑顔で言ってくれたことが嬉しかった。
「伸雄さん、とても嬉しそうでしたね」
店内を箒で掃きながらふゆは笑う。
閉店業務を締めくくるのは、店内の掃除である。高臣はふゆと吉平とともに、店のなかを整えていく。いつもは疲れ切った果ての掃除になるが、今日はその疲れもどこかすがすがしく感じられる。平台を拭う高臣の動きはいつもより軽やかだった。
「いやホント、アイツ子どもにデレデレになりそうだよね」
吉平の想像する伸雄の未来が、高臣にもはっきりと脳裏に浮かぶ。息子でも娘でも、伸雄は子どもを可愛がることだろう。近い将来、そんな姿が見られるはずだ。微笑ましい光景を想像して、高臣はふっと微笑する。
「……俺はあんなふうに喜べるんかねえ」
箒の柄を持つ手に顎を乗せて、店の窓から外の風景を眺める吉平がふと呟く。
高臣は弟を横目見る。いま、吉平はひとりの男を思い浮かべているのだろう。おそらく、それは自分が心に描く人物と同じだろう。
常に縦皺を刻んでいた眉間。硬く結ばれていた唇。神経質に整えられていた寝癖のない髪型。皺の少ないスーツ姿。そしてなによりも高臣の記憶に居座り続けるのは、こちらを侮蔑するように見つめる、暗い光を宿した切れ長の瞳――
瞬間、息が詰まりそうになる。高臣は咄嗟に目を閉じた。
もう痛みには充分に慣れたと思っていたのに。いまさら、傷ついたみたいに胸が痛むなんて。
無意識に、布巾を握る手の力が強くなっていたらしい。
そう気づいたのは、小さな温もりを掌に感じたからだった。
瞼を開けば、心配そうにこちらを見つめるふゆと目が合った。
「大丈夫ですか?」
八の字眉のしたで潤む大きな瞳が、高臣を気遣っている。
「ああ……悪い」
不安にさせまいと、何でもないと振る舞う高臣だったが、ふゆの目は高臣をじっと見つめたままだった。
小さな掌が高臣の手を握り締める。
僅かな動揺もふゆには気づかれてしまう。それが申し訳ないような、けれど気遣ってもらえることが嬉しいような、複雑な気分になる。
真摯な瞳が、高臣だけを見ていた。
……どこまでも真っ直ぐなんだな、ふゆは。
ふゆの頭に手を伸ばそうとしたとき、傍らの吉平が声をあげた。
「なになにー? 高臣、もしかして風邪でも引いたんじゃねえだろうな?」
からかうように問う吉平に、高臣は伸ばしかけた手を引っ込めた。
「それはこっちの台詞だ。近頃くしゃみしてたのはお前だろう」
「そりゃ寒かったらくしゃみは出るでしょ。別に俺は風邪ひいてないし」
と言った傍から、吉平はくしゃみを連発させる。ずずっと洟を啜りつつ「いや風邪じゃないから」と言い訳がましい。
鼻の頭を赤くさせる吉平に、ふゆが甲斐甲斐しくティッシュペーパーを手渡している。
これはさっさと掃除した方がよさそうだ。とっとと片付けてアパートで暖をとるにかぎる。本当に風邪を引かれては一大事になってしまう。
高臣らはいつもより素早く作業を行った。
むくれた顔をして箒で床を掃いている吉平を、高臣はそっと盗み見た。時折くしゃみをする姿に、「本当に風邪じゃないだろうな」と心配になる。
危なっかしい姿を見つめていたら、高臣は再び囚われていた。
――いまでも吉平は、あのひとのことを……。
再度記憶に蘇るのは、切れ長の瞳の男。高臣と吉平にとって、深い係わりのある人物。
たとえ思い出を切り離したとしても、男の影は色濃くつき纏い、折に触れて高臣を苦しめるだろう。
男はそれだけのことをし、事実高臣は傷つけられた。
忘れたいのに。憶えていたくないのに。――なかったことにはできない。
高臣は深呼吸を繰り返す。
大丈夫。ここにあのひとはいない。もう俺は、あの頃のように何もできなかった小さな子どもじゃない。
ふと視線を感じ目を向けると、部屋の奥で床を掃いていたはずの吉平が、いつの間にかこちらにやってきていた。
ふくれっ面はそのままに、吉平はぐーにした手を突き出した。何事かと疑う間もなく、無意識に右手を差し出した高臣に、吉平は思いきり掌を打ちつけてきた。
バシッ、と高い音が鳴り、強い衝撃が高臣の右の掌を襲う。ビリビリする痛みに思わず呻き声をあげると、吉平は面白そうにニヤリと笑った。
「掃除サボってるひとへの罰でーす。さっさと手を動かしてくださーい」
「……少しは手加減しろ」
恨みがましく睨むと、吉平は顔を背ける。
「手加減なんかしたら、いつまでもこっちに戻ってこないだろお前」
ぼそりと言うと、吉平はまた店の奥へと舞い戻る。高臣は目を瞠る。咄嗟に声をかけることができなかった。
吉平の後ろ姿をしばし見つめる。
高臣は掌をぐっと握ると、今度こそ掃除の手を止めることはなかった。
ふゆとさくら 星埜ロッカ @hoshinorocca
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